1060年

アンリ1世

(1008 - 1060)

フランス王

フランス王
カペー朝第4代国王として1031年から1060年まで在位し、公権力の強化と領地統治の基盤を築いたフランス王。
アンリ1世(1008-1060)はカペー朝第4代国王で、1031年に父ロベール2世の後を継ぎました。 治世中は王権強化に努め、貴族の勢力を抑制して中央集権を推進しました。 遺領相続制度の整備を通じて国内統治の安定化を図りました。 パリを中心に城塞や教会の建設を支援し、都市の発展にも寄与しました。 1060年に没し、息子フィリップ1世に王位を継承させました。
1060年 アンリ1世 フランス王 1008年
嘉承元年7月4日

源義家

(1039 - 1106)

河内源氏の棟梁

河内源氏の棟梁
前九年・後三年の役で活躍し、河内源氏の棟梁として武家勢力の基礎を築いた武将。
源義家(1039-1106)は河内源氏の祖とされ、武勇と統率力で知られた平安時代後期の武将です。 前九年の役(1051-1063)では蝦夷討伐に従軍し、その武勲から「八幡太郎」と称されました。 後三年の役(1083-1087)でも主導的な役割を果たし、東国における源氏の勢力を確立しました。 各地に館や城郭を築き、源氏の領地経営を強化しました。 晩年は京都や大和へ赴き、貴族社会との調停にも尽力しました。 1106年に没し、その子孫が鎌倉幕府の成立へと繋がる礎を築きました。
1106年 嘉承 7月4日 源義家 河内源氏 1039年
1265年

シモン・ド・モンフォール

(1208 - 1265)

イングランド初の議会を召集した人物

イングランド初の議会を召集した人物
イングランド王ヘンリー3世に対して反乱を起こし、1265年に初めて庶民代表を参加させた議会を召集した改革派貴族。
シモン・ド・モンフォール(1208-1265)はフランス系貴族出身のイングランド貴族で、政治改革を志向しました。 ヘンリー3世の専制政治に反対して貴族らと連携し、1258年のバロネス憲章を成立させました。 1264年のルーエスの戦いで王党派を破り、事実上の実権を握ります。 1265年には騎士や都市代表(平民)を招いてイングランド初の議会を召集しました。 しかし王政復権が進み、同年のエヴェシャムの戦いで戦死し、政権は転覆しました。
1265年 シモン・ド・モンフォール イングランド 議会 1208年
1306年

ヴァーツラフ3世

(1289 - 1306)

ハンガリー・ボヘミア・ポーランド王

ハンガリー・ボヘミア・ポーランド王
プシェミスル朝最後の王としてボヘミア・ハンガリー・ポーランド三国の王位を継承した悲劇の君主。
ヴァーツラフ3世(1289-1306)はプシェミスル朝最後の男子王で、父ヴァーツラフ2世の後を継いでボヘミア王となりました。 1301年にはハンガリー王位、同年にポーランド王位も継承し、三国の王に名を連ねました。 しかし各地で支持基盤は脆弱で、即位期間は短命に終わりました。 1306年にモラヴィア地方で暗殺され、後継者なくプシェミスル朝は断絶しました。 彼の死は中世ヨーロッパの王家政治に大きな影響を与えました。
1306年 ヴァーツラフ3世 ハンガリー ボヘミア ポーランド王 1289年
1378年

ガレアッツォ2世・ヴィスコンティ

(1321 - 1378)

ミラノの僭主

ミラノの僭主
14世紀ミラノを支配し、芸術や学問を庇護したヴィスコンティ家の僭主。
ガレアッツォ2世・ヴィスコンティ(1321-1378)はミラノを統治したヴィスコンティ家の一員で、僭主として権勢を振るいました。 1354年に共治権を確立し、弟ベルナボ・ヴィスコンティと共に都市を支配しました。 大学設立や宮廷への学者招致など、学問と文化の振興に尽力しました。 教会建築や城塞の整備を進め、ミラノの都市景観にも影響を与えました。 1378年に没すると、彼の死後もヴィスコンティ家の影響力は続きました。
1378年 ガレアッツォ2世・ヴィスコンティ ミラノ 僭主 1321年
1525年

アンドレア・デッラ・ロッビア

(1435 - 1525)

彫刻家

彫刻家
ルネサンス期に彩色テラコッタ彫刻を完成させたロッビア家の彫刻家。
アンドレア・デッラ・ロッビア(1435-1525)はイタリア・ルネサンス期の彫刻家で、有名なロッビア窯の一員です。 叔父ルカ・デッラ・ロッビアの下で修業し、テラコッタに釉薬を施す技術を発展させました。 鮮やかな色彩を持つレリーフ作品は宗教画や装飾品として広く用いられました。 フィレンツェやローマの教会、宮殿に作品を残し、その美術史的価値は高く評価されています。 生涯を通じて工房を経営し、後世の彫刻家にも大きな影響を与えました。
1525年 アンドレア・デッラ・ロッビア 彫刻家 1435年
1526年

フアン・セバスティアン・エルカーノ

(1486 - 1526)

探検家

探検家
マゼランの死後に艦隊を指揮し、初の世界一周航海を完遂したスペインの探検家。
フアン・セバスティアン・エルカーノ(1486-1526)はマゼラン航海隊の一員として参加し、艦隊を率いました。 1521年にマゼランがフィリピンで戦死した後、指揮権を引き継ぎました。 1522年にヴィクトリア号を率いてスペインへ帰還し、世界一周航海を成し遂げました。 遠洋航海の先駆者として航海術や地理知識の発展に寄与しました。 1526年の探索航海の途上で没し、その功績は歴史に刻まれました。
1526年 フアン・セバスティアン・エルカーノ 探検家 1486年
1578年

セバスティアン1世

(1554 - 1578)

ポルトガル王

ポルトガル王
16歳で即位し、北アフリカ遠征で戦死したポルトガル王。
セバスティアン1世(1554-1578)はポルトガル王ジョアン3世の曾孫にあたる若き君主です。 1578年、モロッコ遠征を自ら指揮し、アルカサル・ケビールの戦いで戦死しました。 彼の死により後継者が途絶え、ポルトガル王位はハプスブルク家に渡り、イベリア同盟が成立しました。 熱心なカトリック信者として宗教的事業にも尽力し、教会建設を支援しました。 若くして没した悲劇の王として民衆の記憶に残りました。
1578年 セバスティアン1世 ポルトガル王 1554年
1598年

初代バーリー男爵ウィリアム・セシル

(1520 - 1598)

イングランドの宰相

イングランドの宰相
エリザベス1世の信任厚い顧問で、イングランドの財政と外交を支えた重臣。
ウィリアム・セシル(1520-1598)、バーリー男爵はエリザベス1世に仕えた政治家・外交官です。 宰相として王権を支え、イングランド国教会の確立や議会運営に大きく寄与しました。 財政当局として国家財政の基盤を整備し、女王の長期安定的統治を支えました。 メアリー1世時代から王室顧問として経験を積み、異端審問や対スペイン外交にも関与しました。 1598年に没し、セシル家はその後もイングランド政治に大きな影響力を保ちました。
1598年 ウィリアム・セシル 1520年
1639年

フアン・ルイス・デ・アラルコン

劇作家

劇作家
スペイン黄金時代の劇作家として風刺的な喜劇を多く手がけた作家。
フアン・ルイス・デ・アラルコン(1581?-1639)はスペイン黄金時代に活躍した劇作家です。 メキシコ出身で、スペイン宮廷との関わりも深く、風刺や社会批判を織り込んだ作品が特徴です。 代表作『疑わしき真実(La verdad sospechosa)』などは後世の文学にも影響を与えました。 十数編の喜劇や悲劇を著し、人間の虚栄心や偽善を鋭く描写しました。 1639年にマドリードで没し、その文学的遺産は現在も高く評価されています。
1639年 フアン・ルイス・デ・アラルコン 劇作家 1581年
1699年

マリー・ゾフィー・フォン・デア・プファルツ

(1666 - 1699)

ポルトガル王ペドロ2世の妃

ポルトガル王ペドロ2世の妃
ヴィッテルスバッハ家の皇族で、ポルトガル王ペドロ2世の王妃。 優雅な宮廷生活を送りながら、文化交流に寄与した。
1666年にヴィッテルスバッハ家に生まれ、ドイツ中部で育つ。 1678年、ポルトガル王ペドロ2世と結婚し、王妃としてリスボンの宮廷に移る。 王妃として宗教行事や宮廷文化の発展に携わり、芸術や教育の後援者として知られる。 厳格なカトリック信仰を持ち、慈善事業や修道院の支援に力を注いだ。 1699年に逝去し、その短い生涯ながらポルトガル王室に新たな文化的影響をもたらした。
1699年 マリー・ゾフィー・フォン・デア・プファルツ ポルトガル王ペドロ2世 1666年
宝永2年6月15日

北村季吟

(1624 - 1705)

歌人、俳人

歌人 俳人
江戸時代前期から中期にかけて活躍した歌人・俳人。 和歌や俳諧を通じて幽玄な美意識を追求した。
1624年に生まれ、幼少より和歌や連歌に親しむ。 自身の俳諧会や連歌会を主催し、後進の育成にも貢献。 和歌や俳諧に関する著作を残し、独自の美学を示した。 当時の文人たちとの交流を通じて文化サロン的な役割を果たす。 1705年に逝去後、その作品は後世の俳句・和歌の発展に影響を与え続けている。
1705年 宝永 6月15日 北村季吟 歌人 俳人 1624年