435年
エフェソス公会議で異端とされたネストリウスに対し、東ローマ皇帝テオドシウス2世が国外追放を命ずる。ネストリウスはエジプトへ移る。
東ローマ皇帝テオドシウス2世が公会議の決定に基づき、ネストリウスを国外追放した事件。
435年8月3日、エフェソス公会議においてネストリウスの教義が異端とされ、東ローマ皇帝テオドシウス2世は彼の国外追放を命じました。
ネストリウスは一時シリア砂漠に幽閉された後、最終的にエジプトへ移り、新興のネストリウス派教会を支援しました。
この決定は教会の正統性を巡る議論を収束させる一方、東西教会の分裂に拍車をかけました。
ネストリウス派の影響はシルクロードを越え、中央アジアやインドまで広がったとされています。
皇帝介入による宗教政策の一例として、後世の宗教統制に大きな示唆を与えました。
435年
エフェソス公会議
異端
ネストリウス
テオドシウス2世
エジプト
永万元年6月25日
順仁親王が父の二条天皇から譲位され、第79代天皇・六条天皇として即位。
順仁親王が第79代天皇・六条天皇として即位し、朝廷の勢力図に影響。
1165年8月3日、二条天皇は息子の順仁親王に譲位し、順仁親王は第79代天皇・六条天皇として即位しました。
六条天皇は幼少の即位であったため、院政を行う後鳥羽上皇や摂関家の影響力が強く及びました。
この譲位は院政と藤原氏の権力構造を象徴する出来事とされ、皇位継承の在り方に大きな示唆を与えました。
六条天皇の在位期間は短く、後に退位して法皇となるなど、複雑な院政政治が続きました。
平安時代末期の権力抗争と院政の深化を理解する上で重要な節目です。
1165年
永万
6月25日
二条天皇
六条天皇
寛永12年6月21日
江戸幕府が武家諸法度を改正。諸大名の参勤交代の義務化や大船建造の禁などの条文が加わる。
江戸幕府が武家諸法度を改正し、参勤交代など大名統制を強化した。
1635年8月3日、江戸幕府は武家諸法度を改正し、諸大名に対する統制を一層強化しました。
主な改正点には、参勤交代の義務化や大船建造の禁止が盛り込まれ、幕府の中央集権体制が確立されました。
参勤交代は大名の財政負担を増大させる一方で、地方勢力の自主的な反乱を抑制する効果がありました。
大船建造禁止は海外との直接交易を防ぎ、鎖国体制の先駆けとして機能しました。
これらの施策は徳川家光の時代に完成された幕藩体制の基盤を固める重要な一里塚となりました。
1635年
寛永
6月21日
江戸幕府
武家諸法度
参勤交代
大船建造の禁
1923年
前日のウォレン・ハーディングアメリカ合衆国大統領の死去に伴い、副大統領のカルビン・クーリッジが第30代米大統領に就任。
1923年8月3日、ハーディング大統領の急死を受け、副大統領カルビン・クーリッジが第30代アメリカ大統領に就任しました。
前日に急逝したウォレン・ハーディング大統領の死去を受け、カルビン・クーリッジ副大統領が翌日の宣誓を経て第30代大統領に昇格しました。
クーリッジは「沈黙の大統領」と称される保守的な政治手腕で知られ、財政再建や政府縮小を掲げました。
彼の就任は政権の継続性を確保し、当時のアメリカ政治に安定感をもたらしました。
その後のクーリッジ政権は経済繁栄期の礎を築く一因とされています。
1923年
ウォレン・ハーディング
アメリカ合衆国大統領
カルビン・クーリッジ
1935年
天皇機関説事件: 日本政府が国体明徴声明を出す。
1935年8月3日、政府は天皇機関説に対抗して国体明徴声明を発表し、学説を批判しました。
立憲政治を理論的に裏付ける『天皇機関説』を巡り、政府は8月3日に国体明徴声明を発表しました。
この声明では、天皇を国家の主体とする国体を明確化し、学説の政治的影響を否定しました。
自由主義的学説への弾圧は学界に波紋を広げ、多くの学者が職を追われる結果となりました。
この事件は昭和期の知識統制の象徴とされ、日本の政治体制に大きな影響を与えました。
1935年
天皇機関説事件
国体明徴声明
1940年
岡山県玉野市が市制施行。
岡山県玉野市が市制施行され、正式に市として成立しました。
岡山県の南部に位置する玉野市は、1940年8月3日に市制を施行し、これまでの町制から市制へと移行しました。
市制施行により行政組織が再編され、市長制や市議会が設置されました。
当時の人口や産業の発展に伴い、地域の中心地としての役割が高まりました。
港湾都市としての地勢を活かし、工業や漁業が発展してきました。
現在も瀬戸内海の玄関口として重要な都市です。
玉野市
1953年
衆議院本会議において「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」が採択される。
衆議院本会議で戦争犯罪に関する受刑者の赦免決議が採択されました。
1953年8月3日、衆議院本会議において「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」が採択されました。
この決議は太平洋戦争終結後の戦犯裁判で有罪判決を受けた者への特別赦免を促すものです。
国際社会や国内の世論が戦後復興と和解の在り方を巡る中で、政府の姿勢が問われました。
決議採択後、法務省において赦免手続きが進められ、多数の戦犯受刑者が恩赦の対象となりました。
この動きは日本の戦後処理の一環として、政治的・歴史的意義を持ちます。
1953年
衆議院
戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議
1960年
ニジェールがフランスから独立。
ニジェールがフランスから独立し、主権国家として歩み始めました。
1960年8月3日、アフリカ・フランス領西アフリカの一部であったニジェールがフランスより独立しました。
独立後、モハメド・ベリェマ・セイニ大統領が初代国家元首に就任しました。
西アフリカ諸国同時独立時の一翼を担い、アフリカの脱植民地化運動の象徴的出来事となりました。
経済は主に農業と鉱業に依存しつつも、国際社会への参加を本格化させました。
フランス語圏共同体(フランスコミュニオン)にも加盟し、旧宗主国との関係を維持しました。
1960年
ニジェール
フランス
1967年
公害対策基本法が公布。
1967年8月3日、深刻化する公害問題に対応するため『公害対策基本法』が公布されました。
1967年8月3日、環境汚染の防止と公害発生の抑制を目的とした『公害対策基本法』が公布された。
この法律により公害の定義や基本原則が示され、国と地方公共団体の責務が明確化された。
事業者には排出規制や汚染防止措置が義務付けられ、公害裁判支援や被害者救済制度も創設された。
公害訴訟の提起や被害認定の仕組みが整えられ、環境行政の枠組みが大きく前進した。
後の水質汚濁防止法や大気汚染防止法など専門法制定の基盤となり、わが国の環境政策に大きな影響を与えた。
1967年
公害対策基本法
1967年
文化大革命: 日本共産党訪中団が北京空港で紅衛兵の襲撃を受ける。(北京空港事件)
1967年8月3日、文化大革命期の北京空港で日本共産党訪中団が紅衛兵に襲撃されました。
1967年8月3日、文化大革命の混乱の中で日本共産党の訪中団が北京空港に到着した際、紅衛兵の一部に襲撃される事件が発生した。
「北京空港事件」と呼ばれ、訪中団は暴行や器物破損を受け一時行動不能に陥った。
事件は日中関係に緊張をもたらし、日本国内で大きな衝撃を与えた。
中国側は後に事件を「誤解に基づく行動」と説明し、関係者の釈放と謝罪を行った。
この出来事は文化大革命の過激さを示す一例として国際的にも知られている。
文化大革命
日本共産党
北京空港
紅衛兵
北京空港事件
1972年
アメリカ合衆国上院が弾道弾迎撃ミサイル制限条約を批准。
1972年8月3日、米上院が弾道弾迎撃ミサイル制限条約(ABM条約)を批准しました。
1972年8月3日、アメリカ合衆国上院は米ソ間の戦略軍備管理協定の一つ、弾道弾迎撃ミサイル制限条約(ABM条約)を批准した。
同条約は両国のミサイル防衛システムを1か所ずつに限定し、戦略的な核均衡の維持を目的とした。
ABM条約の批准により米ソ間の軍事的緊張緩和が進み、冷戦期の核軍縮交渉に大きな前進が見られた。
条約は1972年5月に調印され、その後米議会の承認を得て正式に発効した。
1990年代にアメリカが一方的に離脱するまで、長期にわたり戦略安定の基盤となった。
1972年
アメリカ合衆国上院
弾道弾迎撃ミサイル制限条約
2005年
モーリタニアで大統領マーウイヤ・ウルド・シディ・アハメド・タヤの不在中に軍部が無血クーデター。
2005年8月3日、マーウイヤ・ウルド・シディ・アハメド・タヤ大統領不在中に軍部が無血クーデターを決行しました。
2005年8月3日、モーリタニアで大統領マーウイヤ・ウルド・シディ・アハメド・タヤ不在中に軍部が無血クーデターを決行した。クーデターはエリー・ウルド・モハメッド・ヴァル准将らが主導し、政府機関は抵抗せずに制圧された。軍事評議会は直後に政権を掌握し、国家の再編と政治改革を掲げた。タヤ政権は長年の権威主義的支配と汚職問題を抱えており、クーデターは一部国民から歓迎された。国際社会は軍事介入への懸念を示し、モーリタニア国内の民主化プロセスと安定の回復を求めた。その後、軍政は18ヶ月後に選挙を実施し、文民政権への移行を目指しました。
2005年
モーリタニア
マーウイヤ・ウルド・シディ・アハメド・タヤ
クーデター
英語版