紀元前338年
マケドニア王フィリッポス2世がカイロネイアの戦いでアテネとテーバイの連合を破る。
紀元前338年、カイロネイアの戦いでフィリッポス2世がアテネ・テーバイ連合軍を打ち破った。
紀元前338年、フィリッポス2世は強力なファランクス隊を駆使し、ギリシア連合軍を挟撃しました。
戦いはわずか数時間で決着し、アテネとテーバイの連合は壊滅しました。
この勝利によりマケドニアはギリシア世界の覇権を握り、フィリッポス2世の外交戦略が大きく前進しました。
また、若きアレクサンドロス(後の大王)も戦闘に参加し、戦術的才能を示しました。
この一戦は古代ギリシアの勢力図を一変させ、マケドニア帝国の礎を築く契機となりました。
紀元前338年
マケドニア
フィリッポス2世
カイロネイアの戦い
アテネ
テーバイ
紀元前216年
第二次ポエニ戦争: カンナエの戦い。ハンニバル率いるカルタゴ軍が、共和政ローマ軍を包囲殲滅する。
紀元前216年、ハンニバル率いるカルタゴ軍がカンナエの戦いでローマ軍を包囲殲滅した。
第二次ポエニ戦争中、ハンニバルはスペインからイタリアへ侵攻し、ローマ軍と対峙しました。
狭い平野を利用した二重包囲戦術により、ローマ軍は左右から挟撃され壊滅的打撃を受けました。
一説には5万人以上のローマ兵が戦死したとされ、史上屈指の大虐殺の一つとされます。
この敗北はローマの危機を象徴し、ローマ軍の戦術見直しと組織改革を促す契機となりました。
ハンニバルの名声は頂点に達し、戦略家としての評価が不動のものとなりました。
紀元前216年
第二次ポエニ戦争
カンナエの戦い
ハンニバル
カルタゴ
共和政ローマ
紀元前47年
ローマ内戦: ゼラの戦い。ガイウス・ユリウス・カエサル率いる共和政ローマ軍がポントス軍を破る。カエサルは「来た、見た、勝った」と戦勝を元老院に報告。
紀元前47年、ゼラの戦いでカエサルがポントス軍を撃破し、「来た、見た、勝った」を宣言した。
内乱の最中、カエサルは黒海沿岸のポントス王国との決戦に臨みました。
迅速な行軍と機動力を活かした攻撃で、敵軍を包囲殲滅しました。
戦後、カエサルは「veni, vidi, vici(来た、見た、勝った)」の名句を用いて元老院へ凱旋報告しました。
この勝利はカエサルの政治的地位をさらに強固にし、独裁権獲得への道を開きました。
同時にローマ共和政の終焉と帝政への転換を象徴する出来事となりました。
紀元前47年
ローマ内戦
ゼラの戦い
ガイウス・ユリウス・カエサル
ポントス
来た、見た、勝った
元老院
承久3年7月13日
承久の乱: 幕府に敗れた後鳥羽上皇が隠岐に流される。
1221年、承久の乱で後鳥羽上皇が鎌倉幕府に敗れ、隠岐へ配流された。
承久の乱は上皇と幕府の権力抗争で勃発しました。
後鳥羽上皇は朝廷の権威回復を図り鎌倉幕府に挑みましたが、北条義時率いる幕府軍に敗北しました。
戦後、後鳥羽上皇は隠岐に配流され、朝廷の実権は幕府へ移転しました。
この事件は武家政権の確立を決定づけ、日本中世の政治構造を大きく変革しました。
また、朝廷と幕府の力関係を明確化し、鎌倉幕府の基盤を揺るぎないものとしました。
1221年
承久
7月13日
承久の乱
後鳥羽上皇
1903年
内部マケドニア革命組織がオスマン帝国に対するイリンデン蜂起を扇動。
1903年、内部マケドニア革命組織がイリンデン蜂起を扇動し、オスマン帝国支配に抵抗した。
内部マケドニア革命組織(IMRO)は、バルカン半島の自治権獲得を目指して結成されました。
イリンデン蜂起は復活祭に合わせて計画され、現地のスラブ系住民が中心となって決起しました。
蜂起は一時的に自治勢力を築くものの、オスマン帝国の迅速な鎮圧により敗北しました。
多くの犠牲者を出し、国際社会の関心を集めることとなりました。
この事件はバルカン紛争の序章となり、後の独立運動へとつながっていきました。
1903年
内部マケドニア革命組織
オスマン帝国
イリンデン蜂起
英語版
1906年
ロシア帝国海軍の一等巡洋艦「パーミャチ・アゾーヴァ」で水兵らによる叛乱が発生(現地で使用していたユリウス暦では7月20日)。ロシア帝国・バルト艦隊で初めての叛乱事件。
1906年、ロシア帝国海軍の巡洋艦「パーミャチ・アゾーヴァ」で水兵が反乱を起こした。
「パーミャチ・アゾーヴァ」はバルト艦隊所属の一等巡洋艦として就役しました。
乗組員は厳しい労働環境や不公平な待遇に抗議し、艦上で叛乱を起こしました。
反乱は短期間で鎮圧されましたが、海軍内部の不満が顕在化する契機となりました。
ロシア帝国海軍での最初の反乱事件として大きな衝撃を与え、軍律改革の議論を呼び起こしました。
同時に帝政ロシア社会の矛盾を示す一幕として記憶されます。
ロシア帝国海軍
一等巡洋艦
パーミャチ・アゾーヴァ
ユリウス暦
7月20日
ロシア帝国
バルト艦隊
1914年
第一次世界大戦・西部戦線: ドイツ軍がルクセンブルクに侵攻。
1914年8月2日、西部戦線でドイツ軍が中立国ルクセンブルクに侵攻した出来事。
第一次世界大戦の開戦直後、ドイツ帝国はシュリーフェン・プランに基づき8月2日、ルクセンブルクへの進軍を開始しました。ルクセンブルクは中立国であったため、この侵攻は国際法違反として非難を浴びました。ドイツ軍は鉄道を確保し、翌日のベルギー侵攻の布石としました。この行動により英国を含む連合国の戦線構築に影響を与え、戦争の長期化に繋がる重要な軍事作戦となりました。
1914年
第一次世界大戦
西部戦線
ドイツ
ルクセンブルク
1918年
ロシア内戦: 日本軍が英米仏軍とともにシベリアに出兵することを閣議決定。
1918年8月2日、日本政府が英米仏とともにシベリア出兵を閣議決定した出来事。
ロシア内戦における連合国の介入の一環として、日本政府は8月2日、閣議でシベリアへの軍事派遣を決定しました。この決定はボリシェヴィキの台頭を抑制し、列強間の勢力均衡を維持する狙いがありました。日本軍は英米仏軍と共同作戦を展開し、沿線の鉄道保護や反共勢力支援を行いました。出兵は1922年まで続き、現地住民との衝突や莫大な費用負担など国内外で賛否を呼びました。最終的に撤兵に至り、戦後の日本の対外政策に影響を与えました。
1918年
ロシア内戦
日本
シベリアに出兵
1939年
第二次世界大戦: レオ・シラードらがルーズベルト米大統領に核開発を促すアインシュタインの署名入りの書簡を送る。これがマンハッタン計画のきっかけとなる。
1939年にシラードらがルーズベルト大統領へ書簡を送り、マンハッタン計画が始動。
1939年8月2日、物理学者レオ・シラードらはアインシュタインに協力を依頼し、署名入りの書簡をルーズベルト米大統領に送付しました。この手紙ではナチス・ドイツによる原子核分裂研究の可能性が指摘され、米国での核兵器開発の必要性が説かれました。これを受けて米政府は後にマンハッタン計画を立ち上げ、核兵器開発に巨額の資金と人材を投入します。書簡は科学と政治の交差点に位置する重要な契機となり、第二次世界大戦の終結を左右する新兵器の誕生へと繋がりました。この出来事は核時代の幕開けとも言われています。
1939年
第二次世界大戦
レオ・シラード
ルーズベルト
米大統領
アインシュタイン
書簡
マンハッタン計画
1943年
ホロコースト: ユダヤ人の絶滅収容所の一つ、トレブリンカ強制収容所で収容者の反乱が起こり多くの収容者が脱走。これを機に同収容所は廃止。
1943年にトレブリンカ強制収容所でユダヤ人収容者が反乱を起こした。
1943年8月2日、ナチス・ドイツのトレブリンカ絶滅収容所で多数のユダヤ人収容者が組織的な反乱を起こしました。収容者たちは警備兵を襲撃し、火を放って脱走を図り、約200人以上が逃亡に成功したとされます。この反乱はホロコースト史における数少ない成功例の一つであり、収容所の運営継続が困難となったため、ドイツ当局は同収容所を廃止しました。反乱の犠牲者も多く、数百人が射殺されるなど惨劇は続きましたが、抵抗の象徴として歴史に刻まれています。
1943年
ホロコースト
絶滅収容所
ト레ブリンカ強制収容所
1944年
第二次世界大戦: テニアン島の日本軍が玉砕し、テニアンの戦いが終結。
1944年にテニアン島の戦いが終結し、日本軍が玉砕した。
1944年8月2日、第二次世界大戦の太平洋戦線でアメリカ軍によるテニアン島攻略戦が終結しました。日本軍は激しい抵抗を続けたものの、物量と航空支援に勝る米軍の攻勢を前に玉砕しました。テニアン島はB-29爆撃機の飛行基地として戦略的に重要視され、占領後は東京への空襲に利用されました。戦闘の激しさは両軍に多大な犠牲をもたらし、特に日本軍の将兵は帰還を果たせないまま果てました。テニアンの戦いは太平洋戦争の転換点の一つとされています。
1944年
テニアン島
日本軍
玉砕
テニアンの戦い
1945年
第二次世界大戦・日本本土空襲: 富山大空襲。
日本本土空襲の一環として行われた富山市への大規模爆撃。市街地が焦土と化し、多くの民間人が犠牲に。
1945年8月2日、アメリカ軍による富山大空襲が実施されました。B-29爆撃機による焼夷弾攻撃で、富山市中心部は壊滅的な被害を受けました。市街地の建物の多くが焼失し、住民にも多大な犠牲が出ました。空襲は本土空襲の一環であり、太平洋戦争末期の激化を象徴しています。戦後の復興にも深い影響を残しました。
日本本土空襲
富山大空襲