1009年
ピエトロ・ボッカペコーラがローマ教皇セルギウス4世として即位。
1009年、ピエトロ・ボッカペコーラがローマ教皇セルギウス4世として即位した。
イタリア貴族出身のピエトロ・ボッカペコーラは1009年7月31日、教皇選出会議で選ばれセルギウス4世として戴冠した。彼の教皇在位期間は1012年まで続き、教皇権の強化や聖職者改革に取り組んだが、その短い在位と政争の激しさから評価は賛否両論ある。ローマ教皇として教会財政の再建を試みた一方で、封建領主や神聖ローマ皇帝との関係にも苦慮し、後継教皇選挙にも影響を与えた。
1009年
ローマ教皇
セルギウス4世
天永元年7月13日
天仁から天永に改元。
1110年、元号が天仁から天永へ改元された。
日本では朝廷が国家の吉凶を占うため、政治的・儀礼的な理由で元号を変更した。1110年7月31日(天永元年7月13日)に、天仁から天永への改元が行われ、元号「天永」は「天の恵みが永遠に続く」という意味が込められた。在位していた鳥羽天皇の治世で、改元は宮廷の安定や諸事の節目を示す重要な儀礼とされた。この元号期間中には、さまざまな政変や文化事象も展開し、平安時代後期の歴史を彩った。
1110年
天永
7月13日
天仁
改元
1658年
アウラングゼーブがムガル帝国皇帝に即位。
1658年、アウラングゼーブがムガル帝国皇帝に即位した。
ムガル帝国の第五代皇帝シャー・ジャハーンの治世末期、皇位継承をめぐる内紛が激化。1658年7月31日、アウラングゼーブは兄弟との争いに勝利して皇帝位を奪取し、自らアウラングゼーブとして即位した。彼は翌年以降、帝国領土を南インドへと拡大し、厳格なイスラム法を導入して行政・財政の改革を推進した。その統治は約50年にわたり、繁栄と宗教的緊張をもたらした。
1658年
アウラングゼーブ
ムガル帝国
1703年
イギリスの作家ダニエル・デフォーが政治的な扇動を目的としたパンフレットを作成した廉でさらし台に上げられる。
1703年、作家ダニエル・デフォーが政治的扇動を目的としたパンフレットでさらし台に上げられた。
イギリスの作家ダニエル・デフォーは宗教的非国教会派を揶揄する風刺的なパンフレット『異端者への最短の道』を匿名で発表した。1703年7月31日には発覚を受けて摘発され、さらし台にかけられる刑罰を受けた。デフォーは後に『ロビンソン・クルーソー』などで知られるが、この事件は表現の自由と政治風刺の限界をめぐる論争を呼び起こした。
1703年
イギリス
ダニエル・デフォー
さらし台
1895年
バスク民族主義党設立。
スペイン北部バスク地方で民族主義政党「バスク民族主義党」が設立されました。
1895年7月31日、サビーノ・アラナらによってバスク民族主義党(Partido Nacionalista Vasco)が設立されました。
党はバスク語とカトリックの伝統を基盤に、バスク地方の自治と文化復興を掲げました。
当時のスペイン中央政府との対立が深まる中、民族独自のアイデンティティ確立を目指して活動を展開しました。
設立以来、PNVはバスク州議会での主要政党として地域政治に大きな影響力を持ち続けています。
現代ではスペインの自治制度においても重要な役割を果たしており、ヨーロッパの地方政党として注目されています。
1895年
バスク民族主義党
1932年
ドイツ議会の選挙が行われ、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)が230議席を獲得し第一党となる。
ドイツ議会選挙でナチ党が第一党となり、政治的影響力を急拡大しました。
1932年7月31日、ワイマール共和国下のドイツ議会選挙が実施されました。
国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)は230議席を獲得し、史上初めて第一党の座を得ました。
世界恐慌下の経済混乱と政治的分裂を背景に、暴力的プロパガンダが有権者に受け入れられた結果です。
しかし単独多数には届かず、連立交渉が難航。政治的混迷が深まる中でヒトラーの台頭が一層促進されました。
翌年1月にはヒトラーが首相に任命され、全体主義体制への道が開かれました。
1932年
ドイツ議会の選挙
国家社会主義ドイツ労働者党
1948年
日本で、国家公務員の団体交渉権・スト権を否認する「政令201号」公布。
日本政府が国家公務員の団体交渉権とスト権を否認する政令を公布した日。
1948年7月31日、日本政府は政令201号を公布し、国家公務員の団体交渉権とスト権を否認しました。
占領下の混乱期における行政サービス維持を理由に、労働争議の制限が図られました。
これにより国家公務員は労働基本権の一部を行使できなくなり、労組結成後の活動も限定されました。
後の公務員制度改革や労働法制の議論に大きな影響を与えた歴史的政令です。
現在も公務員のスト権制限は憲法解釈の重要な論点となっています。
国家公務員
団体交渉権
政令201号
1952年
天皇・皇后が戦後初めて明治神宮に参拝。
天皇・皇后が戦後初めて明治神宮を参拝した日。
1952年7月31日、戦後初めて皇室の天皇・皇后が明治神宮を訪れ、公式参拝を行いました。
参拝は昭和天皇と香淳皇后によるもので、戦後日本の復興と平和を象徴する行事となりました。
明治神宮は明治天皇を祀る神社であり、日本の伝統と近代国家の歩みを象徴しています。
参拝には多くの国民が見守り、メディアでも大きく報じられました。
この参拝は戦後の皇室と国民の新しい関係構築の一歩とされています。
1952年
天皇
皇后
明治神宮
1969年
ローマ教皇パウロ6世が、ローマ教皇としては初めてアフリカを訪問。
ローマ教皇パウロ6世が史上初めてアフリカを訪問した日。
1969年7月31日、パウロ6世は教皇として初めてアフリカ大陸を訪問しました。
この訪問はカトリック教会の普遍性を示す重要な機会であり、多くの信徒が歓迎しました。
教皇は貧困と社会的不正義への関心を示し、途上国支援へのメッセージを発信しました。
また、現地の司教や政治指導者とも対話を行い、教会と社会の協力を強調しました。
この歴史的な旅は、カトリック教会の外交的・宗教的影響力拡大の一翼を担いました。
1969年
パウロ6世
アフリカ
1970年
イギリス海軍が兵士へのラム酒支給を打ち切る。
イギリス海軍が伝統のラム酒支給を廃止した日。
1970年7月31日、イギリス海軍は兵士への日々のラム酒支給(ラム・ラッシュ)を正式に終了しました。
この慣習は17世紀から続く伝統として親しまれていましたが、健康や規律の観点から見直されました。
支給廃止は艦内の統制強化やアルコール依存防止の狙いがあり、議会でも議論を呼びました。
多くの水兵が愛飲していた習慣の中止は、海軍文化の大きな転換点となりました。
廃止後も『ブラック・ロッケット』と呼ばれるジョークとして語り継がれています。
1970年
イギリス海軍
ラム酒
1982年
初代日本共産党議長・野坂参三が議長を退任。
1982年7月31日、日本共産党初代議長の野坂参三が議長職を退任しました。
野坂参三は日本共産党の創設メンバーの一人であり、初代議長として長年党運営の中核を担ってきました。1982年7月31日に議長を退き、後任には新たに選出された党幹部が就任しました。退任は党の若返りと組織刷新を目的としたもので、党内外で大きな注目を集めました。野坂参三はその後も名誉職として党活動に関与し、執筆や講演を通じて自身の思想を発信し続けました。彼の退任は日本共産党の歴史における一つの節目とされています。
1982年
日本共産党議長
野坂参三
1987年
サウジアラビア・メッカでイラン人巡礼団が反米デモ。警官隊と衝突し、約400人が死亡した。
1987年7月31日、メッカの大巡礼中にイラン人巡礼団と警官隊が衝突し、およそ400人が死亡した事件。
1987年のハッジ巡礼中、イラン人巡礼団がサウジアラビア当局に反米デモを行った。
これに対し、サウジの警官隊が強制排除に動き衝突が激化。
群衆のパニックや投石などが重なり、多数の死傷者が発生。
死者は約400人とされ、巡礼史上最悪の惨事の一つに数えられる。
事件はイランとサウジ、さらに米国との関係に深刻な影響を与えた。
国際社会からは過度の警備対応への批判や人権問題が指摘された。
1987年
サウジアラビア
メッカ