天応元年7月6日

奈良時代末期、朝廷編纂の『続日本紀』に富士山噴火に伴う降灰の記録されており、富士山の最古の噴火記録になっている。

奈良時代末期に編纂された『続日本紀』に、富士山の噴火と降灰が記録され、日本史最古の火山活動記録とされている。
781年、奈良時代末期に完成した『続日本紀』は朝廷の公式歴史書であり、富士山の噴火に伴う降灰が詳細に記された。この記録は富士山に関する最古の噴火記録とされ、火山学や歴史研究において貴重な資料となっている。降灰の範囲や量は当時の気象・地形条件を示し、火山活動の周期や影響を考察する手がかりを提供する。以後の文書や民間伝承とも照合され、日本の自然災害史を理解するうえで重要な位置を占めている。
781年 天応 7月6日 続日本紀 富士山
1009年

ピエトロ・ボッカペコーラがローマ教皇セルギウス4世として即位。

1009年、ピエトロ・ボッカペコーラがローマ教皇セルギウス4世として即位した。
イタリア貴族出身のピエトロ・ボッカペコーラは1009年7月31日、教皇選出会議で選ばれセルギウス4世として戴冠した。彼の教皇在位期間は1012年まで続き、教皇権の強化や聖職者改革に取り組んだが、その短い在位と政争の激しさから評価は賛否両論ある。ローマ教皇として教会財政の再建を試みた一方で、封建領主や神聖ローマ皇帝との関係にも苦慮し、後継教皇選挙にも影響を与えた。
1009年 ローマ教皇 セルギウス4世
天永元年7月13日

天仁から天永に改元。

1110年、元号が天仁から天永へ改元された。
日本では朝廷が国家の吉凶を占うため、政治的・儀礼的な理由で元号を変更した。1110年7月31日(天永元年7月13日)に、天仁から天永への改元が行われ、元号「天永」は「天の恵みが永遠に続く」という意味が込められた。在位していた鳥羽天皇の治世で、改元は宮廷の安定や諸事の節目を示す重要な儀礼とされた。この元号期間中には、さまざまな政変や文化事象も展開し、平安時代後期の歴史を彩った。
1110年 天永 7月13日 天仁 改元
1451年

資本家ジャック・クールがシャルル7世の命により逮捕される。

1451年、フランス王シャルル7世の命令で有力商人ジャック・クールが逮捕された。
中世フランスで金融業を独占し、王室への多額の融資で知られたジャック・クールは、1451年7月31日にシャルル7世の命令で反逆罪と横領の容疑で逮捕された。彼の資産は没収され、多くの記録が散逸したが、その大胆な商法は後世の銀行業に影響を与えた。クールの失脚はフランス経済に大きな衝撃を与え、王権強化と商人階級の関係変化を象徴する事件とされた。
1451年 ジャック・クール シャルル7世
ユリウス暦7月21日

イギリス艦隊とスペイン無敵艦隊の間のアルマダの海戦が始まる。

1588年、イギリス艦隊とスペイン無敵艦隊の間でアルマダの海戦が始まった。
1588年7月31日(ユリウス暦7月21日)、スペイン国王フェリペ2世が派遣した無敵艦隊がイギリス軍と対峙し、アルマダの海戦が勃発した。両者は英仏海峡で激突し、風と潮流を味方にしたイギリス側が有利に展開した。スペイン艦隊は大艦隊にもかかわらず、指揮系統の混乱や悪天候に苦しみ、多くの船が撃破・漂流した。この戦いは16世紀の海上覇権を左右し、イギリスの海軍力を世界に知らしめる契機となった。
1588年 ユリウス暦 7月21日 アルマダの海戦
1658年

アウラングゼーブがムガル帝国皇帝に即位。

1658年、アウラングゼーブがムガル帝国皇帝に即位した。
ムガル帝国の第五代皇帝シャー・ジャハーンの治世末期、皇位継承をめぐる内紛が激化。1658年7月31日、アウラングゼーブは兄弟との争いに勝利して皇帝位を奪取し、自らアウラングゼーブとして即位した。彼は翌年以降、帝国領土を南インドへと拡大し、厳格なイスラム法を導入して行政・財政の改革を推進した。その統治は約50年にわたり、繁栄と宗教的緊張をもたらした。
1658年 アウラングゼーブ ムガル帝国
1667年

ブレダの和約により第二次英蘭戦争が終結。

1667年、ブレダの和約により第二次英蘭戦争が終結した。
イギリスとオランダの商業的対立から始まった第二次英蘭戦争(1665–1667年)は、1667年7月31日にブレダで調印された講和条約で終結した。条約により、オランダはニューネーデルラント植民地の一部をイギリスに割譲し、シエラレオネの交易権を認められた。対等講和を目指したオランダ側は海上貿易の優位を維持し、ヨーロッパにおける勢力均衡に影響を与えた。
1667年 ブレダの和約 第二次英蘭戦争
1703年

イギリスの作家ダニエル・デフォーが政治的な扇動を目的としたパンフレットを作成した廉でさらし台に上げられる。

1703年、作家ダニエル・デフォーが政治的扇動を目的としたパンフレットでさらし台に上げられた。
イギリスの作家ダニエル・デフォーは宗教的非国教会派を揶揄する風刺的なパンフレット『異端者への最短の道』を匿名で発表した。1703年7月31日には発覚を受けて摘発され、さらし台にかけられる刑罰を受けた。デフォーは後に『ロビンソン・クルーソー』などで知られるが、この事件は表現の自由と政治風刺の限界をめぐる論争を呼び起こした。
1703年 イギリス ダニエル・デフォー さらし台
1888年

吉野川が増水。藍畑村の覚円地先で堤防が決壊したことを契機に一揆のような騒動が起きる。

1888年、吉野川の増水で藍畑村の堤防が決壊し、一揆のような騒動が発生した。
1888年7月31日、高知県を流れる吉野川が豪雨により増水し、藍畑村(現徳島県)の覚円地先で堤防が決壊した。周辺農民は被害の拡大に怒り、役所への救済要求が一揆のような集団行動に発展した。警察と衝突寸前の緊迫した事態となり、後に地元行政の治水対策強化を促した。被害状況や住民の対応は、明治期の地方行政と民衆意識を理解するうえで重要な史実となっている。
1888年 吉野川 藍畑村 堤防 一揆
1893年

ダブリンでゲール語連盟が設立される。

1893年、ダブリンでゲール語復興を目指すゲール語連盟が設立された。
アイルランド語(ゲール語)の復興を目指し、文化運動家らが1893年7月31日にダブリンでゲール語連盟(Conradh na Gaeilge)を設立した。創設者には、後に初代アイルランド大統領となるダグラス・ハイドや教育者エイン・マクニールが名を連ねた。連盟はアイルランド語教育の普及や演劇・出版活動を支援し、民族復興運動で重要な役割を果たした。20世紀のアイルランド独立運動と文化復興への影響は大きい。
1893年 ダブリン ゲール語連盟
1895年

バスク民族主義党設立。

スペイン北部バスク地方で民族主義政党「バスク民族主義党」が設立されました。
1895年7月31日、サビーノ・アラナらによってバスク民族主義党(Partido Nacionalista Vasco)が設立されました。 党はバスク語とカトリックの伝統を基盤に、バスク地方の自治と文化復興を掲げました。 当時のスペイン中央政府との対立が深まる中、民族独自のアイデンティティ確立を目指して活動を展開しました。 設立以来、PNVはバスク州議会での主要政党として地域政治に大きな影響力を持ち続けています。 現代ではスペインの自治制度においても重要な役割を果たしており、ヨーロッパの地方政党として注目されています。
1895年 バスク民族主義党
1905年

日露戦争・樺太の戦い: 日本軍が樺太全島を占領下に置く。

日露戦争末期の樺太の戦いで日本軍が島全域を占領しました。
1905年7月31日、日本軍は樺太(現サハリン)の南部を占領後、北部への進撃を開始しました。 皇族や歩兵師団が厳しい地形と冬季に近い気候の中で戦い、8月には島内全域を制圧しました。 この作戦は日露戦争終結交渉において日本の交渉力を高め、ポーツマス条約締結の一因となりました。 戦後、樺太の日本統治は第二次世界大戦終結まで続き、鉄道や鉱山開発が進められました。 しかし戦後ソ連軍の侵攻により日本は島を失い、地域は新たな時代を迎えました。
1905年 日露戦争 樺太の戦い 樺太