1014年

クレイディオン峠の戦い。ブルガリア帝国軍が東ローマ帝国軍に敗れる。ブルガリア皇帝サムイルは逃げ延びるが、10月に目を潰された大量の捕虜が帰ってきたのを見てショック死する。

東ローマ帝国軍がブルガリア軍をクレイディオン峠で破り、皇帝サムイルに悲劇をもたらした戦い。
クレイディオン峠の戦いは1014年にブルガリア帝国と東ローマ帝国の間で行われました。 東ローマ皇帝バシレイオス2世率いる軍が巧みな包囲戦術でブルガリア軍を打ち破ります。 戦闘後、バシレイオス2世は捕虜とした1万5千人以上のブルガリア兵の目を潰す命令を下し、「ブルガリア殺し」と呼ばれました。 皇帝サムイルは帰還した捕虜の姿を見て衝撃を受け、同年10月に亡くなったと伝えられます。 この敗北はブルガリア帝国の衰退を決定づけ、東ローマ帝国の支配を強固にしました。
1014年 クレイディオン峠の戦い ブルガリア帝国 東ローマ帝国 サムイル 10月
保元元年7月11日

保元の乱: 後白河天皇方の平清盛・源義朝らが、崇徳上皇らの籠る白河御所を夜襲し、上皇方が敗退。

平清盛や源義朝らが白河御所を夜襲し、院政を巡る朝廷内乱で勝利した一戦。
1156年7月11日、保元の乱の一場面として後白河天皇方の平清盛・源義朝らが夜襲を敢行しました。 崇徳上皇と藤原氏支持派が籠る白河御所が急襲され、皇位を巡る勢力争いに決着がつきます。 この戦いにより後白河天皇側が勝利し、朝廷内の権力構造が大きく変化しました。 武士勢力が初めて中央政権の内乱で重要な役割を果たした歴史的転換点です。 武士の台頭は後の平治の乱、源平合戦へとつながる一因となりました。
1156年 保元 7月11日 保元の乱 後白河天皇 平清盛 源義朝 崇徳上皇
1894年

日清戦争: 安城渡の戦い。ラッパ手木口小平が被弾し、死んでも口からラッパを離さなかったとして教科書にも載る。

日清戦争中の1894年7月29日に安城渡の戦いが行われ、日本軍のラッパ手・木口小平が被弾しても口からラッパを離さなかった逸話で知られています。
安城渡の戦いは日清戦争の主要な山東半島での戦闘の一つで、日本陸軍は清国軍を相手に進撃を続けました。砲撃や白兵戦が繰り広げられた中で、日本軍のラッパ手だった木口小平は突撃中に被弾しながらもラッパを握り続け、戦意高揚の象徴として後世に語り継がれています。教科書にも採用されたこの逸話は、兵士の勇気と献身を象徴するエピソードとして日本軍の士気を象徴しました。戦闘自体は日本軍の勝利に終わり、日清戦争における日本の優勢を印象づける一因となりました。
1894年 日清戦争 安城渡の戦い 木口小平
1937年

通州事件。冀東防共自治政府保安隊が日本軍部隊・特務機関および居留民を襲撃。

通州事件で冀東防共自治政府保安隊が日本軍と居留民を襲撃し、多数の犠牲者が出ました。
1937年7月29日、中国河北省通州(現・北京市通州区)で通州事件が発生しました。冀東防共自治政府の保安隊員らが日本軍の部隊や特務機関、さらには在留日本人を襲撃し、多くの民間人や軍人が虐殺されました。この事件は日中戦争の緊張が高まる中で起こり、日本側の対中感情を一層悪化させました。犠牲者の遺体は暴行の跡が残されるなど残虐性が伝えられ、国際的にも強い非難を招きました。事件後、日本はさらなる軍事行動を正当化し、戦線拡大につながる要因の一つとなりました。
1937年 通州事件 冀東防共自治政府
1943年

第二次世界大戦: キスカ島撤退作戦。日本軍守備隊5600人が、連合軍に包囲されたキスカ島から撤退し、全員無傷で撤収を完了。

日本軍5600人がキスカ島から連合軍の包囲を逃れて全員無傷で撤退を完了しました。
1943年7月29日、第二次世界大戦のアリューシャン諸島戦域でキスカ島撤退作戦(Operation Ke)が行われました。日本軍守備隊約5600人はアメリカ軍とイギリス軍に包囲される中、濃霧を利用して夜間に撤収を開始しました。米英軍は島に夜間上陸せず、翌朝到着すると島は無人で、日本軍は全員無傷で撤収を終えました。この作戦は高度な機密性と過酷な環境を利用した成功例として評価されます。撤退後、連合軍はキスカ島を占領し、アリューシャン諸島全域を掌握しました。
1943年 第二次世界大戦 キスカ島撤退作戦 キスカ島
1967年

ベトナム戦争: アメリカ海軍・航空母艦「フォレスタル」が北ベトナム攻撃中のトンキン湾上で爆発事故を起こし乗員死者132名、負傷者62名を出す大惨事が発生、艦後部を大破する。

1967年7月29日、米海軍航空母艦フォレスタルが北ベトナム攻撃中にトンキン湾で起きた爆発事故。多くの乗員が犠牲となり、艦は大破した。
1967年7月29日、ベトナム戦争中にトンキン湾で米海軍航空母艦「フォレスタル」が爆発・火災事故を起こしました。 事故は甲板での誘導ミサイル取り扱い中の誤作動が連鎖したもので、火災が拡大して艦後部を大破しました。 乗員132名が死亡、62名が負傷し、同時に係留作業や航空作業に大きな混乱をもたらしました。 この惨事は米海軍における航空作業の安全手順見直しを促し、フォレスタル事故調査委員会の設置や運用手順の改定が行われました。 以後、航空母艦の火災防止対策や緊急対応体制が強化されるきっかけとなりました。
1967年 ベトナム戦争 アメリカ海軍 航空母艦 フォレスタル 北ベトナム トンキン湾
1969年

エルサルバドル軍がホンジュラス領内から撤退。サッカー戦争の停戦が成立。

1969年7月29日、エルサルバドル軍がホンジュラス領内から撤退し、サッカー戦争の停戦が成立した。
1969年7月14日から4日間にわたり、エルサルバドルとホンジュラスの間で起きたサッカー戦争は、領土問題や移民対策を背景に両国間で激しい衝突を引き起こしました。 戦闘はサッカーワールドカップ予選の試合をきっかけに勃発し、地上・空軍双方が攻撃を行う大規模な紛争となりました。 犠牲者は数千人規模とされ、インフラにも深刻な被害をもたらしました。 1969年7月29日、エルサルバドル軍はホンジュラス領内からの完全撤退を完了し、停戦が成立しました。 この合意は中米諸国や国際機関の仲介によるもので、戦闘の即時停止と捕虜交換、軍縮協議が含まれていました。 停戦後、両国は領土問題の平和的解決や移民問題の対策に向けた交渉を進めました。
1969年 エルサルバドル ホンジュラス サッカー戦争
1979年

スペインでバスク祖国と自由による連続爆破事件が発生。バラハス空港などが爆破され空港内だけでも死者5人、負傷者113人の犠牲者。

1979年7月29日、スペインのETAによる連続爆破事件がマドリード・バラハス空港を襲い、死者5名、負傷者113名が発生した。
1979年7月29日、スペインのバスク分離主義組織「バスク祖国と自由(ETA)」がマドリード・バラハス空港や市内複数箇所を標的に連続爆破事件を起こしました。 空港ターミナル近くでの爆発は旅客待合エリアを直撃し、5人が死亡、113人が負傷しました。 ETAはフランコ政権後の自治問題を背景に、武装闘争を継続し、数々のテロ事件を起こしてきました。 この事件はスペインの治安当局に大きな衝撃を与え、迅速な捜査と空港警備体制の強化を促しました。 政府はETAの活動を厳しく取り締まり、後の自治政府移行プロセスにも影響を及ぼす出来事となりました。
1979年 スペイン バスク祖国と自由 バラハス空港