1364年

カッシナの戦い。

フィレンツェ共和国とミラノ公国の勢力争いの一環として行われた中世イタリアの戦いです。近代火器の使用が注目されました。
1364年7月28日にフィレンツェ共和国軍とミラノ公国軍の間で行われた戦闘です。 両軍はイタリア半島北部の支配権を巡り衝突し、近代的な火器の試用が見られたことでも知られます。 フィレンツェ側は市民兵主体の軍を編成し、ミラノ側は傭兵を多く採用して対抗しました。 戦闘は激しい白兵戦や包囲戦を伴い、最終的な勝敗は定かではありませんが互いに大きな損耗を被りました。 この戦いはイタリア戦争の端緒となり、地域の政治勢力地図を大きく塗り替えました。
1364年 カッシナの戦い
天正17年6月16日

上杉景勝の侵攻により佐渡国羽茂城が落城。鎌倉時代以来の佐渡本間氏の統治が終わり、上杉領となる。

上杉景勝の侵攻により佐渡国羽茂城が陥落し、本間氏の統治が終焉を迎えました。
1589年7月28日(天正17年6月16日)、上杉景勝の軍勢が羽茂城を包囲。 羽茂城は鎌倉時代以来、佐渡本間氏の居城として繁栄してきました。 数日の攻防戦の末、城主本間氏は降伏し、上杉領として編入。 これにより佐渡島の政治的支配権は一変し、上杉氏の影響が強まります。 新たな領主は年貢徴収や地元豪族の再編成を進め、佐渡の経済体制を整備しました。
1589年 天正 6月16日 上杉景勝 佐渡国 羽茂城 鎌倉時代 佐渡本間氏
1809年

半島戦争: タラベラの戦い。

ナポレオン戦争下の半島戦争で英西連合軍と仏軍が衝突したタラベラの戦い。
1809年7月28日、スペイン中部タラベラ付近で英西連合軍とナポレオン軍が激突。 アーサー・ウェルズリー将軍(後のウェリントン公)率いる連合軍はフランス軍の防御線を突破。 戦闘は猛暑の中で行われ、多数の死傷者を出しました。 連合軍の勝利はイベリア半島における反仏抵抗の士気を高めました。 タラベラの戦いは半島戦争における重要な転機の一つとされています。
1809年 半島戦争 タラベラの戦い 英語版
1914年

第一次世界大戦: オーストリア=ハンガリー帝国がセルビアに宣戦布告。世界の多数の国が参戦する「第一次世界大戦」に発展。

オーストリア=ハンガリー帝国がセルビアに宣戦布告し、第一次世界大戦が本格化した。
1914年7月28日、オーストリア=ハンガリー帝国がセルビアに宣戦布告しました。 この宣戦布告はサラエボ事件をきっかけとする「7月危機」の一環で、同盟国・協商国を巻き込んだ大規模な戦争へと発展しました。 以降、ヨーロッパ各国が次々と参戦し、総力戦の様相を呈し、陸戦・海戦・新兵器の使用など近代戦争の様相を一変させました。 戦後の国際秩序や民族自決、国際連盟設立につながる重大な転換点となりました。 宣戦布告後わずか数週間でヨーロッパの多くの国が参戦し、世界大戦へと拡大しました。
1914年 第一次世界大戦 オーストリア=ハンガリー帝国 セルビア
1941年

仏印進駐: 日本軍が南部仏印への進駐を開始。

日本軍が南部フランス領インドシナへ進駐し、対英米関係が一層緊迫化した。
1941年7月28日、対仏休戦政府の許可を得た日本軍が南部フランス領インドシナへの進駐を開始しました。 この動きは対米英経済制裁の一因となり、アジア太平洋地域での日米関係を一層悪化させました。 日本側は資源確保と南方進出の足がかりとし、フランス領インドシナの戦略的拠点化を図りました。 最終的には真珠湾攻撃へとつながり、太平洋戦争開戦の大きな前奏となった事件です。 進駐開始によりアジア太平洋地域での戦線拡大が加速し、日本軍はビルマやマレー半島方面への攻勢を強めました。
1941年 仏印進駐 日本 南部仏印
1942年

第二次世界大戦: ヨシフ・スターリンが敵前逃亡を禁止するソ連国防人民委員令第227号を発令。

スターリンが「後退は許さない」と宣言した令第227号を発令し、ソ連軍の統制を強化した。
1942年7月28日、ヨシフ・スターリンはソ連国防人民委員令第227号を発令し、敵前逃亡を厳罰に処することを定めました。 「一歩も退くな(Not one step back!)」のスローガンの下、脱走兵には死刑や強制労働を科し、罰則を徹底しました。 この命令はスターリングラード攻防戦など厳しい戦況下での軍規維持と士気向上を狙ったものでした。 一方で捕虜や負傷兵への対応が困難になり、多くの悲劇を生む結果ともなりました。 命令には罰則部隊(ショック部隊)の創設も含まれており、戦線での統制が徹底されました。
1942年 第二次世界大戦 ヨシフ・スターリン 敵前逃亡 ソ連国防人民委員令第227号
1945年

第二次世界大戦・日本本土空襲: 青森大空襲。

太平洋戦争末期、青森市がアメリカ軍による大規模空襲を受けた。
1945年7月28日夜、アメリカ陸軍航空隊のB-29爆撃機部隊が青森市を空襲しました。 市街地は大きな被害を受け、多数の民間人が犠牲となりました。 空襲は日本本土空襲の一環として、港湾施設や工業地帯を標的としたものです。 戦後、復興計画において空襲の記憶は保存され、平和学習の場としても活用されています。 青森大空襲の被害は戦後調査で資料にまとめられ、平和学習や都市計画に活用されています。
日本本土空襲 青森大空襲
1945年

第二次世界大戦・日本本土空襲: 大山口列車空襲。

1945年7月28日、アメリカ軍による日本本土空襲の一環として山口県付近を移動中の列車が攻撃を受けた事件です。
・太平洋戦争末期、B-29爆撃機による連日の本土空襲が行われていた中で発生しました。 ・山口県付近を走行中の列車が爆撃・銃撃の被害を受け、多数の乗客や乗務員に被害が及んだとされます。 ・鉄道網を狙った攻撃は物資輸送の遮断を目的としており、民間輸送への影響も大きかった点が特徴です。 ・当時の記録は限られているものの、空襲の激化を象徴する一例として知られています。 ・この攻撃は、戦局の逼迫を背景にした本土防衛の脆弱さを浮き彫りにしました。
大山口列車空襲
1945年

第二次世界大戦・日本本土空襲: 呉軍港空襲。24日分と合わせ、燃料不足により停泊していた多くの艦が大破・着底する。

1945年7月28日、アメリカ軍B-29爆撃機による呉軍港空襲が実施され、燃料切れで停泊していた艦艇が大破・着底しました。
・呉軍港空襲は7月24日と28日の2回にわたり行われ、燃料不足で航行不能となった多数の艦艇が標的となりました。 ・攻撃に使用されたB-29爆撃機は、港湾施設や艦艇を重点的に爆撃し、火災や浸水被害を引き起こしました。 ・当時、呉は日本海軍の重要拠点であり、戦艦や空母など多くの戦列艦が配備されていました。 ・空襲の結果、多数の艦艇が大破・着底し、戦力喪失の一因となりました。 ・本攻撃は本土防衛をめぐる激しさと、連合軍の海軍力削減戦略を象徴しています。
呉軍港空襲
1965年

ベトナム戦争: 米大統領リンドン・ジョンソンが、海兵隊のほかに陸軍もベトナムに派遣すると発表。

1965年7月28日、ジョンソン米大統領が陸軍部隊のベトナム本格派遣を発表し、戦争の大規模化を決定しました。
・トンキン湾決議後、アメリカは段階的な軍事介入を進めていましたが、本日ついに陸軍師団の派遣を決定しました。 ・これにより海兵隊だけでなく25,000以上の陸軍部隊がベトナムへ送られ、地上戦が本格化しました。 ・大統領は「平和主義を守るための防衛行動」と説明し、議会と国民の支持を求めました。 ・この発表はアメリカ国内外で賛否を呼び、戦争反対運動の高まりにもつながりました。 ・結果的にベトナム戦争は長期化し、米国社会に深刻な影響を与える泥沼化へと突入しました。
1965年 ベトナム戦争 リンドン・ジョンソン 陸軍
2005年

IRA暫定派が全ての武装活動の停止を宣言。

2005年7月28日、IRA暫定派が全ての武装活動の停止を宣言しました。北アイルランド和平に大きな転機をもたらしました。
アイルランド共和国軍(IRA)暫定派は北アイルランド紛争における主要武装組織の一つです。 2005年7月28日、同派は全ての武装活動を永久に停止する声明を発表しました。 この宣言は1997年の停戦以来の揺らぎを経て改めて武力放棄を明言するものでした。 声明では武力による目的達成を断念し、政治的手段への完全移行が宣言されました。 これを受けて英国政府や北アイルランド自治政府との協議が進み、和平プロセスが大きく前進しました。 以降、武装闘争を終えた元兵士の社会復帰支援などが課題として取り組まれることになりました。
2005年 IRA暫定派
2008年

イラクの首都バグダッド中心部で、女性3人による連続自爆テロ発生。

2008年7月28日、バグダッド中心部で女性3人が連続して自爆攻撃を行い、治安が一層悪化しました。
2008年7月28日、イラクの首都バグダッド中心部で女性3人による自爆テロが相次ぎました。 3回の爆発は商業地区や治安部隊の検問所を狙ったものとみられ、通行人や警備要員が巻き込まれました。 不安定な治安情勢の中、爆破事件が度重なることは国内外で大きな衝撃を呼びました。 当局は直後に警戒態勢を強化し、関係組織の捜査を進めました。 テロ対策と治安回復の難しさが改めて浮き彫りになりました。
イラク バグダッド 自爆テロ