1364年

カッシナの戦い。

フィレンツェ共和国とミラノ公国の勢力争いの一環として行われた中世イタリアの戦いです。近代火器の使用が注目されました。
1364年7月28日にフィレンツェ共和国軍とミラノ公国軍の間で行われた戦闘です。 両軍はイタリア半島北部の支配権を巡り衝突し、近代的な火器の試用が見られたことでも知られます。 フィレンツェ側は市民兵主体の軍を編成し、ミラノ側は傭兵を多く採用して対抗しました。 戦闘は激しい白兵戦や包囲戦を伴い、最終的な勝敗は定かではありませんが互いに大きな損耗を被りました。 この戦いはイタリア戦争の端緒となり、地域の政治勢力地図を大きく塗り替えました。
1364年 カッシナの戦い
1493年

アルバート通りのセントニコラウス教会から火災が発生。モスクワの街全体に広がる大火災になった。

1493年にモスクワのアルバート通りで発生した大規模火災。市街地をほぼ全焼させ、多くの建物が失われました。
1493年7月28日、モスクワのアルバート通りにあるセントニコラウス教会付近から出火。 教会建築に用いられた木材や強風にあおられ、火は急速に周辺へ拡大。 数千戸の住宅や商館が炎に包まれ、市民の避難は混乱を極めました。 当時の文書によれば死者こそ少数でしたが、家屋やインフラの被害は甚大。 大火災後、イワン3世の下で都市再建計画が進められ、木造建築から石造への転換が促されました。
1493年 アルバート通り
永正5年7月1日

室町幕府第10代将軍だった足利義尹(後の義稙)が第12代将軍に復帰。

足利義尹(後の義稙)が第12代将軍に復帰し、室町幕府の政権構造が再編されました。
1508年7月28日(永正5年7月1日)、第10代将軍足利義尹が12代将軍として復帰。 彼は一度幕府内の権力闘争で追放されたものの、細川氏ら有力守護大名の支持を得て復権を果たしました。 復帰に伴い、幕府内では細川氏、太内氏、山名氏など諸大名間の勢力均衡が見直されました。 義尹は求心力強化を図る一方で、財政再建や裁判制度の整備にも着手。 しかし、将軍権威の回復は限定的で、実質的には有力守護の連合体による共同統治体制が続きました。
1508年 永正 7月1日 義稙
1540年

イングランド王ヘンリー8世のかつての側近トマス・クロムウェルが処刑される。同日、ヘンリー8世は5番目の妻キャサリン・ハワードと結婚。

ヘンリー8世の側近クロムウェルが処刑され、同日にキャサリン・ハワードと結婚しました。
1540年7月28日、イングランド王ヘンリー8世の首席顧問トマス・クロムウェルが反逆罪で処刑。 クロムウェルはアン・オブ・クレーヴズ王妃との婚姻交渉に失敗し、王の信頼を失いました。 彼の処刑後、ヘンリー8世は同日に5番目の妻キャサリン・ハワードと結婚。 若いキャサリンは王の寵愛を受けるものの、後に不倫を理由に処刑される悲劇的な運命を辿りました。 この一連の出来事はヘンリー8世の激動的な宮廷政治を象徴しています。
1540年 イングランド ヘンリー8世 トマス・クロムウェル キャサリン・ハワード
天正17年6月16日

上杉景勝の侵攻により佐渡国羽茂城が落城。鎌倉時代以来の佐渡本間氏の統治が終わり、上杉領となる。

上杉景勝の侵攻により佐渡国羽茂城が陥落し、本間氏の統治が終焉を迎えました。
1589年7月28日(天正17年6月16日)、上杉景勝の軍勢が羽茂城を包囲。 羽茂城は鎌倉時代以来、佐渡本間氏の居城として繁栄してきました。 数日の攻防戦の末、城主本間氏は降伏し、上杉領として編入。 これにより佐渡島の政治的支配権は一変し、上杉氏の影響が強まります。 新たな領主は年貢徴収や地元豪族の再編成を進め、佐渡の経済体制を整備しました。
1589年 天正 6月16日 上杉景勝 佐渡国 羽茂城 鎌倉時代 佐渡本間氏
フランス革命暦II年テルミドール10日

フランス革命: 前日のテルミドールのクーデターで失脚したジャコバン派メンバーに死刑判決が下され、同日のうちにロベスピエールら22人が処刑される。

ジャコバン派の粛清によりロベスピエールら22人が処刑され、テルミドールの反動が決定的に。
1794年7月28日(フランス革命暦テルミドール10日)、テルミドールの反動として処刑が執行。 前日のクーデターで失脚したジャコバン派指導者ロベスピエールらに死刑判決が下されました。 計22名がパリの公共広場で断頭台にかけられ、恐怖政治の終焉を象徴。 この一連の粛清はジャコバン派の権力奪還を阻止し、総裁政府誕生への道を開きました。 国内は一時的に安定を取り戻すものの、革命の混乱は続くことになります。
1794年 フランス革命暦 フランス革命 テルミドールのクーデター ジャコバン派 ロベスピエール
1809年

半島戦争: タラベラの戦い。

ナポレオン戦争下の半島戦争で英西連合軍と仏軍が衝突したタラベラの戦い。
1809年7月28日、スペイン中部タラベラ付近で英西連合軍とナポレオン軍が激突。 アーサー・ウェルズリー将軍(後のウェリントン公)率いる連合軍はフランス軍の防御線を突破。 戦闘は猛暑の中で行われ、多数の死傷者を出しました。 連合軍の勝利はイベリア半島における反仏抵抗の士気を高めました。 タラベラの戦いは半島戦争における重要な転機の一つとされています。
1809年 半島戦争 タラベラの戦い 英語版
1821年

ホセ・デ・サン=マルティンがペルーのスペインからの独立を宣言。(ペルーの独立記念日)

ホセ・デ・サン=マルティンがペルーのスペインからの独立を宣言し、独立記念日となりました。
1821年7月28日、リマの大聖堂においてサン=マルティン将軍が「ペルー共和国」の独立を宣言。 南米解放の英雄サン=マルティンはアルゼンチン、チリでの勝利を経てペルー解放に尽力。 宣言後、スペイン王党派との交渉が続いたものの、独立運動は全国に広がります。 この日を祝して後に7月28日がペルーの独立記念日に定められました。 独立後の政治体制構築には困難を伴い、内戦や権力闘争が続きました。
1821年 ホセ・デ・サン=マルティン ペルー スペイン 独立記念日
1873年

明治政府が地租改正法と地租改正条例を公布。年貢・田租に代わる地価の3%の地租を定める。

明治政府が地租改正法と条例を公布し、地価の3%を地租として定めました。
1873年7月28日、明治政府は地租改正法と地租改正条例を公布。 従来の年貢・田租制度を廃止し、地価の3%を定額の地租として課税。 地価は地方農民からの聞き取りや踏査により評価が決定されました。 この制度は近代国家財政の柱となり、政府収入を安定化させました。 一方、多くの農民にとっては負担増となり、反対運動や一揆の契機ともなりました。
1873年 地租改正法と地租改正条例 年貢 田租 地租
1877年

英国の冶金技師ウィリアム・ガウランドが、外国人として初めて槍ヶ岳に登頂。登頂記録を雑誌で紹介する際「Japan alps」という表現を使い、今日の「日本アルプス」の語源になった。

ウィリアム・ガウランドが槍ヶ岳に初登頂し「Japan alps」の名称を紹介しました。
1877年7月28日、英国の冶金技師ウィリアム・ガウランドが槍ヶ岳初登頂を達成。 彼は旅行記を雑誌に寄稿し、穂高連峰などを総称して「Japan alps」と表現。 この呼称は欧米で広まり、日本アルプスという地名の由来となりました。 当時の日本山岳観測や測量技術の発展にも影響を与え、国内外の登山熱を高めました。 日本アルプスは後に多くの登山家を魅了し、観光資源としても重要視されました。
1877年 槍ヶ岳 日本アルプス
1883年

日本鉄道・上野 熊谷(現在の東北本線・高崎線)が開業。日本初の私設鉄道。

日本初の私設鉄道として、上野から熊谷間が開業。東北本線と高崎線の前身となった路線です。
明治16年(1883年)7月28日、日本鉄道・上野~熊谷間(約50km)が開業しました。 これは日本初の私設鉄道として知られ、当初は蒸気機関車が旅客と貨物を輸送していました。 路線は後に東北本線と高崎線の一部となり、首都圏と関東地方北部を結ぶ重要幹線となりました。 開業当時は平均速度も現在より低かったものの、地域産業の振興や物流効率化に大きく貢献しました。 建設にはイギリスから輸入した技術と国内の技術者が協力し、近代的鉄道技術の普及に寄与しました。 現在も同区間はJR東日本が運営し、多くの人々に利用されています。
1883年 日本鉄道 上野 熊谷 東北本線 高崎線 私設鉄道
1889年

熊本市の西を震源とする熊本地震。死者20人。

熊本市西方を震源とする地震が発生し、死者20人を出した明治時代の災害。
明治22年(1889年)7月28日午前、熊本市西方を震源とする地震が発生しました。 被害は広範囲におよび、家屋の倒壊や土砂崩れが相次ぎ、20名が命を落としました。 当時の地震観測技術は未発達で、正確な震度やマグニチュードの記録は残されていません。 地域住民や政府は復興に向けた支援と協働を進め、その後のまちづくりの教訓となりました。 この地震は明治期の自然災害対策強化の契機となり、後の防災政策に影響を与えました。 復旧作業では仮設住宅の建設や道路復旧が行われ、地域の防災体制が見直されました。
1889年 熊本市 熊本地震