天正10年7月8日
太閤検地: 羽柴秀吉が近江で初めて検地を行う。
1582年7月27日、羽柴秀吉が近江国で初めての太閤検地を実施し、領地支配の基盤を固めました。
太閤検地は土地の面積や生産力を正確に把握するための全国的な土地調査の先駆けです。秀吉は石高制を導入し、農民からの年貢徴収を合理化しました。この制度により大名や領主の権限を制限し、中央集権化を強化しました。検地帳には田畑の区分や品質、所有者が記録され、租税の公平な配分が可能となりました。近江での成功を足掛かりに、以後、日本各地に検地が広がりました。
1582年
天正
7月8日
太閤検地
羽柴秀吉
検地
1789年
アメリカ合衆国国務省の前身であるアメリカ合衆国外務省が設立される。アメリカ合衆国憲法下における初の連邦機関。
1789年7月27日、アメリカ合衆国憲法下で初めての連邦機関として国外務省(現在の国務省)が設立されました。
国外務省は新たに発足した連邦政府の対外政策機関として創設され、外交交渉や条約締結を担当しました。初代国務長官にはトーマス・ジェファーソンが任命され、駐外公使の派遣や外務文書の管理を行いました。設立当初は小規模な組織でしたが、国際的地位の向上とともに業務範囲を拡大しました。憲法制定後のアメリカが国際社会と積極的に関与する足がかりとなり、今日の国務省の基盤を築きました。
1789年
アメリカ合衆国
アメリカ合衆国憲法
フランス革命暦II年テルミドール9日
フランス革命: テルミドールのクーデター。
1794年7月27日(テルミドール9日)、ロベスピエールらジャコバン派の指導者が失脚したテルミドールの反動が起こりました。
テルミドールのクーデターはロベスピエールらが権力集中を進めた恐怖政治への反発から始まりました。国民公会の一部議員が決起し、ジャコバン派指導者を逮捕・処刑しました。これにより恐怖政治は終焉し、反動的な熱望派(テルミドリアン)による統治が始まりました。政治体制は穏健化し、革命後期の不安定さが緩和されました。最終的に総裁政府への移行が進み、ナポレオン台頭への道筋が形成されました。
1794年
フランス革命暦
フランス革命
テルミドールのクーデター
1830年
フランス7月革命勃発。
1830年7月27日、パリで市民蜂起が始まり、フランス王シャルル10世の退位をもたらした7月革命が勃発しました。
7月革命はシャルル10世の復古主義的政策に対する反発から起こりました。労働者や学生、ブルジョワジーらが三日間にわたりバリケードを築き、革命軍として軍と衝突しました。シャルル10世は退位し、オルレアン家出身のルイ=フィリップが「市民王」として即位しました。この革命により自由主義的憲章が発布され、中産階級の政治参加が拡大しました。ヨーロッパ各地にも波及し、19世紀の自由主義運動に大きな影響を与えました。
1830年
フランス7月革命
弘化3年6月5日
浦賀奉行が通商拒否・退去通告。
1846年7月27日、江戸幕府の浦賀奉行が来航した欧米艦隊に通商を拒否し、退去を通告しました。
浦賀奉行はアメリカ海軍のジェームズ・ビドル艦隊に対して貿易交渉を一切認めず、幕府の鎖国政策を堅持しました。ビドル艦隊は鎖国解消を求めましたが、厳しい対応を受けて離脱を余儀なくされました。この出来事は幕府の対外姿勢の硬直性を象徴し、その後の開国交渉の難航に影響を与えました。翌年のペリー来航への伏線ともなり、日本の開国に向けた動きが加速しました。
1846年
1929年
ジュネーブ条約の一つである俘虜の待遇に関する条約が作成される。
1929年7月27日、戦時捕虜の待遇を定めるジュネーブ条約(第3条約)が制定されました。
第一次世界大戦の教訓を踏まえ、戦時捕虜の人道的取り扱いを規定する条約が策定されました。
捕虜の収容条件や労働、通信の自由、家族への面会などの権利が明文化されました。
この条約は1949年に改定され、現在のジュネーブ条約第3条約として戦争法規の基盤を築いています。
1929年
ジュネーブ条約
俘虜の待遇に関する条約
1939年
アメリカ合衆国が日米通商航海条約の破棄を通告。半年後の1940年1月26日に失効。
1939年7月27日、米国が日米通商航海条約の破棄を通告し、1940年1月に条約は失効しました。
日米両国が1911年に締結した通商航海条約は、日本の領事裁判権を一部認める内容でした。
米国は日本の対中侵略を強く非難し、7月27日に条約破棄を通告。
半年後の1940年1月26日に正式に失効し、日米関係の緊張が一層高まりました。
この動きは第二次世界大戦前夜の国際情勢を象徴する出来事です。
1939年
日米通商航海条約
1940年
1月26日
1945年
労働党党首クレメント・アトリーがイギリスの首相に就任。
1945年7月27日、クレメント・アトリーがイギリス首相に就任し、戦後改革を推進しました。
イギリス総選挙で労働党が圧勝し、アトリーが首相に就任しました。
彼の政権下で社会保障制度の拡充や国民保健サービス(NHS)の創設が行われ、福祉国家の基礎を築きました。
またインド独立法の成立など、帝国解体と戦後復興政策を同時に進めた点が特徴です。
1945年
労働党
クレメント・アトリー
イギリスの首相
1955年
オーストリアの連合国による占領が終了し、主権を回復。永世中立宣言はこの年の10月26日。
第二次大戦後の連合国占領が終わり、オーストリアが正式に主権を回復した日です。
第二次世界大戦後、オーストリアはアメリカ、イギリス、フランス、ソ連の4か国によって占領されていました。1955年5月15日にウィーン条約が調印され、同条約は7月27日に発効、これにより連合国による占領が正式に終了し、オーストリアは完全な主権を回復しました。国民は占領解除を歓迎し、新たな民主国家としての再出発を果たしました。続いて10月26日には永世中立を宣言し、冷戦下における中立国としての立場を確立しました。この宣言は今日までオーストリアの外交政策の基盤となっています。
1955年
オーストリア
連合国による占領
10月26日
1974年
ウォーターゲート事件: 米下院司法委員会がリチャード・ニクソン大統領の司法妨害に対する第1の弾劾を可決。
米下院司法委員会がニクソン大統領の司法妨害を認定し、第1の弾劾決議案を可決した事件です。
1974年7月27日、アメリカ下院司法委員会はウォーターゲート事件に関連し、リチャード・ニクソン大統領が司法妨害を行ったとして第1の弾劾決議案を可決しました。この可決は大統領の権力乱用と捜査妨害を公式に問題視するもので、史上初めてホワイトハウスで起きた大規模政治スキャンダルに対する重大な一歩となりました。司法委員会は証拠開示命令に対する大統領の介入や捜査官の解任などの行為を具体的に列挙し、弾劾条項を採択しました。この動きにより世論は一気にニクソンへの信頼を失い、最終的に同年8月8日に大統領は辞任を余儀なくされました。ウォーターゲート事件はアメリカ政治におけるチェック・アンド・バランスの重要性を示す象徴的な出来事となりました。
1974年
ウォーターゲート事件
下院司法委員会
リチャード・ニクソン
弾劾
1976年
ロッキード事件: 田中角栄前首相(当時)が逮捕される。
元首相・田中角栄が賄賂を巡るロッキード事件で逮捕された日です。
1976年7月27日、ロッキード社による旅客機売り込み工作疑惑に関連して、当時の元首相・田中角栄が逮捕されました。田中氏は経済界との強い結びつきを背景に公的影響力を行使したとされ、多額の賄賂受領が問題視されました。逮捕は政治界に衝撃を与え、日本の政界構造や癒着の実態が浮き彫りとなりました。裁判では陪審員制度を模した審理が行われ、1976年10月に有罪判決が下されました。この事件は戦後日本の政治において最大級の汚職スキャンダルとされ、政治資金規正法の見直しや政治改革の契機となりました。
1976年
ロッキード事件
田中角栄
1990年
ベラルーシがソビエト連邦からの独立を宣言。1991年に承認される。
1990年7月27日、ベラルーシがソビエト連邦からの独立を宣言。
翌1991年に国際的に承認され、新たな主権国家が誕生しました。
当時、ソビエト連邦はゴルバチョフのペレストロイカ政策の下で各共和国の自立意識が高まっていました。
ベラルーシ最高会議は7月27日に独立宣言を採択し、中央政府からの離脱を正式に表明しました。
新たに採用されたベラルーシ語の国名使用や独自の国旗・国章は国家意識の象徴となりました。
一方でソ連崩壊前の混乱期にあったため、国際的承認までには時間を要しました。
最終的に1991年8月に独立は正式に認められ、ベラルーシ共和国は国連加盟国となりました。
1990年
ベラルーシ
ソビエト連邦
1991年
承認