1214年

ブーヴィーヌの戦い。フランス王フィリップ2世がイングランド王ジョンを破る。

1214年、中世ヨーロッパの覇権をかけた大規模な戦いです。フランス王フィリップ2世がイングランド王ジョン率いる軍を打ち破り、カペー朝の勢力を確固たるものとしました。
戦いはフランス北部のブーヴィーヌ近郊で行われ、神聖ローマ帝国やフランドル伯も介入した連合軍と対峙しました。フィリップ2世は巧みな戦術で敵の大軍を分断し、要所を制圧して勝利を収めました。この勝利によりフィリップ2世は国内の統治基盤を強化し、中央集権化を推進しました。対するイングランド王ジョンは権威を大きく失墜させ、後のマグナ・カルタ締結にも影響を与えました。ブーヴィーヌの戦いは中世ヨーロッパの勢力図を書き換える転換点として知られています。
1214年 ブーヴィーヌの戦い フィリップ2世 ジョン
天文18年7月3日

フランシスコ・ザビエルの船が鹿児島沖に到達し錨を降ろす。8月15日(旧暦7月22日)に上陸。

1549年7月27日、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島沖に到着し、日本での本格的なキリスト教布教が始まりました。
ザビエルはポルトガル領インドから船団を率いて東南アジアを経由し、日本へ向かいました。鹿児島沖で錨を降ろした後、当初は薩摩藩主島津氏の許可を得て布教を試みました。彼は言語習得や通訳の確保に努め、現地の人々との交流を深めました。翌8月15日には正式に上陸し、初の洗礼やキリスト教教義の紹介を行いました。これにより長崎を拠点としたキリシタン文化が形成され、後の日本史に大きな影響を残しました。
1549年 天文 7月3日 フランシスコ・ザビエル 8月15日 7月22日
天正10年7月8日

太閤検地: 羽柴秀吉が近江で初めて検地を行う。

1582年7月27日、羽柴秀吉が近江国で初めての太閤検地を実施し、領地支配の基盤を固めました。
太閤検地は土地の面積や生産力を正確に把握するための全国的な土地調査の先駆けです。秀吉は石高制を導入し、農民からの年貢徴収を合理化しました。この制度により大名や領主の権限を制限し、中央集権化を強化しました。検地帳には田畑の区分や品質、所有者が記録され、租税の公平な配分が可能となりました。近江での成功を足掛かりに、以後、日本各地に検地が広がりました。
1582年 天正 7月8日 太閤検地 羽柴秀吉 検地
1656年

バールーフ・デ・スピノザが破門される。

1656年、オランダの哲学者バールーフ・デ・スピノザがユダヤ教共同体から破門され、その思想は異端とされました。
スピノザは合理主義哲学を基盤とし、神と自然を同一視する汎神論的な立場を展開しました。彼の著作『神学政治論』などは宗教的権威を批判し、自由な言論を擁護しました。これによりユダヤ教コミュニティから神学的に異端とみなされ、破門処分を受けました。破門後も彼はアムステルダム近郊で研磨業に従事しながら執筆活動を続けました。スピノザの思想は後世の啓蒙思想や現代哲学に大きな影響を与えました。
1656年 バールーフ・デ・スピノザ
1778年

アメリカ独立戦争: ウェサン島の海戦。

1778年7月27日、アメリカ独立戦争の戦局を左右する海戦がイギリス海軍とフランス海軍の間でウェサン島沖で行われました。
この海戦はイギリス海軍のケッペル提督とフランス海軍のドルヴィリエ提督が指揮を執りました。両艦隊は激しい砲撃戦を繰り広げましたが、決定的な勝利は得られず戦況は宙ぶらりんのまま終結しました。フランス王ルイ16世の支援を受けたアメリカ側は海上戦力の均衡を示し、独立戦争へのフランス参戦の意義を示しました。この結果、イギリスはアメリカ東海岸への補給線維持に苦慮し、戦略に影響を及ぼしました。戦後、両国艦隊は港に退き、海上戦における戦術や艦隊運用の見直しが行われました。
1778年 アメリカ独立戦争 ウェサン島の海戦
1789年

アメリカ合衆国国務省の前身であるアメリカ合衆国外務省が設立される。アメリカ合衆国憲法下における初の連邦機関。

1789年7月27日、アメリカ合衆国憲法下で初めての連邦機関として国外務省(現在の国務省)が設立されました。
国外務省は新たに発足した連邦政府の対外政策機関として創設され、外交交渉や条約締結を担当しました。初代国務長官にはトーマス・ジェファーソンが任命され、駐外公使の派遣や外務文書の管理を行いました。設立当初は小規模な組織でしたが、国際的地位の向上とともに業務範囲を拡大しました。憲法制定後のアメリカが国際社会と積極的に関与する足がかりとなり、今日の国務省の基盤を築きました。
1789年 アメリカ合衆国 アメリカ合衆国憲法
フランス革命暦II年テルミドール9日

フランス革命: テルミドールのクーデター。

1794年7月27日(テルミドール9日)、ロベスピエールらジャコバン派の指導者が失脚したテルミドールの反動が起こりました。
テルミドールのクーデターはロベスピエールらが権力集中を進めた恐怖政治への反発から始まりました。国民公会の一部議員が決起し、ジャコバン派指導者を逮捕・処刑しました。これにより恐怖政治は終焉し、反動的な熱望派(テルミドリアン)による統治が始まりました。政治体制は穏健化し、革命後期の不安定さが緩和されました。最終的に総裁政府への移行が進み、ナポレオン台頭への道筋が形成されました。
1794年 フランス革命暦 フランス革命 テルミドールのクーデター
1830年

フランス7月革命勃発。

1830年7月27日、パリで市民蜂起が始まり、フランス王シャルル10世の退位をもたらした7月革命が勃発しました。
7月革命はシャルル10世の復古主義的政策に対する反発から起こりました。労働者や学生、ブルジョワジーらが三日間にわたりバリケードを築き、革命軍として軍と衝突しました。シャルル10世は退位し、オルレアン家出身のルイ=フィリップが「市民王」として即位しました。この革命により自由主義的憲章が発布され、中産階級の政治参加が拡大しました。ヨーロッパ各地にも波及し、19世紀の自由主義運動に大きな影響を与えました。
1830年 フランス7月革命
弘化3年6月5日

浦賀奉行が通商拒否・退去通告。

1846年7月27日、江戸幕府の浦賀奉行が来航した欧米艦隊に通商を拒否し、退去を通告しました。
浦賀奉行はアメリカ海軍のジェームズ・ビドル艦隊に対して貿易交渉を一切認めず、幕府の鎖国政策を堅持しました。ビドル艦隊は鎖国解消を求めましたが、厳しい対応を受けて離脱を余儀なくされました。この出来事は幕府の対外姿勢の硬直性を象徴し、その後の開国交渉の難航に影響を与えました。翌年のペリー来航への伏線ともなり、日本の開国に向けた動きが加速しました。
1846年
1865年

ウェールズ人入植者 (en:Welsh Argentine) がアルゼンチンチュブ州に到着。

1865年7月27日、ウェールズ人移民がアルゼンチン南部のチュブ州に到着し、新たな定住地を開拓しました。
ウェールズ人移民はパトリオット協会の支援を受けてパタゴニア地方へ渡航しました。彼らは最初にプエルト・マドリンに上陸し、農業や牧畜を中心にコミュニティを築きました。異国の地で言語と文化を守りながら発展し、現在でも現地にウェールズ文化が残っています。この入植はアルゼンチンの多民族社会の形成に寄与し、観光資源としても注目されています。
1865年 ウェールズ en:Welsh Argentine アルゼンチン チュブ州
1866年

大西洋横断電信ケーブルの敷設作業が完了。

1866年7月27日、世界初の大西洋横断電信ケーブルの敷設が完成し、欧米間での瞬時通信が可能になりました。
これまで数度にわたる試みが失敗に終わった後、最終的に1866年に大西洋横断電信ケーブルが敷設されました。 英国のケーブル敷設船「グレート・イースタン号」が西アイルランドと米国ニューファンドランドを結び、約4,000kmの海底ケーブル敷設に成功。 これにより欧米間の通信時間は数週間から数分に短縮され、国際政治・経済に大きな影響を与えました。 技術革新と海洋探査の成果が結集した歴史的プロジェクトとして知られています。
1866年 大西洋横断電信ケーブル
1890年

オランダの画家・ゴッホがピストルで自殺を図る。2日後の7月29日に病院で死亡。

ポスト印象派の画家フィンセント・ファン・ゴッホが1890年7月27日に自殺を図り、2日後に死去しました。
精神的な苦悩と孤独を抱えていたゴッホは、フランス郊外のオヴェール=シュル=オワーズでピストル自殺を試みました。 胸に致命傷を負い病院に搬送されましたが、7月29日に容体が悪化し亡くなりました。 彼の死は37歳という若さで訪れ、その後の評価は高まり、ポスト印象派の巨匠として芸術史にその名を刻んでいます。
1890年 オランダ ゴッホ 7月29日