1457年

フランス王アンリ2世が戴冠。

フランス王アンリ2世が正式に戴冠し、ヴァロワ朝の勢力を固めました。
1457年7月25日、ランス大聖堂においてアンリ2世がフランス王として戴冠した。 父シャルル7世の跡を継ぎ、ヴァロワ朝の統治をさらに強化する意味を持った。 教皇の承認を得た厳粛な儀式で、貴族や高位聖職者が参列した。 彼は後にフランスの絶対王政の基礎を築き、国内政治と文化を大きく発展させた。 この戴冠はフランス王権の象徴として現在も歴史的行事として記憶されている。
1457年 フランス アンリ2世
1593年

フランス王アンリ4世がプロテスタントからカトリックに改宗。

アンリ4世がプロテスタントからカトリックへ改宗し、宗教和解への第一歩を踏み出しました。
1593年7月25日、アンリ4世はユグノー(プロテスタント)からカトリックに改宗することでパリ入りを果たした。 長年続いた宗教戦争を終結へ導くため、王は「パリはパンとミサを求める」として改宗を決断。 この行動は国内のカトリック勢力の支持を取り付け、王権安定に寄与した。 後のナントの勅令(1598年)によって宗教的寛容政策を打ち出し、国力回復を図った。 アンリ4世の改宗はフランス政治史における大きな転換点とされる。
1593年 アンリ4世 プロテスタント カトリック
1603年

スコットランド王ジェームズ6世がイングランド王(ジェームス1世)としても戴冠。

ジェームズ6世がイングランド王ジェームス1世として戴冠し、英蘭同君連合が始まりました。
1603年7月25日、スコットランド王ジェームズ6世がイングランド王ジェームス1世としてロンドンで戴冠した。 エリザベス1世の死去に伴い、スチュアート朝による両国同君連合が始まった。 イングランドとスコットランドは法的に別国家のままだったが、同一君主による統治が実現。 政治的結びつきは1707年の合同法によるグレートブリテン王国成立まで続いた。 この戴冠は英国王家の国際的地位と英語圏の歴史を大きく変える出来事だった。
1603年 スコットランド ジェームズ6世 イングランド 1707年 グレートブリテン王国 同君連合
明治2年6月17日

日本で版籍奉還が行われる。

明治2年6月17日、版籍奉還が行われ、大名が領地と領民を新政府に返上。 中央集権化への大きな一歩となった。
1869年7月25日(明治2年6月17日)、明治政府は『版籍奉還の詔勅』を発し、全国の藩主に領地(版)と領民(籍)を朝廷に返上させた。 これにより全国の領地は政府直轄となり、古来の封建制が解体された。 さらに、それまでの藩は知藩事として名誉職に移行し、実質的な自治権を失った。 中央集権国家の形成に向けた最重要政策の一つであり、その後の廃藩置県へと繋がる改革の端緒となった。 この政策は近代日本の統治体制を根本から変革し、明治維新の完成に大きく寄与した。
1869年 明治 6月17日 版籍奉還
明治2年6月17日

日本の公卿・諸侯の身分が廃止され呼称が華族に統一される。

明治2年6月17日、公卿と大名の呼称が廃止され、まとめて華族と称されることに。 近代国家の統一された貴族制度の基礎が築かれた。
1869年7月25日(明治2年6月17日)、公卿・大名の呼称が廃止され、まとめて『華族』と称されることになった。 これにより、公家と諸侯が同一の貴族階級として位置づけられ、明治政府の中央集権体制を支える基盤が整った。 当初は呼称の統一にとどまったが、後に侯爵・伯爵・子爵・男爵の爵位制度が制定され、貴族身分が法制化された。 これらの改革は日本の封建的身分制度の解体を象徴し、近代的な国家秩序構築の重要な一歩となった。 呼称変更は貴族の政治的役割を再定義し、明治政府による新たな統制手段となった。
公卿 諸侯 身分 華族
1875年

吉田・エヴァーツ条約が締結される。

日本とアメリカが吉田・エヴァーツ条約を締結し、漁業権や領事裁判権などを協定。 貿易関係の基盤を築いた。
1875年7月25日、日本とアメリカ合衆国は吉田清成全権とエヴァーツ公使との間で『吉田・エヴァーツ条約』に調印。 条約には漁業権の取り扱いや領事裁判権に関する規定が盛り込まれ、日本近海での漁業活動が明確に規定された。 また、両国の商業活動における関税問題や領事裁判権の適用範囲が示され、貿易関係の法的枠組みが整備された。 この条約はその後の不平等条約改正の足がかりとなり、日本の国際的地位向上に一定の寄与を果たした。 欧米列強との交渉経験を積む契機となり、明治政府の外交手腕が試された。 国内では条約内容をめぐり賛否両論が巻き起こり、議論が活発化した。
1875年 吉田・エヴァーツ条約
1883年

前右大臣・岩倉具視の葬儀を日本初の国葬として実施。

1883年7月25日、日本初の国葬として維新の功労者・岩倉具視の葬儀が執り行われた。 国家儀礼としての国葬制度の礎を築いた。
1883年7月25日、明治政府は前右大臣であり維新期の中心人物・岩倉具視の葬儀を日本初の国葬として実施した。 会場となった芝増上寺には政府要人から海外使節まで多くの参列者が集まり、規模は盛大を極めた。 岩倉は明治維新を主導し、外交交渉や内政改革に多大な貢献を果たした人物である。 国葬の実施は彼の功績を讃えるとともに、近代国家としての国家儀礼を整備する契機となった。 また、西洋式の葬送儀礼や軍楽隊の演奏が取り入れられ、時代の変革を象徴する式典となった。 この経験は後の国葬規定整備に生かされ、日本の国家儀礼史上重要な一節となった。
1883年 岩倉具視 国葬
1919年

カラハン宣言。ソ連のレフ・カラハン外務人民委員代理が、ロシア帝国が清と結んだ不平等条約の即時・無条件撤廃を表明。

1919年7月25日、ソ連のカラハン外相代理が不平等条約撤廃を無条件で表明したカラハン宣言を発表。 中国への友好姿勢を示した。
1919年7月25日、モスクワにてソビエト連邦のレフ・カラハン外務人民委員代理が『カラハン宣言』を発表した。 宣言はロシア帝国が清朝と結んだ南京条約などの不平等条約を即時・無条件で撤廃することを約束し、中国への友好姿勢を示した。 ソ連は帝政ロシアの過去から決別し、平等な国際関係の構築を主張する姿勢を打ち出した。 中国国内では歓迎の声が上がったが、実際の条約改定には国際政治の制約があり、迅速な履行は困難を極めた。 この宣言は五四運動や新文化運動に影響を与え、中国の民族意識高揚を促した。
1919年 カラハン宣言 レフ・カラハン ロシア帝国 不平等条約
1932年

ソ連・ポーランド不可侵条約が締結。満州国協和会が発足。

1932年7月25日、ソ連とポーランド間で不可侵条約が締結され、同日に満州国で協和会が発足しました。
1932年7月25日、ソ連とポーランドは相互不可侵条約を締結し、両国間の武力行使を三年間禁止しました。条約は東欧における緊張緩和を目的としており、国際社会からも注目を集めました。同日、満州国では日本の後押しで協和会が発足し、政府支援の政治団体として活動を開始しました。協和会は満州国の統治体制を補完し、住民への奉仕と国家理念の普及を図りました。これらの出来事は国際政治と東アジア情勢に大きな影響を与えました。
1932年 ソ連・ポーランド不可侵条約 満州国協和会
1934年

オーストリアのナチス党員がウィーンの首相官邸を襲撃し、エンゲルベルト・ドルフース首相を暗殺。

1934年7月25日、オーストリアのナチス党員が首相官邸を襲撃し、ドルフース首相を暗殺しました。
1934年7月25日、オーストリアのナチス党員らがウィーンの首相官邸を襲撃し、エンゲルベルト・ドルフース首相を射殺しました。この事件は「7月プッチ」とも呼ばれ、ナチス党のクーデター未遂として知られています。ドルフース首相はファシズムとナチズム双方の台頭を防ごうとするも、暗殺に至りました。事件後、オーストリア政府は警備を強化し、ナチス勢力への対抗策を講じました。暗殺は後のオーストリア併合(アンシュルス)への序曲ともされ、ヨーロッパ情勢を一層不安定化させました。
1934年 オーストリア ナチス 官邸 エンゲルベルト・ドルフース
1940年

第二次世界大戦:スイスの最高指導者であったアンリ・ギザン将軍の「リュトリ演説」。スイスの自由と独立を守るための武装中立を宣言。

1940年7月25日、スイスのアンリ・ギザン将軍がリュトリで武装中立を宣言しました。
1940年7月25日、第二次世界大戦中のスイスで最高指導者アンリ・ギザン将軍がリュトリ礼拝堂前で演説を行いました。ギザン将軍はスイス国民に武装中立を訴え、祖国防衛のために総力を挙げる意志を示しました。この演説はスイスの厳格な中立政策を象徴し、国民の団結を促しました。演説後、スイス軍は国境防衛態勢を強化し、周辺国からの侵攻に備えました。リュトリ演説はその後も国民意識の支柱として語り継がれています。
1940年 第二次世界大戦 スイス アンリ・ギザン 武装中立
1943年

第二次世界大戦:イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世がベニート・ムッソリーニ首相を罷免・逮捕、ピエトロ・バドリオが後任となる。

1943年7月25日、ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世がムッソリーニを罷免・逮捕し、バドリオを首相に任命しました。
1943年7月25日、イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世はベニート・ムッソリーニ首相を解任し逮捕しました。ムッソリーニは長年ファシスト独裁体制を率いていましたが、連合軍のシチリア上陸により支持を失いました。後任にはピエトロ・バドリオ将軍が任命され、王政中心の政権移行が図られました。バドリオ政権は連合国との和平交渉を開始し、1943年9月に降伏文書に調印しました。イタリアはこれにより枢軸国から離脱し、戦局に大きな影響を与えました。
1943年 イタリア王 ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世 ベニート・ムッソリーニ ピエトロ・バドリオ