1148年
第2回十字軍: ダマスクス攻撃が始まる。
第2回十字軍の一環として、キリスト教諸勢力がダマスクス攻略を試みた攻撃が始まりました。
1148年7月23日、第2回十字軍はシリア北部の重要都市ダマスクスへの包囲攻撃を開始しました。
十字軍はヨーロッパ各地から集結した諸侯連合軍で、エルサレム王国の安全確保を目的としていました。
ダマスクス城塞は強固な防御を誇り、補給線の維持に苦心した包囲軍は水源を確保できず困難に直面。
わずか四日後、十字軍は包囲解除を決断し、多大な損失を出しながら撤退しました。
この失敗は十字軍の遠征全体に大きな影響を及ぼし、勢力の弱体化を招く結果となりました。
後世の十字軍史において重要な転換点とされています。
1148年
第2回十字軍
ダマスクス攻撃
1793年
マインツ攻囲戦 (1793年): フランス占領下のマインツ共和国がプロイセンとオーストリアの連合軍に降伏した。
フランス革命戦争の一環で、マインツ共和国が連合軍による包囲戦により降伏しました。
1793年7月23日、フランス革命戦争における重要戦闘の一つ、マインツ攻囲戦が終了しました。
ドイツ西部の要衝マインツはフランス軍に占領され、革命の拡大拠点となっていました。
プロイセン王国とオーストリア帝国を中心とする対仏大同盟軍が包囲を開始。
包囲戦は数週間に及び、その後マインツ共和国の守備軍は弾薬不足と飢餓により降伏を選択しました。
この降伏はフランス革命勢力にとって大きな打撃となり、戦況に影響を与えました。
マインツ包囲戦は古典的包囲戦術の一例としても軍事史で注目されます。
1793年
マインツ攻囲戦 (1793年)
マインツ共和国
プロイセン
オーストリア
光緒8年6月8日
壬午事変。朝鮮の漢城で興宣大院君らの煽動を受けた兵士が反乱が起こし、閔妃一族や日本公使館員らを殺害。
朝鮮王朝で親清派と親日派の対立が爆発し、反乱が起こりました。
1882年7月23日(光緒8年6月8日)、朝鮮王朝の内紛が激化し、壬午事変が勃発しました。
興宣大院君ら保守派が朝鮮兵を扇動し、閔妃一族や日本公使館員の殺害に至ります。
この事件は親清と親日勢力の権力争いが背景にあり、国際的緊張を引き起こしました。
日本公使館への襲撃に対し、日本は報復的軍事行動を取るなど、日朝関係は一層悪化。
事件後、清国軍が出兵し、朝鮮内政に大きく介入するきっかけとなりました。
朝鮮近代史における重要な転換点となり、列強の影響拡大を示す出来事です。
1882年
光緒
6月8日
壬午事変
朝鮮
漢城
興宣大院君
閔妃
1894年
日清戦争: 日本軍が朝鮮王宮に侵攻。
日清戦争の緒戦で日本軍が朝鮮王宮に突入し、首都制圧を図りました。
1894年7月23日、日清戦争開戦後、日本陸軍の一部が朝鮮王宮(景福宮)へ侵入しました。
朝鮮王宮の制圧は清国軍の援軍到着前に行われ、日本軍の迅速な行動が功を奏します。
この一撃により朝鮮王朝は日本の影響下に置かれ、戦争序盤の大きな成果となりました。
同時に清国との衝突は激化し、戦線は朝鮮半島全域へと拡大していきます。
日清戦争は東アジアの勢力図を大きく変える契機となりました。
1894年
日清戦争
1914年
サラエボ事件: オーストリア・ハンガリー帝国がセルビアに最後通牒。
オーストリア・ハンガリー帝国がセルビアに対し厳しい最後通牒を突きつけ、第一次世界大戦への道を開いた歴史的事件。
1914年6月28日にサラエボでオーストリア皇太子夫妻が暗殺された事件を背景に、同年7月23日、オーストリア・ハンガリー帝国はセルビア王国に最後通牒を発した。
最後通牒には、セルビア国内での反帝国主義活動の抑圧や調査権限の付与など厳しい要求が含まれていた。
セルビアは大半の要求を受け入れたものの、一部応じきれず、帝国側はこれを理由に宣戦布告への道を選ぶ。
最終的に同月28日にオーストリア・ハンガリー帝国はセルビアに宣戦布告し、これが第一次世界大戦勃発の直接的契機となった。
このやり取りはヨーロッパの同盟網を巻き込む大規模な戦争へと発展し、20世紀の世界情勢に決定的な影響を与えた。
1914年
サラエボ事件
オーストリア・ハンガリー帝国
セルビア
最後通牒
1942年
ナチス・ドイツがトレブリンカ強制収容所を開設する。
ナチス・ドイツがポーランド占領地にトレブリンカ強制収容所を新設し、ホロコーストが深化。
1942年7月23日、ナチス・ドイツはポーランド東部にトレブリンカ強制収容所(トレブリンカII)を開設。
同収容所はユダヤ人虐殺「最終解決」の一環として設置され、ガス室を用いた大量殺戮が行われた。
運営はSSが担当し、犠牲者数は80万人以上にのぼると推定されている。
1943年8月には囚人の蜂起が発生し、一部の施設が破壊されたものの、大半は鎮圧された。
戦後、トレブリンカはホロコースト研究の悲惨な象徴として伝えられている。
1942年
ナチス・ドイツ
トレブリンカ強制収容所
1968年
エル・アル航空426便ハイジャック事件。パレスチナ解放人民戦線がエル・アル航空のボーイング707型機をハイジャック。
1968年7月23日、パレスチナ解放人民戦線がエル・アル航空426便をハイジャックし、乗員乗客を人質に取りました。
エル・アル航空426便(ボーイング707型機)は
1968年7月23日にパキスタン発イスラエル行きの途中で
パレスチナ解放人民戦線(PFLP)によってハイジャックされました。
犯行グループは乗客と乗員を人質に取り、政治的要求を掲げて交渉を試みました。
機体は最終的にレバノンのベイルート空港へ向かい、各国の介入により人質の一部が解放されました。
この事件は航空テロの象徴的な事件となり、国際的な航空保安対策強化の契機となりました。
1968年
エル・アル航空426便ハイジャック事件
パレスチナ解放人民戦線
エル・アル航空
ボーイング707
ハイジャック
1973年
ドバイ日航機ハイジャック事件: 日本赤軍派らが乗っ取りリビアのベンガジ空港に着陸させていた日本航空ジャンボ機が、犯人の仕掛けた爆薬で爆破される。乗客・乗員は爆破前に無事脱出しており、4人を逮捕。
1973年7月23日、ドバイで日本航空ジャンボ機が日本赤軍派らにハイジャックされ、爆破事件が発生しました。
ドバイ日航機ハイジャック事件は1973年7月23日、
日本航空ジャンボ機(B747)が日本赤軍派など
過激派グループによって乗っ取られた事件です。
犯人らはリビアのベンガジ空港に着陸させ、
機内に持ち込んだ爆薬を用いて機体を爆破しました。
幸いにも乗客・乗員は爆破前に脱出し、重大な人的被害は免れました。
事件後、4名の容疑者が逮捕され、その後の国際テロ対策強化に影響を与えました。
この事件はハイジャックの危険性と航空保安の脆弱性を浮き彫りにしました。
ドバイ日航機ハイジャック事件
日本赤軍
リビア
ベンガジ
日本航空
ジャンボ機
1975年
沖縄海洋博覧会に合わせて親善寄港していたチリの練習帆船「エスメラルダ」に火炎瓶が投擲される(エスメラルダ号火炎瓶投擲事件)。2人が重軽傷を負う。
1975年7月23日、沖縄海洋博覧会会場でチリ帆船『エスメラルダ』に火炎瓶が投擲されました。
1975年7月23日、沖縄国際海洋博覧会に合わせて親善寄港していた
チリ海軍の練習帆船エスメラルダ号に対し、
不明の人物が火炎瓶を投げつける事件が発生しました。
爆発によって甲板や艤装に損傷が生じ、2名が重軽傷を負いました。
犯行動機は不明ですが、当時の国際政治情勢や
反米・反政府運動との関連も取り沙汰されました。
事件は博覧会の安全対策強化を促し、
以降の国際イベントにおける警備体制見直しにも繋がりました。
1975年
沖縄海洋博覧会
チリ
エスメラルダ
火炎瓶
エスメラルダ号火炎瓶投擲事件
1983年
スリランカ内戦: タミル・イーラム解放のトラ (LTTE) が政府軍を襲撃し13人を殺害。26年におよぶスリランカ内戦が始まる。
タミル・イーラム解放のトラ (LTTE) が政府軍バスを襲撃し、多数の死者を出しました。
これを契機に26年にわたるスリランカ内戦が始まりました。
タミル・イーラム解放のトラ(LTTE)は、スリランカ政府軍のバスを襲撃し13名を殺害しました。
この攻撃によりスリランカ内戦が事実上始まり、以後26年にわたる長期抗争へと発展しました。
LTTEはタミル少数派の独立を求めるゲリラ組織で、これまでにも緊張状態は続いていましたが、これほど大規模な武装衝突に発展したのは初めてでした。
政府軍とLTTEの戦闘は一進一退を繰り返しながら激化し、最終的に2009年まで続きました。
この内戦では多くの民間人が犠牲となり、国内外からの人道支援の必要性が高まりました。
また、紛争の背景には植民地時代以来の民族対立や政治的排除の問題が横たわっていました。
1983年
スリランカ内戦
タミル・イーラム解放のトラ
1992年
アブハジアがグルジアからの独立を宣言。グルジアはこれを認めずアブハジア紛争が勃発。
アブハジアがグルジアからの独立を宣言し、同地域の紛争が激化しました。
1992年7月23日、アブハジアはジョージア(当時のグルジア)からの独立を一方的に宣言しました。
ジョージア政府はこれを認めず、直後に両者間で武力衝突が勃発しました。
アブハジア紛争は民族対立が深く関わり、多数の難民・避難民を生み出しました。
国際社会は停戦仲介や人道支援を試みましたが、紛争は長期化しました。
今日でもアブハジアの地位は未解決のままで、南コーカサス地域の安定に影響を与えています。
1992年
アブハジア
グルジア
アブハジア紛争
1993年
カンデラリア教会虐殺事件。リオデジャネイロのカンデラリア教会で、警官を含むグループに8人のストリートチルドレンが射殺される。
リオデジャネイロの教会で警官を含む集団がストリートチルドレン8人を射殺した痛ましい事件です。
1993年7月23日、ブラジル・リオデジャネイロのカンデラリア教会で発生した虐殺事件です。容疑者には現職・元警察官を含む複数の男たちがいたとされます。被害者は路上で生活していたストリートチルドレン8人で、教会内で無差別に射殺されました。事件は国内外に衝撃を与え、人権団体や教会関係者から強い非難を浴びました。その後の捜査や裁判では警察の汚職や人権侵害が問題視され、ブラジル社会に深い爪痕を残しました。
1993年
カンデラリア教会虐殺事件
リオデジャネイロ
警官
ストリートチルドレン