文化8年6月4日
ゴローニン事件。国後島を測量中のロシア艦長ヴァシーリー・ゴロヴニーンを松前奉行が捕らえて箱館に監禁。
ロシア艦長ゴロヴニーンが測量任務中に捕らえられ、箱館で監禁された事件です。
1811年7月23日(文化8年6月4日)、ロシア帝国海軍艦長ヴァシーリー・ゴロヴニーンが国後島測量中に松前奉行によって逮捕されました。
ゴロヴニーンは蝦夷地(北海道)周辺の地図作成を目的として活動しており、これを危険視した幕府側が行動を監視していました。
逮捕後、彼は箱館に移送されて約一年間にわたり軟禁状態に置かれました。
この事件は日露の外交関係を悪化させ、両国間の交渉で大きな緊張を招きます。
最終的に幕府はロシアとの通商条約を締結し、ゴロヴニーンは解放されて帰国しました。
国後島の領有権問題にも影響を与えた、幕末史における重要な外交事件です。
1811年
文化
6月4日
ゴローニン事件
国後島
ヴァシーリー・ゴロヴニーン
松前奉行
慶応3年6月22日
薩摩の西郷隆盛・大久保利通、土佐の坂本龍馬・中岡慎太郎らが薩土盟約を締結。
西郷隆盛と大久保利通、坂本龍馬らが討幕へ向けて薩摩藩と土佐藩の同盟を結びました。
1867年7月23日(慶応3年6月22日)、薩摩藩と土佐藬の有力志士が鹿児島で薩土盟約を締結しました。
薩摩からは西郷隆盛・大久保利通が、土佐からは坂本龍馬・中岡慎太郎が参加し、幕府打倒を掲げた連携を図りました。
この同盟は討幕運動の一致団結を象徴し、新政府樹立への大きな一歩とされています。
薩土盟約を通じて両藩は軍事力・経済力の相互支援を約束し、倒幕戦略の基盤を固めました。
同年11月の大政奉還へとつながる政治的動きの中心的出来事となりました。
1867年
慶応
6月22日
西郷隆盛
大久保利通
坂本龍馬
中岡慎太郎
薩土盟約
1908年
青年トルコ人革命: オスマン帝国皇帝アブデュルハミト2世が反乱部隊の要求をのんで憲法の復活を宣言。青年トルコ人革命が終結。
オスマン帝国で立憲政治復活を求める青年トルコ人の運動が成功しました。
1908年7月23日、オスマン帝国皇帝アブデュルハミト2世は青年トルコ人革命勢力の要求を受け入れ、憲法復活を宣言しました。
これにより1876年に停止されていた立憲政治が約32年振りに復活します。
青年トルコ人運動は軍人や官僚を中心に結成され、改革と近代化を目指していました。
憲法復活宣言は帝国内の自由主義者や少数民族にも大きな希望を与えました。
この革命はオスマン帝国の政治体制に大きな転換をもたらし、後のトルコ共和国成立にも影響を与えました。
1908年
青年トルコ人革命
オスマン帝国
アブデュルハミト2世
1914年
サラエボ事件: オーストリア・ハンガリー帝国がセルビアに最後通牒。
オーストリア・ハンガリー帝国がセルビアに対し厳しい最後通牒を突きつけ、第一次世界大戦への道を開いた歴史的事件。
1914年6月28日にサラエボでオーストリア皇太子夫妻が暗殺された事件を背景に、同年7月23日、オーストリア・ハンガリー帝国はセルビア王国に最後通牒を発した。
最後通牒には、セルビア国内での反帝国主義活動の抑圧や調査権限の付与など厳しい要求が含まれていた。
セルビアは大半の要求を受け入れたものの、一部応じきれず、帝国側はこれを理由に宣戦布告への道を選ぶ。
最終的に同月28日にオーストリア・ハンガリー帝国はセルビアに宣戦布告し、これが第一次世界大戦勃発の直接的契機となった。
このやり取りはヨーロッパの同盟網を巻き込む大規模な戦争へと発展し、20世紀の世界情勢に決定的な影響を与えた。
1914年
サラエボ事件
オーストリア・ハンガリー帝国
セルビア
最後通牒
1921年
中国共産党第一次全国代表大会が開かれる(7月31日まで)。中国共産党が発足。
中国共産党の創設を宣言した第一次全国代表大会が上海で開かれた歴史的会議。
1921年7月23日、中国共産党の前身となる組織の代表が上海で第一次全国代表大会を開催。
会議には13名の代表が参加し、マルクス主義とソビエト連邦からの支援を背景に党の綱領を策定した。
7月30日には浙江省嘉興の南湖に会場を移し、船上で残りの議事を行った。
同会議の終結をもって中国共産党の正式発足が宣言され、後の革命運動の基盤が築かれた。
毛沢東や陳独秀ら初期指導者が議論を重ねたこれらの議事は、党の方向性を決定づける重要な節目となった。
1921年
中国共産党第一次全国代表大会
7月31日
中国共産党
1940年
サムナー・ウェルズ米国務次官がバルト諸国のソ連への編入を承認しない旨を宣言(バルト諸国占領)。
米国務省がソ連によるバルト三国併合を不承認とするウェルズ声明を発表した外交声明。
1940年7月23日、米国務次官サムナー・ウェルズがバルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)がソ連に併合された事実を承認しないと宣言。
いわゆる「ウェルズ声明」は、バルト三国の主権と領土一体性を支持する姿勢を明確に示した。
米国はこの非承認政策により、ソ連による併合の正当性を否定し続け、冷戦期の法的基盤を形成した。
声明発表後もバルト三国の亡命政府や国際社会における非承認運動に影響を与えた。
1991年のバルト三国独立回復まで、米国は一貫してウェルズ声明の原則を維持した。
1940年
サムナー・ウェルズ
米国務次官
バルト諸国のソ連への編入
バルト諸国占領
1952年
エジプト革命:ガマール・アブドゥン=ナーセル率いる自由将校団がクーデターを起こし、政権を掌握。
ナーセル率いる自由将校団のクーデターでエジプト王政が打倒され、共和国の礎が築かれた。
1952年7月23日、ガマール・アブドゥン=ナーセル率いる自由将校団がエジプトでクーデターを決行。
当時の王ファルークは退位し、長らく続いた王政が崩壊した。
クーデター後は暫定的な臨時評議会が権力を掌握し、翌年にはエジプト共和国の樹立を宣言。
ナーセルは1954年に大統領に就任し、土地改革や汎アラブ主義を推進した。
この革命は中東の政治地図を大きく塗り替え、民族主義運動に影響を与えた。
1952年
エジプト革命
ガマール・アブドゥン=ナーセル
自由将校団
クーデター
1962年
ラオス内戦: ジュネーブ国際会議でラオス王国の中立に関する宣言を採択。
1962年7月23日、ラオス内戦の和平を目指すジュネーブ会議で、ラオス王国の中立を宣言する合意が採択されました。
東西冷戦の影響下で続いていたラオス内戦をめぐり、
1962年7月23日にスイスのジュネーブで開催された国際会議で
ラオス王国の永久中立を宣言する合意が成立しました。
この合意には王党派、親米派、共産主義派の三派間の停戦と
外国軍の撤退、政治中立の確立が盛り込まれていました。
これによりラオスへの直接的な軍事介入が抑制され、一時的な平和が実現しました。
しかし、冷戦下の緊張は続き、再び衝突が発生する要因ともなりました。
1962年
ラオス内戦
ラオス王国の中立に関する宣言
英語版
1970年
カーブース・ビン=サイードがオマーンのスルタンに即位。
1970年7月23日、カーブース・ビン=サイードがオマーンのスルタンとして即位しました。
1970年7月23日、クーデターによって父親を追放した後、
カーブース・ビン=サイードがオマーンの第5代スルタンに即位しました。
スルタン即位後、彼は近代化政策を推進し、
石油収益を投じて教育や医療、インフラ整備を急速に進めました。
これによりオマーンは伝統的な部族社会から近代国家へと変貌を遂げました。
また、地域安全保障や外交面でも安定をもたらし、
今日のオマーン国の基盤を築く重要な転機となりました。
1970年
カーブース・ビン=サイード
オマーン
スルタン
1988年
8888民主化運動: 民主化運動の発生の責任をとってネ・ウィンがビルマ社会主義計画党 (BSPP) 議長を辞任。
ビルマで民主化を求める国民大規模デモが発生し、ネ・ウィン議長が辞任しました。
1988年8月8日に発生した民主化運動は、ビルマ(現ミャンマー)全土に拡大しました。
国民は軍事独裁からの解放と政治改革を求めてデモを実施しました。
ネ・ウィン率いるビルマ社会主義計画党は強権的な統治を行っており、経済悪化も深刻でした。
運動の責任を取る形でネ・ウィン議長が7月23日に辞任し、事実上の権力移行が始まりました。
しかし新政権も民主化要求に応えず、その後の鎮圧で多数の犠牲者が出ました。
8888運動は後の反政府活動や民主派の結集につながる重要な転機となりました。
1988年
8888民主化運動
ネ・ウィン
ビルマ社会主義計画党
1989年
第15回参議院議員通常選挙。自由民主党は結党以来初めて参院の過半数を失った。
第15回参議院通常選挙で自民党が参院過半数を失い、政治地図に変化が生じました。
1989年7月23日に行われた参議院通常選挙で、自民党は結党以来初めて参院の過半数を失いました。
大平正芳元首相の死去など政局不安や消費税導入への反発が票に影響したとされます。
野党各党は連携を強め、選挙後の勢力図は多党化が進行しました。
これにより参議院での法案審議が難航し、与野党協調の必要性が高まりました。
選挙結果はその後の政権運営や政治制度改革に大きな影響を与えました。
第15回参議院議員通常選挙
自由民主党
1995年
第17回参議院議員通常選挙。
第17回参議院通常選挙が実施され、各党の勢力図が変動しました。
1995年7月23日に実施された第17回参議院議員通常選挙です。当時の社会党・社会民主党連合が与党自由民主党に挑みましたが、LDPは一定数の議席を維持しました。選挙結果は与野党のバランスに影響を及ぼし、その後の政治運営や連立構想に大きな影響を与えました。また若者の投票行動や選挙制度改革の議論も活発化し、日本の政治参加意識の一端を示しました。
第17回参議院議員通常選挙