514年
ホルミスダスがローマ教皇に即位。
514年7月20日、ホルミスダスが第52代ローマ教皇に即位しました。
教会改革と東西教会の融和に努めた人物です。
514年7月20日、司教ホルミスダスがローマ教皇シマクスの後任として選出され、即位しました。
彼はアナトリア出身で、教皇に就任後すぐに教会内部の腐敗是正に取り組みました。
また、東西教会の分裂(アカキウス派)を終結させ、ビザンツ帝国との関係改善を図りました。
教会法の整備や教皇権の強化も推進し、中世初期の教皇制度の基盤を築きました。
523年に亡くなるまで、約9年間にわたって教会を指導し、その功績は後世に大きな影響を残しました。
514年
ホルミスダス
ローマ教皇
1810年
クンディナマルカ自由国がスペインからの独立を宣言。(コロンビアの独立記念日)
1810年7月20日、クンディナマルカ自由国がスペインからの独立を宣言しました。
現在のコロンビア独立記念日の起点となった重要な出来事です。
1810年7月20日、南アメリカのクンディナマルカ地方(現在のコロンビア)で独立派が集結し、スペイン王室の支配から脱却を宣言しました。
この宣言はボゴタで行われ、市民や知識人、聖職者らが独立運動を推進しました。
クンディナマルカ自由国の誕生は、その後の南米大陸各地の独立運動に大きな影響を与えました。
この日を記念してコロンビアでは毎年独立記念日の祝賀行事が開催され、国民の結束を象徴しています。
スペインからの独立戦争はその後数年にわたって継続し、1821年に事実上の独立が確立しました。
現在のコロンビア共和国はこの歴史的な流れを経て誕生しました。
1810年
クンディナマルカ自由国
スペイン語版
英語版
スペイン
コロンビア
弘化3年閏5月27日
アメリカの東インド艦隊司令長官ジェームズ・ビドルが浦賀に来航し通商を要求。
1846年7月20日、米東インド艦隊司令長官ジェームズ・ビドルが浦賀に来航し通商を要求しました。
日本との不平等条約締結を試みた最初の艦隊です。
1846年7月20日、アメリカ海軍東インド艦隊司令長官ジェームズ・ビドル率いる艦隊が浦賀湾に来航しました。
当時の江戸幕府に対し、貿易開放と領事裁判権を含む通商条約の締結を要求します。
幕府側はこれを拒否し、ビドルは折衝の末に艦隊を引き揚げました。
この失敗はペリー来航(1853年)の先駆けとなり、幕府の対外国強硬姿勢が試されるきっかけとなります。
ビドル艦隊には戦艦コロンバスやヴィンセンス号が含まれ、威圧的な武力を背景に交渉を行いました。
後に結ばれる不平等条約への動きがこの遠征で始まったとされます。
1846年
弘化
5月27日
ジェームズ・ビドル
1927年
ルーマニア国王フェルディナンド1世が死去。孫で5歳のミハイ1世が即位。
ルーマニア国王フェルディナンド1世が死去し、5歳の孫ミハイ1世が即位。
1927年7月20日、ルーマニア国王フェルディナンド1世が崩御しました。その後、当時5歳だった孫のミハイ1世が王位を継承し即位しました。しかし幼少の王のため摂政評議会が実権を握る体制となりました。この王位継承は第一次世界大戦後のヨーロッパ政治情勢下で注目され、ミハイ1世は後に共産政権との対立を経験するなど波乱の生涯を送ります。ルーマニア王室の歴史における重要な転換点です。
1927年
フェルディナンド1世
ミハイ1世
1933年
ナチス・ドイツのフランツ・フォン・パーペン副首相とローマ教皇庁のパチェッリ枢機卿(後のローマ教皇ピウス12世)との間でコンコルダート締結。
ナチス・ドイツとローマ教皇庁が政教関係を規定するコンコルダートを締結しました。
1920年代末から権力を強めていたナチス・ドイツは、国内での正統性を高めるために教会との協定を模索しました。フランツ・フォン・パーペン副首相とパチェッリ枢機卿がベルリンで交渉を行い、7月20日にコンコルダートが調印されました。この協定によりドイツ国内のカトリック教会の地位や教育、結社の自由が保証される一方、教会は政治への干渉を控えることになりました。しかし、一部ではナチス政権の正統性を認めるものとして批判もありました。コンコルダートは第一次世界大戦後の政教条約の中でも重要な位置を占めるものとされています。
1933年
ナチス・ドイツ
フランツ・フォン・パーペン
ローマ教皇庁
枢機卿
ローマ教皇ピウス12世
コンコルダート
1936年
ボスポラス海峡・マルマラ海・ダーダネルス海峡の通航制度を定めたモントルー条約に調印。
モントルー条約が調印され、トルコがボスポラス海峡など海峡の通航管理を確立しました。
1923年のローザンヌ条約以降、トルコ領となったボスポラス海峡・ダーダネルス海峡・マルマラ海の通航を規制するため、1936年7月20日にスイス・モントルーで条約が調印されました。条約は民間船の自由通航を認めつつ、軍艦の通過には制限を課し、戦時下の通航権を厳格に管理する仕組みを定めています。この取り決めによりトルコの防衛と黒海沿岸諸国の安全保障の均衡が図られ、現在に至るまで国際海峡管理の基本枠組みとなっています。
1936年
ボスポラス海峡
マルマラ海
ダーダネルス海峡
モントルー条約
1939年
石川県七尾市が市制施行。
石川県の七尾市が市制を施行し、自治体として新たなスタートを切りました。
1939年7月20日、石川県能登地方の中心都市である七尾市が正式に市制を施行しました。市制施行により行政サービスの整備や都市計画が加速し、地域の観光や漁業、地場産業の振興が進展しました。七尾湾沿岸のインフラ整備が行われ、能登の経済的中心地としての地位を確立。以後、市は伝統的な祭りや美しい自然景観で知られる地域の重要拠点となりました。
1939年
七尾市
1947年
沖縄人民党結成。
沖縄において初の大衆政党である沖縄人民党が結成されました。
1947年7月20日、アメリカ統治下の沖縄で地域住民の社会的・経済的権利を擁護するため、沖縄人民党が設立されました。労働者や農民を基盤に据え、自治権回復や教育・福祉の充実を目指す政策を掲げました。党の結成は戦後復興期の沖縄における政治参加の拡大を象徴し、住民の政治意識を大きく刺激しました。その後の沖縄返還運動にも影響を与えた重要な歴史的出来事です。
1947年
沖縄人民党
1948年
国民の祝日に関する法律(祝日法)が公布・施行。9つの国民の祝日が誕生。
日本で国民の祝日を定める祝日法が公布・施行され、9つの祝日が誕生しました。
第二次世界大戦後の1948年7月20日、日本政府は国民の生活向上と社会統合を図るため『国民の祝日に関する法律』を公布・施行しました。この法律により元旦や成人の日、建国記念の日など9つの国民の祝日が制度化されました。祝日法は季節行事や歴史的出来事を祝日に定めることで、国民の休日文化を形成し、家族やコミュニティの結びつきを深める役割を果たしました。以降、祝日は国民の生活リズムや経済活動にも大きな影響を与える制度として定着しています。
1948年
国民の祝日に関する法律
国民の祝日
1951年
エルサレムを訪問中のヨルダン国王アブドゥッラー1世がパレスチナ人に暗殺される。
ヨルダン国王アブドゥッラー1世がエルサレムで暗殺されました。
1951年7月20日、エルサレムのアル=アクサー・モスク付近でヨルダン国王アブドゥッラー1世がパレスチナ人の襲撃を受け暗殺されました。中東情勢の緊張が高まる中でのこの事件は、ヨルダン王室の安全保障と地域の不安定化を一層深刻化させました。アブドゥッラー1世は1946年の独立以降、ヨルダンの近代化とパレスチナとの共存を模索しており、その突然の死は国の政治的安定に大きな影響を及ぼしました。事件後、息子のタラールが急遽王位を継承し、政権の継続性が図られました。
1951年
エルサレム
ヨルダン国王
アブドゥッラー1世
パレスチナ人
暗殺
英語版
1954年
ヨーン事件。西ドイツ連邦憲法擁護庁 (BfV) 長官オットー・ヨーンが西ベルリンから失踪。23日、ラジオで東ドイツへの亡命を表明。
西ドイツ連邦憲法擁護庁長官オットー・ヨーンが1954年7月20日に突如失踪し、3日後に東ドイツへの亡命を表明した事件。
1954年7月20日、西ドイツの国内情報機関である連邦憲法擁護庁(BfV)の長官オットー・ヨーンが西ベルリンから姿を消しました。
BfVは国内の極右や極左活動を監視する機関として設立されており、その最高責任者の失踪は大きな衝撃を与えました。
約3日後、ヨーンは東ドイツのラジオに出演し、自身の亡命を宣言しました。
彼は西側諸国の政策や組織運営に批判的な立場を取り、東ドイツへ協力を続ける意向を示しました。
事件は西ドイツの対東ドイツ・対ソ連政策に不安をもたらし、冷戦期のスパイ活動や情報戦の一端として注目されました。
最終的にヨーンは東ドイツで公職に就くことはなく、東西双方に大きな議論を残しました。
1954年
西ドイツ
オットー・ヨーン
東ドイツ
1989年
ビルマの民主化運動指導者アウンサンスーチーを含む多くのNLDの指導者たちが、国家を危険にさらしたとして軍事政権により自宅軟禁下に置かれる。
アウンサンスーチーを含む多くのNLD指導者が軍事政権により自宅軟禁されました。
1989年7月20日、ビルマ(現ミャンマー)の軍事政権は、民主化運動の指導者アウンサンスーチーを含むNLDの主要指導者たちを国家転覆の疑いで自宅軟禁下に置きました。
この措置は1988年の民主化デモ後の緊張状態の中で行われ、国際的な非難を浴びました。
スーチーはその後約15年間にわたり断続的に軟禁状態が続き、国際人権活動家として注目を集めました。
NLDは国内外で支援を受けながら復活を目指し、後にミャンマーの民主化運動を象徴する存在となりました。
彼女の軟禁は人権・民主化の象徴として世界的な関心を集める一因となりました。
1989年
アウンサンスーチー
軟禁