514年

ホルミスダスがローマ教皇に即位。

514年7月20日、ホルミスダスが第52代ローマ教皇に即位しました。 教会改革と東西教会の融和に努めた人物です。
514年7月20日、司教ホルミスダスがローマ教皇シマクスの後任として選出され、即位しました。 彼はアナトリア出身で、教皇に就任後すぐに教会内部の腐敗是正に取り組みました。 また、東西教会の分裂(アカキウス派)を終結させ、ビザンツ帝国との関係改善を図りました。 教会法の整備や教皇権の強化も推進し、中世初期の教皇制度の基盤を築きました。 523年に亡くなるまで、約9年間にわたって教会を指導し、その功績は後世に大きな影響を残しました。
514年 ホルミスダス ローマ教皇
911年

ロロがシャルトルを包囲。

911年7月20日、ノルマン人の首長ロロがシャルトルを包囲しました。 フランス王国に対するヴァイキングの襲撃の一幕です。
911年7月、ヴァイキングのリーダー・ロロはノルマン人部隊を率いてシャルトルを包囲しました。 当時、フランス王国の混乱を狙った襲撃であり、住民は教会や城壁に立てこもって抵抗しました。 包囲戦は数日間続いたものの、決定的な攻撃には至らずロロ軍は撤退しました。 この出来事は後にノルマンディー公国成立への交渉を裏付ける前兆ともなりました。 結果的にロロはフランス王シャルル3世と和解し、のちにノルマンディー公に叙せられます。 ヨーロッパ史におけるヴァイキング時代の重要なエピソードです。
911年 ロロ シャルトル
1402年

アンカラの戦い。

オスマン帝国とティムール朝がアンカラで衝突し、バヤジット1世が捕らえられました。 帝国の危機を招いた歴史的な戦いです。
1402年7月20日、ティムール(タメルラン)率いるティムール朝軍とオスマン帝国はアンカラ郊外で対峙しました。 オスマン皇帝バヤジット1世は大軍を指揮しましたが、巧妙な戦術に敗れ戦死者・捕虜が相次ぎました。 バヤジット1世自身も捕らえられ、ティムール朝への人質とされました。 この敗北によりオスマン帝国内部は「兄弟間争い(オスマン皇子間の内戦)」に突入し、一時的に勢力が分裂しました。 帝国内で数年にわたる混乱(オスマン内乱、帝国の危機)が続きます。 その後、メフメト1世が復興を果たすまでオスマンは衰退を強いられました。 アンカラの戦いはオスマン帝国史における転換点とされています。
1402年 アンカラの戦い
天正11年6月2日

羽柴秀吉が織田信長追善のために建立した京都紫野の大徳寺総見院で、織田信長一周忌の法要が営まれる。

1583年7月20日、羽柴秀吉が京都紫野の大徳寺総見院で織田信長一周忌法要を営みました。 秀吉の政治的遺志と宗教儀式が結びついた行事です。
天正11年6月2日(1583年7月20日)、羽柴秀吉は織田信長の一周忌追善供養として大徳寺総見院を建立しました。 京都紫野に位置する大徳寺塔頭の一つで、秀吉の権威を示す象徴的施設でした。 法要には豊臣家の重臣たちが出席し、信長の功績を讃えるとともに秀吉の後継者としての立場を内外に示しました。 総見院の建立は以後、豊臣政権が文化的・宗教的権威を背景に政治基盤を固める一助となりました。 この行事は戦国時代の大名による法要が政治的メッセージを含むことを象徴しています。 現在も総見院跡は豊臣秀吉の時代を伝える史跡の一つです。
1583年 天正 6月2日 羽柴秀吉 織田信長 大徳寺 総見院
1656年

北方戦争: ワルシャワの戦いが終結。

1656年7月20日、北方戦争中のワルシャワの戦いが終結しました。 ポーランド・リトアニア連合とスウェーデン軍の激戦が幕を閉じました。
北方戦争(1655-1660年)の一環として行われたワルシャワの戦いは、1656年7月にピークを迎えました。 この戦いではスウェーデン王カールX・グスタフ率いるスウェーデン軍が首都ワルシャワ付近でポーランド・リトアニア連合軍と激突しました。 戦闘は数日にわたり、火線が市街地まで広がる激戦となりました。 最終的にスウェーデン側の優勢が確立し、連合軍は退却を余儀なくされます。 この勝利によりスウェーデンは戦局を有利に進め、ポーランド王国への圧力を一層高めました。
1656年 北方戦争 ワルシャワの戦い
1793年

探検家アレグザンダー・マッケンジーが太平洋に到達し、初めてカナダを横断した欧米人となる。

1793年7月20日、探検家アレグザンダー・マッケンジーが太平洋に到達し、初のカナダ横断を果たしました。 ヨーロッパ系探検家として北米大陸を横断した最初の人物です。
1789年に出発したアレグザンダー・マッケンジーの探検隊は、1793年に現在のブリティッシュコロンビア州西部に到達しました。 7月20日、マッケンジーはベラ・クーラ川(当時のナット川)河口付近で太平洋を視認し、太平洋到達を成し遂げました。 これにより、メキシコ以北の北アメリカ大陸を横断した最初のヨーロッパ系人物となりました。 旅程は過酷を極め、先住民の助けを受けつつ険しい山岳地帯や密林を踏破しました。 その成果は後のカナダ西部開発や毛皮交易ルート確立に大きく寄与しました。 マッケンジー自身はこの偉業を報告するため、大陸を横断して折り返すなど大冒険を続けました。 彼の航跡は『北西通路』探索の先駆けとして高く評価されています。
1793年 探検家 アレグザンダー・マッケンジー 太平洋 カナダ
1810年

クンディナマルカ自由国がスペインからの独立を宣言。(コロンビアの独立記念日)

1810年7月20日、クンディナマルカ自由国がスペインからの独立を宣言しました。 現在のコロンビア独立記念日の起点となった重要な出来事です。
1810年7月20日、南アメリカのクンディナマルカ地方(現在のコロンビア)で独立派が集結し、スペイン王室の支配から脱却を宣言しました。 この宣言はボゴタで行われ、市民や知識人、聖職者らが独立運動を推進しました。 クンディナマルカ自由国の誕生は、その後の南米大陸各地の独立運動に大きな影響を与えました。 この日を記念してコロンビアでは毎年独立記念日の祝賀行事が開催され、国民の結束を象徴しています。 スペインからの独立戦争はその後数年にわたって継続し、1821年に事実上の独立が確立しました。 現在のコロンビア共和国はこの歴史的な流れを経て誕生しました。
1810年 クンディナマルカ自由国 スペイン語版 英語版 スペイン コロンビア
弘化3年閏5月27日

アメリカの東インド艦隊司令長官ジェームズ・ビドルが浦賀に来航し通商を要求。

1846年7月20日、米東インド艦隊司令長官ジェームズ・ビドルが浦賀に来航し通商を要求しました。 日本との不平等条約締結を試みた最初の艦隊です。
1846年7月20日、アメリカ海軍東インド艦隊司令長官ジェームズ・ビドル率いる艦隊が浦賀湾に来航しました。 当時の江戸幕府に対し、貿易開放と領事裁判権を含む通商条約の締結を要求します。 幕府側はこれを拒否し、ビドルは折衝の末に艦隊を引き揚げました。 この失敗はペリー来航(1853年)の先駆けとなり、幕府の対外国強硬姿勢が試されるきっかけとなります。 ビドル艦隊には戦艦コロンバスやヴィンセンス号が含まれ、威圧的な武力を背景に交渉を行いました。 後に結ばれる不平等条約への動きがこの遠征で始まったとされます。
1846年 弘化 5月27日 ジェームズ・ビドル
1864年

南北戦争: ピーチツリークリークの戦い。

1864年7月20日、南北戦争中のピーチツリークリークの戦いがジョージア州アトランタ郊外で行われました。 北軍と南軍が激突し、南軍が防衛に成功しました。
アトランタ攻略を目指す北軍ウィリアム・シャーマン将軍と、これを迎え撃つジョン・ベル・フッドの南軍との戦いが繰り広げられました。 1864年7月20日、アトランタ北西のピーチツリークリークで両軍は激突します。 南軍は巧妙な伏兵戦術を用いて北軍を奇襲し、北軍は一時後退を余儀なくされました。 しかし北軍の大軍はすぐに再編成し、最終的にはアトランタ包囲を継続しました。 この戦闘で両軍合わせて数千の死傷者が出る激戦となりました。 ピーチツリークリークの戦いはアトランタ作戦の重要な前哨戦と位置づけられています。
1864年 南北戦争 ピーチツリークリークの戦い
1866年

普墺戦争: リッサ海戦。

1866年7月20日、普墺戦争の海戦としてリッサ海戦が行われ、オーストリア海軍が勝利しました。 鉄甲艦同士の衝突で初期の近代海戦となりました。
1866年7月20日、普墺戦争(第三次イタリア独立戦争)の海上版ともいわれるリッサ海戦がイタリアのリッサ島沖で発生しました。 オーストリア帝国海軍のヴィルヘルム・フォン・テゲトホフ提督とイタリア王国海軍のカルロ・ペルサーノ提督が対峙。 両軍は鉄甲艦を中心に艦隊を編成し、激しい砲撃戦を展開しました。 巧みな艦隊戦術を用いたオーストリア海軍がイタリア艦隊を打ち破り、多数の拿捕艦を挙げました。 この海戦は近代海戦の先駆けとされ、装甲艦と船団戦術の有効性を示しました。 イタリア統一運動への影響は限定的でしたが、オーストリア海軍の威信を高める結果となりました。
1866年 普墺戦争 リッサ海戦
1876年

明治天皇が灯台監視船に乗っての東北地方巡幸を終え横浜港に帰着。(海の記念日、海の日の由来)

明治天皇が東北巡幸を終え、灯台監視船で横浜港に帰着し、「海の記念日」の由来となった日。
1876年7月20日、明治天皇は東北地方巡幸を終え、灯台監視船で横浜港に到着しました。この巡幸は海上から日本各地の安全を視察するもので、後に「海の記念日」の起源とされました。海の日は国民に海の恵みを考えさせる祝日として定着し、毎年7月第3月曜日に祝われます。現在では海洋環境保護や海洋産業振興を目的としたイベントが各地で開催され、日本の海への意識を高める一因となっています。
1876年 明治天皇 横浜港 海の日
1894年

総武鉄道(現在の総武本線)市川駅 佐倉駅間が開業。

総武鉄道(現・総武本線)の市川駅から佐倉駅間が開業し、京成東部地域の鉄道網が拡大。
1894年7月20日、総武鉄道は市川駅から佐倉駅間の営業を開始しました。この区間の開通により、東京湾岸地域と千葉県内陸部が鉄道で結ばれ、沿線の都市開発や人口増加を促進しました。総武鉄道は後に国有化され、現在の総武本線として運行されています。近年では快速列車など多様な列車が運行され、東京と千葉の通勤・観光輸送を支えています。鉄道インフラの発展史を知る上で重要な出来事です。
1894年 総武本線 市川駅 佐倉駅