1553年
即位9日目のジェーン・グレイが逮捕・廃位され、メアリー1世がイングランド女王に即位。
1553年7月19日、ジェーン・グレイが廃位され、メアリー1世が即位。
1553年7月19日、即位からわずか9日目のイングランド女王ジェーン・グレイが逮捕・廃位されました。
ジェーンはプロテスタント派の後押しで選ばれましたが、支持基盤は薄弱でした。
カトリック復興を掲げるメアリー1世は軍事力と民衆の支持を背景に政権を掌握しました。
同日にメアリーは女王として戴冠し、エリザベス1世即位まで続くカトリック政策を推進します。
「九日女王」の悲劇はイングランド宗教史に大きな影響を与えました。
1553年
ジェーン・グレイ
メアリー1世
イングランド
享保8年6月18日
足高の制制定。
1723年7月19日、江戸幕府が足高の制を制定。
享保8年6月18日(現行暦の7月19日)、江戸幕府の8代将軍・徳川吉宗が武士の扶持米高を実支給制に近づける『足高の制』を制定しました。
それまで俸禄は名目上の高い株数で支給され、実質的な収入と乖離がありました。
新制度は実際の支給量を基に俸禄を算定し、武士の生活安定と幕府財政の透明化を図るものでした。
この改革により幕府財政の引き締めが進み、飢饉対策や農村政策の強化が可能になりました。
享保改革の中核をなす制度として、近代的な官僚制への第一歩となりました。
1723年
享保
6月18日
足高の制
1917年
ロシア臨時政府が、ペトログラードで蜂起 (en:July Days) を起こしたレーニンの逮捕を命じる。
ロシア臨時政府がレーニンの逮捕を命じました。
1917年7月19日、ロシア臨時政府は七月蜂起(July Days)を主導したウラジーミル・レーニンの逮捕を命じました。
この蜂起はペトログラードのソビエト支持者らが臨時政府に反発して起こしたものです。
逮捕命令はレーニンの政治活動を一時的に抑制し、臨時政府の権威を示す狙いがありました。
しかし、その後の十月革命に向けた布石となり、レーニンは影響力を取り戻します。
ロシア革命の複雑な経緯を象徴する重要な出来事です。
1917年
ロシア臨時政府
ペトログラード
en:July Days
レーニン
1940年
荻窪会談。近衛文麿が松岡洋右・東條英機・吉田善吾を荻窪の私邸荻外荘に招き国策を協議。
日本の近衛内閣が荻窪の私邸で国策協議を行いました。
1940年7月19日、日本の首相近衛文麿は荻外荘(東京・荻窪)で松岡洋右、東條英機、吉田善吾を招き会談を開きました。
この荻窪会談では、欧州戦線の拡大に伴う日本の外交・軍事戦略が協議されました。
特に日独伊三国同盟の締結や南方進出の方針などが検討されました。
会談は極秘裏に行われ、戦後の日本史における転換点とも評されています。
その後、日本は独ソ戦への対応や東南アジア侵攻に向け動き出しました。
荻窪会談
近衛文麿
松岡洋右
東條英機
吉田善吾
荻外荘
1947年
ビルマの独立運動家アウン・サンと6人の閣僚が政敵ウー・ソーに暗殺される。 (en:Burmese Martyrs' Day)
1947年7月19日、ビルマ独立の父アウン・サンら6人の閣僚が暗殺された事件。ビルマ烈士の日として記憶される。
ビルマの独立運動を率いていたアウン・サンは、英国統治からの独立を目前に控えていた。
1947年7月19日、政敵ウー・ソーの計画により首都ラングーンで開かれた会合中に銃撃を受け暗殺された。
同時に6人の閣僚も命を落とし、ビルマ政府は大きな打撃を受けた。
アウン・サンは「ビルマ独立の父」と称され、彼の死はビルマ国民に衝撃を与えた。
犠牲者を悼むため、毎年7月19日は「烈士の日(Burmese Martyrs' Day)」として国民的追悼の日となっている。
独立後のビルマ政治に長く影響を与えた歴史的事件です。
1947年
ビルマ
アウン・サン
ウー・ソー
en:Burmese Martyrs' Day
1959年
ガーナ・ギニア・リベリア3国の首脳会談で、アフリカ独立国共同体の構想についての「サンクエリー宣言」を発表。
1959年7月19日、ガーナ・ギニア・リベリアの首脳がサンクエリー宣言を発表。アフリカ独立国の連帯を目指した共同体構想。
ガーナのクワメ・ンクルマ大統領、ギニアのアフリカ・コナン首相、リベリアのウィリアム・V・ソロモン大統領が会談。
彼らは旧宗主国からの独立を果たしたアフリカ諸国の団結を強調しました。
サンクエリー宣言では経済・政治面での協力体制を提案し、独立国共同体の設立を構想。
当時のアフリカには新興国としての課題が山積しており、国際社会での発言力強化が狙いでした。
アフリカ統一機構(OAU)設立への動きの先駆けとも評価されます。
この会談はアフリカ諸国の連帯と自主独立を象徴する歴史的イベントでした。
1959年
ガーナ
ギニア
リベリア
首脳会談
1960年
池田勇人が第58代内閣総理大臣に任命され、第1次池田勇人内閣が発足。中山マサが日本初の女性大臣として入閣。
1960年7月19日、池田勇人が第58代内閣総理大臣に就任。中山マサが初の女性大臣として閣僚入り。
池田勇人は所得倍増計画を掲げ、日本経済の高度成長を牽引しました。
1960年7月19日に組閣し、衆議院本会議で首相指名を受けました。
内閣発足後、中山マサが厚生大臣として入閣し、日本初の女性閣僚となりました。
中山大臣の起用は戦後日本の女性進出の象徴的出来事とされます。
池田内閣は教育改革や社会保障の充実にも取り組みました。
この政権の経済政策は後の日本の発展に大きな影響を与えました。
1960年
池田勇人
内閣総理大臣
第1次池田勇人内閣
中山マサ
1977年
マサチューセッツ州知事マイケル・デュカキスが、1927年8月に処刑されたニコラ・サッコとバルトロメオ・ヴァンゼッティの無罪を宣言。
冤罪事件の当事者二人に対し、50年越しに州知事が無罪を公式認定した歴史的決断。
アメリカ・マサチューセッツ州で、1927年にイタリア系移民のニコラ・サッコとバルトロメオ・ヴァンゼッティが冤罪で処刑された事件。
長年にわたる議論と抗議運動を経て、1977年7月19日、知事マイケル・デュカキスが二人の無罪を公式に宣言した。
この宣言はアメリカ司法史における名誉回復の象徴となり、社会的・人権的視点から大きな注目を集めた。
事件は当時も現在も冤罪問題の代表例とされ、法制度や移民問題への議論を深める契機となった。
1977年
マサチューセッツ州知事
マイケル・デュカキス
ニコラ・サッコとバルトロメオ・ヴァンゼッティ
1979年
ニカラグア革命: ニカラグアで独裁政治を行っていたアナスタシオ・ソモサ・デバイレらソモサ一族がアメリカに亡命。サンディニスタ民族解放戦線の民族再建政府が樹立。(ニカラグアの革命記念日)
ソモサ独裁政権が崩壊し、サンディニスタが新政府を樹立した革命の節目。
1979年7月19日、中央アメリカのニカラグアでアナスタシオ・ソモサ・デバイレらソモサ一族の独裁政権が倒れた。
ソモサ一族はアメリカへ亡命し、左派勢力サンディニスタ民族解放戦線(FSLN)が暫定政府を樹立。
この革命は冷戦下の米ソ対立にも影響を与え、地域の政治構造を一変させた。
以降、7月19日はニカラグアで「革命記念日」として祝日となっている。
歴史的に見ると、貧困層の支持を集めた社会改革が功を奏した側面が強い。
1979年
ニカラグア革命
ニカラグア
アナスタシオ・ソモサ・デバイレ
ソモサ
サンディニスタ民族解放戦線