紀元前390年

ローマ・ガリア戦争: アッリアの戦い(伝承による日付)。

紀元前390年のローマ・ガリア戦争で、ローマ軍がガリア人に大敗したとされる伝承的な戦い。
紀元前390年、アッリア川沿いでローマ共和国軍がガリア人に包囲され窮地に陥ったとされる。 古代歴史家ディオドロスやリウィウスらが記録を残すが、詳細な史料は乏しく伝承に依る部分が大きい。 この戦闘の結果、ガリア人はローマ市を略奪し、ローマは一時的に壊滅的被害を受けた。 戦後、ローマはガリアとの和平条約を結び、賠償金を支払って都市再建を図った。 この出来事はローマ共和政初期の危機として語り継がれ、後世の軍事教訓とされた。
紀元前390年 アッリアの戦い
顕慶5年6月6日

百済が唐・新羅連合軍(唐・新羅の同盟)により滅ぼされる。

660年に唐・新羅連合軍により百済が滅亡し、朝鮮半島の勢力図が大きく変化した。
顕慶5年6月6日(西暦660年)、唐(大唐)と新羅の連合軍が百済を攻撃し、首都扶余を陥落させた。 百済の王・義慈王は捕らえられ、約700年にわたる百済王国の歴史は終焉を迎えた。 新羅は唐と占領地の分割を協議したが、その後唐の影響力拡大に反発して新羅・唐が対立する。 百済から脱出した遺民は倭国(日本)へ逃れ、大和政権との交流が深まった。 この滅亡は三国時代から統一新羅時代への転換点となり、朝鮮半島史に大きな節目をもたらした。
660年 顕慶 6月6日 百済 新羅 唐・新羅の同盟
応永26年/世宗元年6月26日

応永の外寇。朝鮮が、対馬に来襲。

応永26年に李氏朝鮮軍が対馬を襲撃した軍事遠征「応永の外寇」。
応永26年/世宗元年6月26日(西暦1419年)、朝鮮王朝が日本海賊(倭寇)取締りを名目に対馬へ軍を派遣した。 李得仁率いる朝鮮軍は5月に出発し、約2万の兵力で対馬に上陸し倭人を攻撃した。 対馬守護の宗氏は抵抗したものの朝鮮軍の圧倒的火力と組織力に敗北を喫した。 朝鮮軍は領主宗氏との交渉により倭寇取締まりを約束させた後、無事に撤退した。 この遠征は日朝関係史上稀な国際軍事行動として位置づけられ、日本への外交的衝撃を与えた。
1419年 応永 世宗 6月26日 応永の外寇 対馬
1545年

第4次イタリア戦争: ソレントの海戦。

第4次イタリア戦争中、1545年に地中海で行われたソレント沖の海戦。
1545年7月18日、ハプスブルク帝国(スペイン領ネーデルラント)とフランスを中心とする連合艦隊がソレント沖で衝突した。 この海戦はイタリア半島南部の支配権を巡る抗争の一環として発生した。 両軍ともに大型ガレオンを投入し、火砲戦を展開したが決着はつかず互いに損害を被った。 戦闘後、両国は補充と修理を行いながら引き続き地中海支配を巡る対立を継続した。 この海戦は16世紀の海洋戦術進化と大艦、大砲時代への過渡期を象徴する出来事である。
1545年 第4次イタリア戦争 ソレントの海戦 英語版
慶応2年6月7日

幕府艦隊が屋代島(周防大島)を砲撃、第二次長州征伐が始まる。

慶応2年、幕府艦隊が周防大島を砲撃し、第二次長州征伐が開始された。
慶応2年6月7日(西暦1866年)、江戸幕府海軍の艦隊が長州藩領の周防大島を艦砲射撃した。 これにより、幕府は長州藩を討伐する第二次長州征伐を本格的に開始した。 海上封鎖を伴う征伐は、長州藩の兵粮や物資輸送路を遮断しようとする戦略的行動だった。 長州側は奇兵隊や功山寺挙兵で反撃を試み、戊辰戦争へ至る政局のきっかけとなった。 この一連の衝突は幕末期の内戦的様相を強め、幕府の統治基盤を揺るがした。
1866年 慶応 6月7日 幕府 屋代島 長州征伐
1915年

第一次世界大戦: 第二次イゾンツォの戦いが始まる。

イタリア軍とオーストリア・ハンガリー軍がイゾンツォ川流域で激突した大規模会戦が始まりました。
1915年7月18日、第一次世界大戦において第二次イゾンツォの戦いが開戦しました。イタリア王国はオーストリア・ハンガリー帝国に対し、イゾンツォ川流域で大規模な攻勢を開始しました。前線は塹壕戦となり、移動撃戦で両軍ともに多大な犠牲を被りました。戦闘は約3週間にわたり膠着し、イタリア軍の突破は限定的にとどまりました。戦闘後の占領地はほとんど変わらず、この会戦は両軍にとって消耗戦の様相を強める結果となりました。
1915年 第一次世界大戦 第二次イゾンツォの戦い
1982年

グアテマラ内戦: プラン・デ・サンチェスの虐殺。グアテマラ・バハ・ベラパス県のプラン・デ・サンチェスで国軍と自警団 (PAC) が村人268人を虐殺。

グアテマラ内戦中、国軍と自警団がプラン・デ・サンチェス村で住民268人を虐殺した悲惨な事件。
1982年7月18日、グアテマラ内戦の最中、バハ・ベラパス県プラン・デ・サンチェス村で政府軍と民兵組織(自警団)が住民268人を虐殺した。 虐殺の犠牲者には女性や子供、高齢者も含まれており、村は焼き払われ、多くの住民が家を失った。 この事件は内戦下の国家的抑圧と人権侵害の象徴的事例となり、国際社会から強い非難を浴びた。 後に真相究明や責任追及を求める声が高まり、グアテマラの真実和解委員会 (CEH) による調査でも重大な人道犯罪と認定された。 現地では記念碑が建立され、内戦の記憶を伝えるとともに、再発防止と和解の重要性が訴えられている。
1982年 グアテマラ内戦 プラン・デ・サンチェスの虐殺 英語版 グアテマラ バハ・ベラパス県 プラン・デ・サンチェス 英語版
1988年

イラン政府がイラン・イラク戦争の即時停戦を求めた国連安保理決議を受諾。

イラン政府がイラン・イラク戦争の即時停戦を求めた国連安全保障理事会の決議を受諾しました。これにより約8年間続いた両国間の戦闘が終結に向かう一歩となりました。
1988年7月18日、イラン政府は国連安全保障理事会が採択したイラン・イラク戦争の即時停戦決議(第598号)を正式に受諾しました。 この決議は両国に対し停戦協定の履行と捕虜交換を求めるもので、戦争終結に向けた国際的な枠組みを示しました。 イランの受諾を受け、8月にはイラク側も同決議を受諾し、停戦交渉が進展しました。 最終的には同年8月20日に正式に停戦協定が発効し、8年以上にわたった戦闘が終了しました。 この停戦は中東地域の緊張緩和に寄与するとともに、戦後の復興プロセスの始まりとなりました。
1988年 イラン イラン・イラク戦争