紀元前390年
ローマ・ガリア戦争: アッリアの戦い(伝承による日付)。
紀元前390年のローマ・ガリア戦争で、ローマ軍がガリア人に大敗したとされる伝承的な戦い。
紀元前390年、アッリア川沿いでローマ共和国軍がガリア人に包囲され窮地に陥ったとされる。
古代歴史家ディオドロスやリウィウスらが記録を残すが、詳細な史料は乏しく伝承に依る部分が大きい。
この戦闘の結果、ガリア人はローマ市を略奪し、ローマは一時的に壊滅的被害を受けた。
戦後、ローマはガリアとの和平条約を結び、賠償金を支払って都市再建を図った。
この出来事はローマ共和政初期の危機として語り継がれ、後世の軍事教訓とされた。
紀元前390年
アッリアの戦い
64年
ローマ大火起こる。
西暦64年に発生したローマ市街の大規模火災で、6日間燃え続けたと伝えられる。
64年7月18日に発生したとされるローマ大火は、市内の多くの地区を6日間にわたり焼失させた。
皇帝ネロは初期対応に苦慮し、被災者の避難と食糧配給を指示したと言われる。
一部の史料では、ネロ自身が火災を放ったとの噂が流れ、キリスト教徒への迫害が始まった。
火災後の再建計画ではネロの「黄金宮殿」が着工され、豪奢な都市設計が進められた。
この大火はローマ市民の生活を一変させ、帝政下の都市防災と復興の教訓になった。
64年
ローマ大火
顕慶5年6月6日
百済が唐・新羅連合軍(唐・新羅の同盟)により滅ぼされる。
660年に唐・新羅連合軍により百済が滅亡し、朝鮮半島の勢力図が大きく変化した。
顕慶5年6月6日(西暦660年)、唐(大唐)と新羅の連合軍が百済を攻撃し、首都扶余を陥落させた。
百済の王・義慈王は捕らえられ、約700年にわたる百済王国の歴史は終焉を迎えた。
新羅は唐と占領地の分割を協議したが、その後唐の影響力拡大に反発して新羅・唐が対立する。
百済から脱出した遺民は倭国(日本)へ逃れ、大和政権との交流が深まった。
この滅亡は三国時代から統一新羅時代への転換点となり、朝鮮半島史に大きな節目をもたらした。
660年
顕慶
6月6日
百済
唐
新羅
唐・新羅の同盟
正暦4年6月26日
903年に歿した菅原道真に左大臣と正一位を追贈。
903年没の学者・菅原道真に、左大臣と正一位の官位が追贈された。
正暦4年6月26日(西暦993年)に、右大臣だった菅原道真が追贈により左大臣に昇格し、正一位を賜った。
道真は遣唐使廃止論を唱え学者として活躍したが、政争に敗れ大宰府へ左遷され903年に没した。
死後、怨霊伝説が広まり、御霊信仰の対象となった道真の祟りを鎮めるための措置とされる。
この追贈により、後世「天神」として祀られ全国に天満宮が建立される契機となった。
学問の神として信仰される現在の道真像と、政治的背景の両面を物語る重要な出来事である。
993年
正暦
6月26日
菅原道真
左大臣
正一位
応永26年/世宗元年6月26日
応永の外寇。朝鮮が、対馬に来襲。
応永26年に李氏朝鮮軍が対馬を襲撃した軍事遠征「応永の外寇」。
応永26年/世宗元年6月26日(西暦1419年)、朝鮮王朝が日本海賊(倭寇)取締りを名目に対馬へ軍を派遣した。
李得仁率いる朝鮮軍は5月に出発し、約2万の兵力で対馬に上陸し倭人を攻撃した。
対馬守護の宗氏は抵抗したものの朝鮮軍の圧倒的火力と組織力に敗北を喫した。
朝鮮軍は領主宗氏との交渉により倭寇取締まりを約束させた後、無事に撤退した。
この遠征は日朝関係史上稀な国際軍事行動として位置づけられ、日本への外交的衝撃を与えた。
1419年
応永
世宗
6月26日
応永の外寇
対馬
1545年
第4次イタリア戦争: ソレントの海戦。
第4次イタリア戦争中、1545年に地中海で行われたソレント沖の海戦。
1545年7月18日、ハプスブルク帝国(スペイン領ネーデルラント)とフランスを中心とする連合艦隊がソレント沖で衝突した。
この海戦はイタリア半島南部の支配権を巡る抗争の一環として発生した。
両軍ともに大型ガレオンを投入し、火砲戦を展開したが決着はつかず互いに損害を被った。
戦闘後、両国は補充と修理を行いながら引き続き地中海支配を巡る対立を継続した。
この海戦は16世紀の海洋戦術進化と大艦、大砲時代への過渡期を象徴する出来事である。
1545年
第4次イタリア戦争
ソレントの海戦
英語版
1862年
アルプス山脈のダン・ブランシュに初登頂。
1862年、アルプス山脈の名峰ダン・ブランシュに初めて登頂が達成された。
1862年7月18日、スイス・ヴァレー州のダン・ブランシュ(Dent Blanche、4,357m)の初登頂が成功した。
登頂隊はイギリス人登山家と地元ガイドの混成チームで、高度順応と岩稜帯の難所突破に挑んだ。
この成功はアルプス山岳地帯での山岳探検黄金時代(Golden Age of Alpinism)を象徴する一つ。
以降、アルピニズムがスポーツとしても広まり、高度登山技術や装備の発展を促した。
ダン・ブランシュは美しい4つの大きな尾根を持ち、登頂ルートとして今も人気を誇る名峰である。
1862年
アルプス山脈
ダン・ブランシュ
元治元年6月15日
工事中の五稜郭で江戸幕府の箱館奉行所としての業務を開始。
元治元年、五稜郭内の工事中施設が箱館奉行所として業務を開始した。
元治元年6月15日(西暦1864年)、北海道函館市の五稜郭に江戸幕府の箱館奉行所が開設された。
五稜郭は蘭学者大友養軒の指導で西洋式星形要塞として建設されていた。
奉行所は北海道南部の行政、警備、交易監督を担う幕府直轄の拠点となった。
箱館奉行は蝦夷地の治安維持と異国船対応を主とし、函館港の重要性を高めた。
戊辰戦争後、旧幕府軍最後の拠点として五稜郭戦争の舞台となった歴史的要所でもある。
1864年
元治
6月15日
五稜郭
箱館奉行所
慶応2年6月7日
幕府艦隊が屋代島(周防大島)を砲撃、第二次長州征伐が始まる。
慶応2年、幕府艦隊が周防大島を砲撃し、第二次長州征伐が開始された。
慶応2年6月7日(西暦1866年)、江戸幕府海軍の艦隊が長州藩領の周防大島を艦砲射撃した。
これにより、幕府は長州藩を討伐する第二次長州征伐を本格的に開始した。
海上封鎖を伴う征伐は、長州藩の兵粮や物資輸送路を遮断しようとする戦略的行動だった。
長州側は奇兵隊や功山寺挙兵で反撃を試み、戊辰戦争へ至る政局のきっかけとなった。
この一連の衝突は幕末期の内戦的様相を強め、幕府の統治基盤を揺るがした。
1866年
慶応
6月7日
幕府
屋代島
長州征伐
1870年
第1バチカン公会議でローマ教皇首位説・教皇不可謬説に関する教義憲章『パストル・エテルヌス』が採択。
第1バチカン公会議で教皇不可謬説を定式化する教義憲章が採択された。
1870年7月18日、第1バチカン公会議の最終日に教義憲章『パストル・エテルヌス』が正式採択された。
この憲章でローマ教皇が教会全体に対して説教する際に誤りがないとする教皇不可謬説が定義された。
教皇ピウス9世の主導の下、教会の権威と一致を強化する意図があったとされる。
一方、プロテスタント圏や自由主義諸国では異論が強く、後の旧カトリック会議派の分裂につながった。
この決議はカトリック教会の教義と近代国家との関係に深い影響を与えた。
1870年
第1バチカン公会議
ローマ教皇
教皇不可謬説
パストル・エテルヌス
英語版
1871年
文部省創設。
明治政府が中央集権的な教育行政を整備するために文部省を設置しました。
明治4年(1871年)7月18日、政府は官制改革の一環として文部省を創設しました。旧来の藩校や寺子屋を統合し、国による教育方針の統一と教科書検定制度を導入しました。西洋式の学校制度を模範とし、初等・中等教育の体制を整備したことが特徴です。この政策により近代的な教育制度が確立し、日本の社会発展に大きく寄与しました。文部省はその後の文部科学省へと継承され、今日に至る教育行政の基礎となりました。
1871年
文部省
1872年
イギリスで秘密投票法が制定。
イギリスで投票の秘密性を保障する法律が成立し、選挙の公正性が向上しました。
1872年7月18日、英国議会はBallot Act(秘密投票法)を可決しました。これにより有権者は投票所で記入した投票用紙を投票箱に投入する方式が導入され、従来の公開投票から秘密投票へと移行しました。不正選挙や買収の抑止が期待され、選挙制度の民主化が大きく進展しました。当初は限られた選挙に適用されたものの、後に全国規模の制度として定着しました。その後、多くの国が同様の制度を取り入れるきっかけとなりました。
1872年
イギリス
秘密投票