用明天皇2年6月7日

蘇我馬子が穴穂部皇子を暗殺。

587年、蘇我馬子が穴穂部皇子を暗殺し実権を掌握。 飛鳥時代の豪族間争いを示す事件。
用明天皇2年6月7日(西暦587年7月17日)、蘇我馬子が穴穂部皇子を襲撃・暗殺しました。 蘇我氏は飛鳥時代の有力豪族で、皇位継承に強い影響力を持っていました。 この暗殺により蘇我馬子は政治的実権を一層強化し、蘇我氏支配の基盤を固めました。 事件は『日本書紀』にも記述され、当時の王権と豪族勢力の対立構造を象徴しています。 後の物部氏との抗争や仏教公伝を巡る動きにも大きな影響を与えました。
587年 用明天皇 6月7日 蘇我馬子 穴穂部皇子
皇極天皇4年6月19日

孝徳天皇らが群臣を大槻の樹下に集めて忠誠を誓わせる。(『日本書紀』による)

645年、孝徳天皇らが大槻の樹下で群臣に忠誠を誓わせた。 『日本書紀』に記された政権強化の儀式。
皇極天皇4年6月19日(西暦645年7月17日)、『日本書紀』によると孝徳天皇と有力な群臣が大槻の樹下に集まりました。 この場で皇位と政権運営への忠誠を群臣に誓わせることで、中央集権的な統治体制の確立が図られました。 大化の改新前夜とされるこの儀式は、蘇我氏から天皇への権力移行を象徴します。 樹下の盟と呼ばれるこの行為は、日本古代の国家形成過程を理解する上で重要な史料となっています。 後の律令国家体制構築への布石として評価される歴史的な出来事です。
645年 皇極天皇 6月19日 孝徳天皇 日本書紀
1054年

ローマ王ハインリヒ3世の息子ハインリヒがハインリヒ4世としてローマ王に就任した。

1054年、ハインリヒ4世がローマ王に即位。 神聖ローマ帝国の王権に新たな世代が登場。
1054年7月17日、ローマ王ハインリヒ3世の息子がハインリヒ4世としてローマ王位を継承しました。 若年での即位は摂政や教皇との権力関係に影響を及ぼし、後の叙任権闘争の遠因となります。 ハインリヒ4世は後に神聖ローマ皇帝としても戴冠し、教皇との対立を深めました。 彼の治世は皇帝権と教会権の衝突が顕在化した時代として知られます。 即位は中世ヨーロッパの政治構造を理解する上で重要な契機となりました。
1054年 ローマ王ハインリヒ3世 ハインリヒ ローマ王
元弘3年/正慶2年6月5日

配流されていた隠岐島から脱出した後醍醐天皇が京に到着。

1333年、後醍醐天皇が隠岐島から脱出し京へ帰還。 建武の新政への転機となった劇的な帰還。
元弘3年/正慶2年6月5日(西暦1333年7月17日)、配流中の後醍醐天皇は隠岐島を密かに脱出しました。 その後、名和氏ら地元武士の協力を得て船で本州へ渡り、京に到着します。 鎌倉幕府打倒を掲げた後醍醐天皇の帰還は、全国の反幕府勢力に大きな勇気を与えました。 この帰還に続く鎌倉幕府崩壊と建武の新政は、南北朝時代の序章となります。 中世日本の政権交代を象徴する重要な歴史的瞬間です。
1333年 元弘 正慶 6月5日 隠岐島 後醍醐天皇
建文4年6月17日

靖難の変で勝利した燕王朱棣(永楽帝)が明の皇帝に即位。

1402年、燕王朱棣が明の永楽帝として即位。 靖難の変を経て権力を掌握。
建文4年6月17日(西暦1402年7月17日)、靖難の変で勝利した燕王朱棣が帝位に就きました。 燕王朱棣は先帝による権力集中策に反旗を翻し、勢力を拡大しました。 彼は永楽帝と号し、首都を南京から北京へ遷都するなど大規模な改革を実施しました。 永楽帝治世下では『永楽大典』の編纂や鄭和の大航海など文化・外交事業が活発化しました。 明朝を最盛期に導いた重要な転換点とされています。
1402年 建文 6月17日 靖難の変 永楽帝
1429年

フランス王シャルル7世がランスで戴冠。

1429年、シャルル7世がランスで戴冠。 ジャンヌ・ダルクの活躍に彩られた戴冠式。
1429年7月17日、シャルル7世は伝統的な戴冠地ランス大聖堂で即位式を挙行しました。 百年戦争の危機的状況下、戴冠は王位正統性の象徴として重要でした。 戴冠にはジャンヌ・ダルクの軍事的勝利が大きく寄与し、王権再建の契機となります。 シャルル7世は戴冠後、王権強化と国内統治の再編を進めていきました。 この儀式はフランス王権復興の重要な一歩と見なされています。
1429年 シャルル7世 ランス
元和6年6月18日

徳川秀忠の五女・和子が後水尾天皇の女御として入内。

1620年、徳川秀忠の五女・和子が後水尾天皇の女御に入り、将軍家と朝廷の結びつきが強化されました。
徳川秀忠の五女・和子(のちの於和津)が後水尾天皇の女御として入内した出来事です。将軍家の娘が正式に宮中に迎えられることで、江戸幕府と朝廷の関係強化が図られました。女御は天皇の正妃に次ぐ位にあたり、宮廷儀礼でも重要な役割を担います。この婚姻は幕府の政治的立場を安定させる狙いがありました。
1620年 元和 6月18日 徳川秀忠 和子 後水尾天皇 女御
嘉永6年6月12日

黒船来航:ペリー率いるアメリカ艦隊が江戸幕府からの国書回答猶予要請を受けて浦賀を出港。

1853年、ペリー率いるアメリカ艦隊が浦賀を出港し、翌年の再来航に向けた交渉の猶予を求めました。
黒船来航の先駆けとして、マシュー・ペリー提督は浦賀に停泊し幕府に通商開港の要請を行いました。その後、一時的に回答猶予を申し入れ、艦隊は出港しました。これは日本の鎖国体制を揺るがす重要な局面となり、翌年の再来航と日米和親条約締結へとつながります。
1853年 嘉永 6月12日 黒船来航 ペリー 江戸幕府 浦賀
1880年

旧刑法と治罪法(刑事訴訟法の前身)が公布される。なお、施行は1882年1月1日から。

1880年、明治政府が旧刑法と治罪法を公布し、日本の近代刑事司法制度の基盤を整えました。
日本初の近代的な刑法である旧刑法と、その手続を定めた治罪法が公布されました。これにより従来の身分制に基づく刑罰から、法の下の平等原則に基づく刑事手続きへと移行しました。ただし施行は1882年からで、制度移行期間が設けられました。
1880年 旧刑法 刑事訴訟法
1917年

ジョージ5世の命で英王室の家名がサクス=コバーグ=ゴータからウィンザーに改称、ウィンザー朝が始まる。

イギリス王室の家名がサクス=コバーグ=ゴータからウィンザーに改称され、ウィンザー朝が始まった。
第一次世界大戦中の反独感情に対応して、1917年7月17日、ジョージ5世は王室のドイツ系家名サクス=コバーグ=ゴータを英語風のウィンザーに改称しました。これによりウィンザー朝が始まり、以降現在に至るまで英国王室の正式名称として定着しています。この改称は王室のドイツ系血統を隠蔽する政治的配慮と国民感情の高揚を図る意図がありました。新たな家名は中世以来の王室ゆかりの地名にちなんで命名され、国民に親しみやすいイメージを与えました。王室の称号変更は憲章改正を伴わず、王権そのものには影響を与えませんでしたが、イギリス史上重要な象徴的転換点とされています。
1917年 ジョージ5世 サクス=コバーグ=ゴータ ウィンザー朝
ユリウス暦7月4日

ロシア革命: ロシア・エカテリンブルクのイパチェフ館に監禁されていた元ロシア皇帝ニコライ2世とその家族らがボリシェヴィキにより銃殺される(ロマノフ家の処刑)。

ロシア革命期に元皇帝ニコライ2世とその家族らがイパチェフ館で銃殺された。
1918年7月17日(ユリウス暦7月4日)、ロシア内戦の混乱期にエカテリンブルクのイパチェフ館で、ボリシェヴィキはロマノフ王朝最後の皇帝ニコライ2世と皇后アレクサンドラ、子女、側近ら計11名を処刑しました。この処刑はロシア革命の徹底を図るための政治決断であり、世界に衝撃を与えました。遺体は遺棄され、一時行方不明となりましたが、その後発見・身元確認が行われました。本件はロマノフ家の終焉を象徴し、帝政ロシアの時代に決定的な断絶をもたらしました。歴史家の間では革命の暴力性と政権の正統性を巡る議論が続いています。
1918年 ユリウス暦 7月4日 ロシア革命 ロシア エカテリンブルク イパチェフ館 ロシア皇帝 ニコライ2世 ボリシェヴィキ ロマノフ家の処刑
1937年

日中戦争: 廬山会談。中国国民党の蔣介石と中国共産党の周恩来が会談し、抗日決戦で合意。

廬山会談で蔣介石と周恩来が抗日統一戦線で合意した。
1937年7月17日、中華民国の蔣介石と中国共産党の周恩来は江西省廬山で会談し、国内抗日統一戦線の構築で一致しました。これにより国共内戦は一時停止し、中国全土での日本軍に対する共同抵抗が可能となりました。会談は互いの勢力を尊重する枠組みを確認し、国民党と共産党の協力が正式に始まりました。統一戦線は日中戦争の長期化に対応するための重要な方策とされ、中国の国際的立場にも影響を及ぼしました。後に会談の成果は国共合作として歴史に刻まれました。
1937年 日中戦争 中国国民党 蔣介石 中国共産党 周恩来