1900年

福島県の安達太良山で大規模な噴火。火口に近い硫黄鉱山の生活居住棟などが火砕サージや降灰で全壊し、死者・行方不明者64人。負傷者19人のうち15人は一ヶ月以内に死亡した。

1900年、安達太良山の大規模噴火により火砕サージや降灰が硫黄鉱山施設を襲い、多数の死傷者を出しました。
福島県安達太良山で発生した噴火は、火口近くの硫黄鉱山集落を直撃しました。火砕サージにより居住棟が全壊し、降灰による窒息被害も深刻化。死者・行方不明者計64名、負傷者19名のうち大半が一か月以内に亡くなる惨事となりました。日本の火山災害対応への課題を浮き彫りにしました。
1900年 福島県 安達太良山 噴火 火口 硫黄 火砕サージ
1944年

ポートシカゴの惨事(ポートシカゴの海軍兵器庫で発生した壊滅的な爆発事故)が起こる。

ポートシカゴで海軍兵器庫が爆発し、甚大な被害が発生した。
1944年7月17日、カリフォルニア州ポートシカゴの海軍弾薬補給基地で大規模な爆発事故が発生しました。爆発は積荷の雷管の誤爆が原因とされ、死者約320名、負傷者800名以上を出しました。多くがアフリカ系アメリカ人水兵であり、その後のポートシカゴ蜂起や公民権運動のきっかけともなりました。事故は軍内部の人種差別問題を浮き彫りにし、兵舎や施設の安全管理強化が求められました。現在も被害者追悼の記念碑が現地に残されています。
1944年 ポートシカゴの惨事
1953年

南紀豪雨: 翌18日にかけて紀州大水害が発生。死者615人、行方不明者431人。

1953年7月17日から18日にかけて紀伊半島南部を襲った南紀豪雨により、紀州大水害が発生しました。
集中豪雨により紀州地方各地で河川が氾濫し、堤防決壊や土砂崩れが多発しました。特に和歌山県や三重県南部では家屋流失や道路寸断が相次ぎ、交通網が麻痺しました。死者615人、行方不明者431人という戦後日本最大級の内水氾濫災害となり、地域社会に深い爪痕を残しました。救助活動には地元住民だけでなく自衛隊も動員され、復旧作業の経験から治水計画の見直しや早期警戒システムの整備が進められました。
紀州大水害
1965年

海上自衛隊のP 2哨戒機が新型照明弾の投下試験中に銚子沖で墜落。11人死亡。

1965年7月17日、海上自衛隊のP-2哨戒機が銚子沖で行った照明弾投下試験中に墜落し、乗員11名が殉職しました。
当該機はP-2J型哨戒機で、新型照明弾の海上投下試験を行っていました。試験中に機械的トラブルが発生し、機体は海面に激突しました。救難活動は迅速に展開されましたが、11名の乗員は帰らぬ人となりました。事故調査委員会は原因究明に着手し、安全対策の強化を図りました。以降、照明弾投下手順と整備プロセスが見直され、再発防止策が講じられました。
1965年 海上自衛隊 P-2 照明弾
1981年

ハイアットリージェンシー空中通路落下事故。アメリカミズーリ州カンザスシティのホテルで吊り下げ式の空中通路が落下。114人が死亡し200人以上が負傷した。

1981年7月17日、ミズーリ州カンザスシティのハイアットリージェンシーで 空中通路が落下し多数の死傷者が出ました。
吊り下げ式の二階通路が構造設計ミスにより崩落。 通路はロビーを横切るように設置されており、落下時に114人が死亡、 200人以上が負傷する惨事となりました。 この事故を受けて建築基準や点検体制の見直しが進み、 世界中の建築設計に大きな教訓を残しました。
1981年 ハイアットリージェンシー空中通路落下事故 アメリカ ミズーリ州 カンザスシティ
1996年

トランス・ワールド航空800便墜落事故が起こる。

ニューヨーク発パリ行きTWA800便が離陸直後に墜落し、多くの犠牲者を出した事故。
1996年7月17日、ジョン・F・ケネディ国際空港を離陸したトランス・ワールド航空800便が大西洋上で爆発・墜落し、乗員乗客230名全員が死亡しました。 事故原因は機体中央部の燃料タンクの爆発と結論づけられ、航空安全基準の見直しが行われました。 現場付近では多数の捜索・救助作業が実施され、航空事故調査の史上最大規模の一つとされます。 触発された数多くの陰謀論や調査報告書の公開など、社会的な議論も喚起しました。 この事故は商業航空における安全管理の重要性を改めて浮き彫りにしました。
トランス・ワールド航空800便墜落事故
1998年

パプアニューギニア地震。

パプアニューギニアで大規模な地震が発生し、多数の被害が出た。
1998年7月17日、パプアニューギニア北部沿岸地域で大規模な地震が発生しました。 激しい揺れにより建物の倒壊や山崩れが相次ぎ、多数の住民が家屋を失いました。 現地では救援隊や国際的な支援活動が展開され、被災者支援が急務となりました。 地震による津波発生の報告は限定的だったものの、防災体制の課題が浮き彫りになりました。 この災害は地域社会に深刻な影響を与え、その後の防災計画策定に大きな教訓を残しました。
1998年
2007年

TAM航空3054便オーバーラン事故が起こる。

2007年7月17日、ブラジルのサンパウロにあるコンゴーニャス空港でTAM航空3054便が滑走路をオーバーランして墜落した重大事故です。 多数の犠牲者が出たブラジル史上最悪の航空事故として記憶されています。
2007年7月17日、ブラジル航空会社TAM航空の3054便がサンパウロ・コンゴーニャス空港に着陸進入中に滑走路を逸脱しました。 航空機は滑走路終端を越えて衝突・炎上し、搭乗者187人と地上の12人を合わせて199人が死亡する大惨事となりました。 事故原因は降雨による滑走路の滑走条件悪化と逆噴射装置の操作ミスとされ、整備と操縦手順の問題が指摘されました。 ブラジル国内の航空安全基準見直しや滑走路設計の改良が進められ、コンゴーニャス空港の運用制限強化につながりました。 この事故はブラジル史上最悪の航空事故として航空業界に大きな衝撃を与え、多くの安全対策の重要性を浮き彫りにしました。
TAM航空3054便オーバーラン事故
2014年

マレーシア航空17便が墜落する。

2014年7月17日、上空を飛行中のマレーシア航空MH17便がウクライナ東部で撃墜され、多くの犠牲者が出る悲劇となりました。 国際的な衝撃を与え、航空安全と地政学的リスクへの警戒が高まりました。
マレーシア航空17便(MH17)はオランダ・アムステルダム発クアラルンプール行きの旅客機で、ウクライナ紛争地域上空を飛行中に地対空ミサイルで撃墜されました。 乗員乗客298人全員が死亡し、多国籍の犠牲者を含む大惨事となりました。 国際的な捜査により、ロシア製のミサイルシステムが使用された可能性が指摘され、責任所在を巡る外交摩擦が深刻化しました。 この事件を受けて多くの航空会社が紛争地域上空の飛行経路を見直し、航空安全管理の強化が進められました。 また国際社会は被害者遺族への支援や真相究明を求める動きを強め、地域情勢への注視が高まりました。
2014年 マレーシア航空17便
2015年

前年の事故で意識不明に陥っていたレーシングドライバー、ジュール・ビアンキが死亡。

2015年7月17日、前年の日本グランプリ中に重傷を負っていたF1ドライバーのジュール・ビアンキが死亡しました。 ファンやチームに衝撃を与え、モータースポーツの安全性への議論を呼びました。
2014年10月のF1日本グランプリ決勝で事故を起こし、意識不明の重体となったジュール・ビアンキは、入院先の病院で数ヶ月にわたり治療を続けていました。 彼はマルシャチームで活躍した若手ドライバーで、事故は大雨の中でコース脇のクレーン車に激突したことによるものでした。 事故後の脳損傷が回復せず、2015年7月17日に25歳で亡くなり、F1史上初の在コース事故による死亡事故となりました。 これを機にF1ではヘルメット強化やホイールデバイス(HALO)の導入検討など安全対策が大幅に見直されました。 ビアンキの死は世界中のモータースポーツ関係者に強い衝撃を与え、安全性向上の契機となりました。
2015年 ジュール・ビアンキ