1212年

レコンキスタ: アンダルシア州のナバス・デ・トロサで、イベリア半島のカトリック諸国と騎士修道会の連合軍がムワッヒド朝の軍を破る。(ナバス・デ・トロサの戦い)

スペインのナバス・デ・トロサで騎士修道会など連合軍がムワッヒド朝軍を破ったレコンキスタの大きな転機となる戦いです。
1212年7月16日にイベリア半島のキリスト教徒連合軍とムワッヒド朝のイスラム軍がナバス・デ・トロサで激突しました。 カスティーリャ、アラゴン、ナバラ王国などと騎士修道会が参加した連合軍は数的に劣勢ながらも決定的な勝利を収めました。 この戦いはレコンキスタの潮目を変える転換点となり、イスラム勢力の後退を加速させました。 以降、キリスト教勢力は南部への領土拡大を進め、1487年のグラナダ陥落へとつながっていきます。 中世ヨーロッパとイスラム文化の対立を象徴する重要な合戦です。
1212年 レコンキスタ アンダルシア州 ナバス・デ・トロサ イベリア半島 カトリック 騎士修道会 ムワッヒド朝 ナバス・デ・トロサの戦い
康熙22年6月22日

澎湖海戦が終結。清が鄭成功の鄭氏政権を破り、台湾を版図におさめる。

澎湖海戦で清が鄭成功の勢力を破り、台湾を正式に版図に加えました。
1683年7月16日(康熙22年6月22日)、清朝の海軍が鄭成功の子孫が治める鄭氏政権を澎湖諸島で撃破しました。 この澎湖海戦により、清は台湾支配の足場を確保し、その後の台湾統治を本格化させました。 鄭氏政権の敗北は中国沿海部における一元的支配を完成させる重要な一撃であり、海軍力の優位を示しました。 康熙帝は戦後、台湾を正式な省として編入し、行政区画の整備を進めました。 台湾史における大きな転換点であり、後の近代化への布石ともなりました。
1683年 康熙 6月22日 澎湖海戦 鄭成功 鄭氏政権 台湾
1779年

アメリカ独立戦争: ストーニーポイントの戦い。

アメリカ独立戦争中、アメリカ軍がストーニーポイント砦を奪取する夜襲を敢行しました。
1779年7月16日、アメリカ大陸軍のアンソニー・ウェイン将軍率いる部隊がニュージャージー州ストーニーポイント砦を奇襲攻撃しました。 激しい白兵戦の末、わずか30分余りでイギリス・ハンガー・ロイ連隊を撃退し砦を確保しました。 夜襲による大胆な作戦は士気を大いに高揚させ、独立戦争におけるアメリカ軍の戦術的可能性を示しました。 短期的な戦略的利益は限定的でしたが、植民地側の自信と連帯感を強化しました。 その後砦はイギリス軍に奪還されましたが、英雄的夜襲として語り継がれています。
1779年 アメリカ独立戦争 ストーニーポイントの戦い
1861年

南北戦争: 北軍の35,000名の兵が第一次ブルランの戦いのためにワシントンを出発。

南北戦争初期、北軍の大軍が第一次ブルランの戦いに向け出発し、当時の緊張感が高まりました。
1861年7月16日、北軍は第一次ブルランの戦いに備え約3万5千人の兵をワシントンD.C.から出発させた。 ワシントンでは戦争開始後初の大規模行軍であり、市民も見送りに集まった。 ジェイ・クック将軍が指揮を執り、兵士たちはブルラン川周辺で南軍と対峙する予定だった。 第一次ブルランの戦いは7月21日に行われ、北軍は南軍に敗北したが、戦争の長期化を予感させる転機となった。 この一連の動きはアメリカ国内で初の本格的陸上戦闘への関心を高めた。
1861年 南北戦争 第一次ブルランの戦い
ユリウス暦7月3日

ロシア革命: 七月蜂起(七月事件)。ロシア・ペトログラードでボリシェヴィキが武装デモ。7月18日(ユリウス暦7月7日)にロシア臨時政府により鎮圧。

ロシア臨時政府に対する7月蜂起が起こり、ボリシェヴィキの武装デモが鎮圧されました。
1917年7月3日(ユリウス暦)、ペトログラードで労働者や兵士がボリシェヴィキの呼びかけで武装デモを行った。 デモはロシア臨時政府の打倒を目指し、食料不足や戦争継続への不満が背景にあった。 臨時政府は7月18日(ユリウス暦7月7日)に軍隊を動員して蜂起を鎮圧し、数百人が逮捕または死亡した。 七月蜂起は後の十月革命への布石とされ、ボリシェヴィキと臨時政府の対立を深めた。 この事件は1917年ロシア革命の重要な前哨戦であり、革命過程を象徴する出来事である。
1917年 ユリウス暦 7月3日 ロシア革命 七月蜂起 ペトログラード ボリシェヴィキ 7月18日 7月7日 ロシア臨時政府
1942年

ホロコースト: ナチス・ドイツ占領下のフランスでユダヤ人13,000人が一斉に検挙される。(ヴェロドローム・ディヴェール大量検挙事件)

1942年、ナチス占領下フランスでユダヤ人約13,000人が一斉検挙された(ヴェロドローム・ディヴェール事件)。
ホロコーストの一環として、パリ郊外の競技場ヴェロドローム・ディヴェールで大規模なラウンドアップが行われました。 13,000人以上のユダヤ人が収容され、その後強制収容所へ送られました。 ヴィシー政府とドイツ軍が協力したこの事件は、フランスのユダヤ人コミュニティに大きな衝撃を与えました。 多くの犠牲者がその後アウシュビッツなどで命を失い、戦後も記憶と教訓として語り継がれています。 現在、現地には記念碑が建てられ、ホロコーストの悲劇を伝える重要な証言の場となっています。
1942年 ホロコースト ナチス・ドイツ フランス ユダヤ人 ヴェロドローム・ディヴェール大量検挙事件