622年

ヒジュラ暦1年1月1日。ヒジュラとは、預言者ムハンマドが、メッカの迫害から逃れメディナに移住(ヒジュラ)した日を指す。イスラム暦(ヒジュラ暦)はこの日から起算する。

預言者ムハンマドがメッカの迫害を逃れてメディナに移住した日で、これをもってヒジュラ暦が始まります。
ヒジュラ暦は預言者ムハンマドが622年7月16日にメッカからメディナへの移住(ヒジュラ)を行ったことを起点として定められたイスラム教徒の暦です。 この暦は太陰暦を基にし、宗教行事や祭典の日取りを定める重要な役割を果たしています。 メディナ移住はムハンマドと初期の信徒たちにとって安全な拠点を確保する転機となり、イスラム共同体(ウマ)の基盤形成に寄与しました。 現在も多くのイスラム教国で公式または宗教的な場面でヒジュラ暦が使用されています。
622年 ヒジュラ暦 預言者ムハンマド
1054年

東西教会の分裂: カトリック教会の使節としてコンスタンディヌーポリを訪問していた枢機卿フンベルトが、正教会のコンスタンディヌーポリ総主教ミハイル1世とその同調者に対する破門状を聖堂の宝座に叩きつける。ミハイル1世もフンベルト一行を破門。(東西教会の相互破門)

カトリック教会と正教会が互いに破門し、東西教会が分裂した歴史的事件です。
西暦1054年7月16日に枢機卿フンベルトがコンスタンディヌーポリ総主教ミハイル1世に破門状を叩きつけたことを契機に、カトリック教会と正教会が相互破門を行いました。 この東西教会の分裂は、ローマ・カトリックと東方正教会という二大潮流を形成し、中世ヨーロッパの宗教文化的断絶の象徴となりました。 互いの教義や権威を巡る長年の対立が顕在化し、西ヨーロッパと東ヨーロッパの文化的隔たりを深める結果となりました。 分裂は十字軍やビザンツ帝国の衰退とも深く関わり、後世にわたる教会間対話の課題を生み出しました。 現代においても和解の試みが続けられている中、1054年の事件は両教会史における重大なターニングポイントとされています。
1054年 東西教会の分裂 カトリック教会 正教会 コンスタンディヌーポリ総主教 ミハイル1世 破門 東西教会の相互破門
1212年

レコンキスタ: アンダルシア州のナバス・デ・トロサで、イベリア半島のカトリック諸国と騎士修道会の連合軍がムワッヒド朝の軍を破る。(ナバス・デ・トロサの戦い)

スペインのナバス・デ・トロサで騎士修道会など連合軍がムワッヒド朝軍を破ったレコンキスタの大きな転機となる戦いです。
1212年7月16日にイベリア半島のキリスト教徒連合軍とムワッヒド朝のイスラム軍がナバス・デ・トロサで激突しました。 カスティーリャ、アラゴン、ナバラ王国などと騎士修道会が参加した連合軍は数的に劣勢ながらも決定的な勝利を収めました。 この戦いはレコンキスタの潮目を変える転換点となり、イスラム勢力の後退を加速させました。 以降、キリスト教勢力は南部への領土拡大を進め、1487年のグラナダ陥落へとつながっていきます。 中世ヨーロッパとイスラム文化の対立を象徴する重要な合戦です。
1212年 レコンキスタ アンダルシア州 ナバス・デ・トロサ イベリア半島 カトリック 騎士修道会 ムワッヒド朝 ナバス・デ・トロサの戦い
元仁元年6月28日

北条泰時が鎌倉幕府第3代執権に就任。

北条泰時が鎌倉幕府の第3代執権に就任し、幕府政治の安定化を図った日です。
1224年(元仁元年6月28日)、北条泰時が第3代執権に就任しました。 彼は御成敗式目の制定など法整備を進め、武家政権の基盤強化を図った人物です。 泰時の統治の下で鎌倉幕府は秩序を保ち、御家人の土地権利や訴訟制度を整備しました。 彼の施策は後の執権政治の礎となり、日本の中世法制史においても高く評価されています。 幕府内部の権力争いを抑え、武士階級の統一的な支配体制を確立した重要な節目です。
1224年 元仁 6月28日 北条泰時 鎌倉幕府 執権
1377年

イングランド王リチャード2世が戴冠。

イングランド王リチャード2世が戴冠した日で、中世後期の政治的動乱の幕開けとなりました。
1377年7月16日、10歳のリチャード2世が父エドワード3世の跡を継ぎ、ロンドン西ミンスター寺院で正式に王位に就きました。 幼少王政の中、摂政らが政務を担いつつ、リチャード自身も後に王権強化を試みます。 治世中は騎士階級との対立やワット・タイラーの乱など内政の混乱に見舞われました。 1399年にはいとこヘンリー・ボリングブルックによって廃位され、中世イングランド史における波乱の象徴となります。 この戴冠はイングランド王権の歴史における重要な節目として語り継がれています。
1377年 イングランド リチャード2世
天正10年6月27日

清洲会議が開かれ、羽柴秀吉が推す三法師(後の織田秀信)が織田信長の後継者に決まる。

信長死後の後継者争いを決する清洲会議で、羽柴秀吉が推す三法師が後継者に選ばれました。
1582年7月16日(天正10年6月27日)、織田信長の跡継ぎを巡る有力家臣の会議が清洲城下で開かれました。 この清洲会議では、羽柴秀吉が擁立した三法師(織田信長の孫で後の織田秀信)が後継者に決定されました。 会議を主導した秀吉は、この政治的勝利をもって織田家内での実権を掌握し、後の天下統一へとつなげていきます。 織田家家督問題に決着をつけた出来事として、日本戦国時代の転換点ともいわれています。 会議の結果がその後の勢力図を大きく変え、秀吉台頭の端緒となりました。
1582年 天正 6月27日 清洲会議 羽柴秀吉 織田秀信 織田信長
1661年

ストックホルム銀行が、世界初の国家の承認を受けた紙幣を発行する。

世界で初めて国家の承認を受けた紙幣がストックホルム銀行から発行されました。
1661年7月16日、スウェーデンのストックホルム銀行(ストックホルム・バンコ)は国家の信用保証を受けた紙幣を初めて発行しました。 従来の金銀貨に代わる新たな決済手段として導入され、商取引の効率化と金融システムの革新を促進しました。 紙幣発行は中央銀行機能の先駆けともいわれ、近代的な金融政策の原型を示す重要な転機でした。 しかし過度な発行は後にインフレを招き、経済的混乱をもたらす教訓も残しました。 今日の紙幣制度はこの17世紀の試みによって大きく影響を受けています。
1661年 ストックホルム銀行 紙幣
康熙22年6月22日

澎湖海戦が終結。清が鄭成功の鄭氏政権を破り、台湾を版図におさめる。

澎湖海戦で清が鄭成功の勢力を破り、台湾を正式に版図に加えました。
1683年7月16日(康熙22年6月22日)、清朝の海軍が鄭成功の子孫が治める鄭氏政権を澎湖諸島で撃破しました。 この澎湖海戦により、清は台湾支配の足場を確保し、その後の台湾統治を本格化させました。 鄭氏政権の敗北は中国沿海部における一元的支配を完成させる重要な一撃であり、海軍力の優位を示しました。 康熙帝は戦後、台湾を正式な省として編入し、行政区画の整備を進めました。 台湾史における大きな転換点であり、後の近代化への布石ともなりました。
1683年 康熙 6月22日 澎湖海戦 鄭成功 鄭氏政権 台湾
1779年

アメリカ独立戦争: ストーニーポイントの戦い。

アメリカ独立戦争中、アメリカ軍がストーニーポイント砦を奪取する夜襲を敢行しました。
1779年7月16日、アメリカ大陸軍のアンソニー・ウェイン将軍率いる部隊がニュージャージー州ストーニーポイント砦を奇襲攻撃しました。 激しい白兵戦の末、わずか30分余りでイギリス・ハンガー・ロイ連隊を撃退し砦を確保しました。 夜襲による大胆な作戦は士気を大いに高揚させ、独立戦争におけるアメリカ軍の戦術的可能性を示しました。 短期的な戦略的利益は限定的でしたが、植民地側の自信と連帯感を強化しました。 その後砦はイギリス軍に奪還されましたが、英雄的夜襲として語り継がれています。
1779年 アメリカ独立戦争 ストーニーポイントの戦い
1782年

モーツァルト作曲の歌劇『後宮からの誘拐(逃走)』がウィーンで初演される。

モーツァルトの歌劇『後宮からの誘拐(逃走)』がウィーンで初演されました。
1782年7月16日、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトのドイツ語歌劇『後宮からの誘拐(逃走)』(Die Entführung aus dem Serail)がウィーンのブルックナーハウスで初演されました。 この作品は異国情緒あふれる舞台と技巧的なアリアで聴衆を魅了し、モーツァルトのオペラ作曲家としての名声を確立しました。 台本は宮廷護衛に拘束されたヒロインを恋人が救出するコメディ調で、軽妙な音楽と深い人間描写が特徴です。 初演後すぐにヨーロッパ各地で上演され、モーツァルトの生前の人気を支えた代表作の一つとなりました。 今日でも世界中のオペラハウスで頻繁に上演され続けています。
1782年 モーツァルト 歌劇 後宮からの誘拐(逃走) ウィーン
1790年

アメリカ合衆国の新しい首都としてコロンビア特別区(現 ワシントンD.C.)を設置する首都立地法が発効。

アメリカ合衆国で首都を新設する法律が施行され、現在のワシントンD.C.となる地域が正式に首都に指定されました。
1790年7月16日にアメリカ議会は首都立地法(Residence Act)を発効させた。 これにより、メリーランド州とバージニア州からそれぞれ寄付された土地を合わせてコロンビア特別区が設置された。 首都立地法は首都の位置を国民の目から遠ざける意図と南部・北部の妥協の産物とされる。 1791年にピエール・チャールズ・ランファンが首都の都市設計を開始し、ワシントンD.C.の街づくりが進められた。 以後、ワシントンD.C.はアメリカの政治・行政の中心として発展を続けている。
1790年 ワシントンD.C. 首都立地法
1834年

第2代メルバーン子爵ウィリアム・ラムがイギリスの27代首相に就任。

第2代メルバーン子爵ウィリアム・ラムがイギリスの首相に就任し、メルバーン政権が始まりました。
1834年7月16日、ウィリアム・ラム(第2代メルバーン子爵)がイギリス国王ウィリアム4世により首相に任命された。 ラムは改革よりも穏健な保守主義を標榜し、メルバーン政治と呼ばれる政権を率いた。 メルバーン政権下では宗教改革や選挙制度改革などが議論されたが、下院での支持基盤に乏しかった。 就任からわずか数か月後、ラムは辞任に追い込まれ、短命政権に終わった。 メルバーン子爵はその後も政治家として活躍し、政治改革運動に影響を与えた。
1834年 第2代メルバーン子爵ウィリアム・ラム