1867年
ベニート・フアレスがメキシコの共和制への復帰を宣言。
1867年、メキシコのベニート・フアレス大統領が帝政から共和制への復帰を宣言しました。
1867年7月15日、メキシコのベニート・フアレス大統領が共和制復帰を宣言しました。
フランス帝政の影響下にあったマクシミリアン皇帝の統治が終焉し、メキシコは正式に帝政から共和制へ移行しました。
フアレスは自由主義改革を推進し、土地制度や教育制度の近代化を図りました。
この宣言により政体は安定し、メキシコの国家再建が本格化しました。
メキシコ史における民主主義確立の重要な転換点とされています。
1867年
ベニート・フアレス
メキシコ
共和制
1922年
日本共産党結成。
1922年7月15日、日本共産党が結成されました。
1922年7月15日、京都で日本共産党の結成大会が開かれ、党の創立が宣言されました。
日本初の本格的な共産主義政党として、マルクス・レーニン主義を掲げます。
政府は結成直後から取締りを強化し、活動は地下に潜ることを余儀なくされました。
戦後、合法政党として再結成されるなど、日本政治に一貫して影響を与えています。
国内外の社会主義運動と連携しながら、労働運動や平和運動にも関与しました。
1922年
日本共産党
1927年
オーストリアの首都ウィーンで社会主義者の抗議デモが暴動に発展。暴徒側77人、警官2人が死亡。
1927年7月15日、ウィーンでの社会主義者の抗議デモが暴動へ発展し、多数の死傷者が出ました。
1927年7月15日、オーストリア・ウィーンで労働者や社会主義者らによる抗議デモが行われました。
デモは激しい衝突に発展し、警官隊との間で市街戦の様相を呈しました。
暴徒側から77人、警官2人が死亡し、数百人が負傷する大惨事となりました。
この事件はオーストリア第一共和国の社会的緊張を象徴する出来事として位置付けられています。
後にヨーロッパ各地で政治的暴力が激化する伏線ともなりました。
1927年
オーストリア
ウィーン
社会主義者
暴動
1938年
日本政府が閣議で1940年に予定されていた夏季東京オリンピックおよび冬季札幌オリンピックの開催権返上を決定。
日中戦争の影響で1940年東京・札幌オリンピック開催権を日本政府が返上する決定。大会は実現しませんでした。
1936年に夏季五輪東京、冬季五輪札幌開催が決定しました。日中戦争の長期化により準備資金や施設整備が困難となり、近衛文麿内閣は1938年7月15日の閣議で正式に返上を決議しました。返上はIOCに通知され、大会の開催地再選考が行われましたが、戦争の拡大で最終的に中止となりました。戦後、東京は1964年、札幌は1972年にそれぞれオリンピックを開催し、返上から数十年を経て再び実現を果たしました。
1938年
閣議
1940年
夏季東京オリンピック
冬季札幌オリンピック
1948年
GHQが新聞社16社・通信社3社の事前検閲を廃止し、事後検閲に移行。
GHQが事前検閲を廃止し、新聞・通信社の事後検閲体制へ移行。言論の自由に重要な転換点となりました。
1948年7月15日にGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は、日本の新聞社16社と通信社3社に対する事前検閲を廃止しました。これまで原稿提出を義務付けていた体制を改め、出版後に問題があれば事後的に検閲を行う方式に変更しました。事後検閲の導入により、報道機関は一層自由な報道が可能となり、戦後民主主義の成熟に寄与しました。一方で、自主規制への転換やメディア倫理の整備も求められるようになりました。これを契機に日本のマスコミは多様化と活発な言論活動を迎えました。
1948年
GHQ
検閲
1948年
教育委員会法公布・施行。
教育委員会法が公布・施行され、地方教育行政の枠組みが整備されました。
1948年7月15日に教育委員会法が公布・施行され、日本の学校教育の管理・運営体制が大きく見直されました。法により都道府県・市町村に教育委員会が設置され、その構成や権限が明確化されました。教育委員会は教育方針の決定や教員人事、予算配分などを担当し、地域に即した教育行政を促進する仕組みを整備しました。また、教育の民主化や地域参画の観点から教育委員の公選制なども議論されました。以降、地方分権と教育の質向上を巡る課題が続いています。
教育委員会法
1950年
リトアニア・ソビエト社会主義共和国(LTSR)最高会議幹部会がLTSRの新国歌を制定し、クディルカ作詞・作曲の旧国歌を禁止。
リトアニアSSRが新国歌を制定し、独立時代の旧国歌を禁止。国家象徴がソ連体制下に一変しました。
1950年7月15日、リトアニア・ソビエト社会主義共和国(LTSR)の最高会議幹部会は新しい国歌を正式に制定しました。これにより、独立時代の作詞・作曲をクディルカが手がけた旧国歌「タウティシュカ・ギエスメ」は完全に禁止されました。新国歌はソ連体制を賛美する歌詞とメロディーを持ち、共産主義イデオロギーの浸透を図る象徴となりました。以後、リトアニアの公的行事や学校教育などで新国歌が使用され、旧国歌の復活はソビエト崩壊後まで実現しませんでした。
1950年
リトアニア・ソビエト社会主義共和国
最高会議
クディルカ
1953年
小額通貨の整理及び支払金の端数計算に関する法律が公布 ・施行。1954年1月1日以降、1円未満の貨幣・紙幣を無効とする。
小額通貨整理法が1953年7月15日に公布。
1954年1月1日から1円未満の通貨が無効となりました。
1953年7月15日、「小額通貨の整理及び支払金の端数計算に関する法律」が公布されました。
この法律は1954年1月1日以降、1円未満の貨幣や紙幣を無効とし、流通から除外することを定めています。
目的は日常取引における端数処理の簡素化と通貨管理の効率化にあります。
公布後は古い銅貨や紙幣の回収が行われ、金融機関や一般市民への周知活動が展開されました。
施行により会計処理の手間が軽減され、戦後経済の安定化にも寄与したとされています。
現在では、1円未満の通貨は法的に使用できず、日本の貨幣制度に大きな影響を与えました。
1953年
小額通貨の整理及び支払金の端数計算に関する法律
1954年
1月1日
円
1953年
ソ連・リトアニア共和国最高会議幹部会が、新国旗を制定。
1953年7月15日、リトアニア共和国の新たな国旗が制定。
ソ連構成共和国としてのシンボルが刷新されました。
1953年7月15日、ソビエト連邦構成共和国の一つであるリトアニア共和国最高会議幹部会は新国旗を制定しました。
新旗は赤地にソ連共通の鎌と槌を配し、黄色の字で共和国名が記されたデザインです。
これにより、リトアニア共和国の政治的地位とソ連への一体感を象徴する意図が示されました。
デザインの変更は、戦後のソ連内政策と各共和国の文化的統合政策の一環とされています。
この旗は以後、リトアニアが独立を回復する1990年まで使用されました。
当時の政治情勢や民族意識の絡む複雑な背景を反映した歴史的意義の大きい出来事です。
国旗
1954年
茨城県常陸太田市、石川県珠洲市、鹿児島県加世田市が市制施行。
茨城県常陸太田市、石川県珠洲市、鹿児島県加世田市が市制を施行し、正式に市となった。
1954年7月15日、茨城県常陸太田市、石川県珠洲市、鹿児島県加世田市の三市が同時に市制施行しました。
これによりそれぞれの地域は町から市へと昇格し、行政体制の強化が図られました。
常陸太田市は農業と工業が共存する地域、珠洲市は能登半島先端部の漁業と観光、加世田市は南薩摩の中心都市として発展してきました。
市制施行は人口や経済規模の発展を背景に行われ、都市基盤整備や自治体運営の拡充に寄与しました。
現在でもこれらの市は地域文化や産業を支える拠点として重要な役割を果たしています。
常陸太田市
珠洲市
加世田市
1955年
オットー・ハーン、マックス・ボルンら18人のノーベル賞受賞者が核兵器の使用中止を訴えるマイナウ宣言を発表。
ノーベル賞受賞者ら18人が核兵器使用の中止を訴えるマイナウ宣言を発表。
1955年7月15日、オットー・ハーンやマックス・ボルンなど18人のノーベル賞受賞者が「マイナウ宣言」を発表しました。
声明では核兵器の非人道性と破壊力を強調し、国際社会に対して使用中止と軍縮を訴えました。
発表はドイツのマイナウ島で行われ、科学者自身の経験と責任を踏まえた強いメッセージとされます。
この宣言は冷戦下の核競争に一石を投じ、核廃絶運動の先駆けとなった歴史的文書です。
その後、多くの科学者や市民団体が賛同を表明し、国際的な平和運動へと発展しました。
1955年
オットー・ハーン
マックス・ボルン
核兵器
マイナウ宣言
1958年
埼玉県与野市(現 さいたま市)・上尾市が市制施行。
埼玉県与野市と上尾市が市制施行し、新たに市として出発。
1958年7月15日、埼玉県与野市(現さいたま市)と上尾市が同時に市制を施行しました。
与野市はのちにさいたま市へ編入され、現在は浦和区・中央区の一部となっています。
上尾市は昭和の高度経済成長期に人口が増加し、都市基盤の整備が進展しました。
市制施行によりそれぞれ自治体としての権限と財源が拡充され、地域振興策が展開されました。
これらの出来事は埼玉県の都市化の一端を示す重要なターニングポイントです。
1958年
与野市
さいたま市
上尾市