1015年

ウラジーミル1世

(955 - 1015)

キエフ大公

キエフ大公
キエフ大公としてルーシを統治し、キリスト教を導入した11世紀の君主。
955年に生まれ、キエフ大公ヤロスラフの曾孫に当たるルーシの君主として即位した。ロシア正教会を受容し、基礎的な教会組織を整備した。領土拡大を通じてノヴゴロドやチェルニゴフを含む広域を支配下に置いた。ビザンツ皇帝コンスタンティノス7世と同盟を結び、ヨーロッパとの交流を図った。1015年に亡くなるまでルーシの黄金時代の礎を築き、その功績から「ウラジーミル大公」と称される。
1015年 ウラジーミル1世 キエフ大公 955年
1274年

ボナヴェントゥラ

神学者、枢機卿、フランシスコ会総長

神学者 枢機卿 フランシスコ会総長
フランシスコ会総長として教会改革を推進し、思想界に大きな影響を与えた神学者。
1221年頃にイタリアで生まれ、1243年にフランシスコ会へ入会した。アウグスティヌスの神学を継承しながらトマス・アクィナスと並ぶ中世最大の思想家として評価された。1257年にフランシスコ会総長に選出され、教会内の規律強化や修道生活の厳格化に取り組んだ。1273年には教皇グレゴリウス10世によって枢機卿に任命され、教会の政治・神学両面で重職を担った。1274年のリヨン公会議に参加し、定例的な教会会議の開催を制度化するきっかけを作った。死後、ローマ・カトリック教会の教父・教会博士として列聖された。
1274年 ボナヴェントゥラ 神学者 枢機卿 フランシスコ会 1221年
1291年

ルドルフ1世

(1218 - 1291)

神聖ローマ皇帝

神聖ローマ皇帝
ハプスブルク家の祖として、1273年に神聖ローマ皇帝に選出された君主。
1218年にシュヴァルツブルクで生まれ、ハプスブルク家の家督を継いだ。1273年の皇帝選出によりプファルツ選帝侯らとの妥協を通じて皇権を回復し、神聖ローマ帝国の内政を安定させた。1276年からオットカル2世との争いに勝利し、オーストリアやシュタイアーマルクを獲得して領土を拡大した。帝国内の諸侯と同盟を結び、ハプスブルク家の影響力基盤を築いた。1291年に没すると、以後600年にわたり覇権を握るハプスブルク朝の礎を築いたと評価される。
1291年 ルドルフ1世 1218年
1381年

ジョン・ボール

(1338 - 1381)

聖職者

聖職者
イングランド農民一揆で社会平等を訴え、演説を通じて民衆を鼓舞した聖職者。
1338年頃に生まれ、オックスフォード近郊で聖職者として活動を始めた。教会の富の集中や階級格差を批判する説教で知られ、聖職者としての立場を越えて民衆に支持された。1381年、農民一揆が発生するとロンドンで演説を行い「全ての人は平等である」と訴えた。一揆の指導者の一人として農民軍を鼓舞し、諸都市への攻撃を支持した。しかし王室軍に鎮圧され、素手で捕らえられた後、ロンドン塔で処刑された。
1381年 ジョン・ボール 聖職者
1544年

ルネ・ド・シャロン

(1519 - 1544)

オランジュ公

オランジュ公
スペイン帝国に仕え、若くしてオランジュ公位を継承したナッサウ家の貴族。
1519年にナッサウ=ブレダ伯へ生まれ、1530年に従兄弟の死によりオランジュ公位を相続した。シャルル5世の軍役制度に参加し、神聖ローマ帝国やスペインの軍事行動で指揮官として活躍した。戦功により皇帝から信任を受け、外交面でも重要な役割を果たした。1544年、フランスとの戦闘中に負傷し、同年7月15日に戦傷によって若くして没した。死後は後継者を残さず、後にオラニエ公位はウィリアム・ザ・サイレントに移ることとなった。
1544年 ルネ・ド・シャロン オランジュ公 1519年
元亀2年6月23日

島津貴久

(1514 - 1571)

薩摩国の戦国大名

薩摩国の戦国大名
薩摩国を治め、島津氏の基礎を築いた戦国大名。
1514年に薩摩国に生まれ、1536年に家督を継いで島津氏の当主となった。家臣団の統制強化や軍備拡張に努め、領国防衛と対外進出を進めた。大隅国や日向国南部まで勢力を広げ、九州南部における島津家の覇権を確立した。鉄砲の導入や港湾の整備を通じて経済力を高め、家中の安定化に成功した。1571年に隠居し、後を嫡子の義久に譲った後、同年に隠遁先で死去した。
1571年 元亀 6月23日 島津貴久 薩摩国 戦国大名 1514年
1609年

アンニーバレ・カラッチ

(1560 - 1609)

画家

画家
バロック絵画の先駆者として知られるイタリアの画家。
1560年にボローニャで生まれ、兄アゴスティーノや従兄弟ロドヴィコと共に絵画アカデミアを創設した。自然主義的な表現と古典的な構図を融合させ、ルネサンス以降の絵画様式を刷新した。代表作としてローマのファルネーゼ宮殿の天井画やカタコンベの装飾を手がけた。教会や貴族からの注文を数多く受け、ローマにおけるバロック芸術の発展に大きく寄与した。1609年にローマで没し、バロック絵画の重要な基盤を築いた。
1609年 アンニーバレ・カラッチ 画家 1560年
1655年

ジローラモ・ライナルディ

(1570 - 1655)

建築家

建築家
イタリア・バロック期に活躍した建築家。
1570年にボローニャで生まれ、建築家の家系に育って幼少期から技術を学んだ。ローマへ移り、パムフィリ宮殿やサン・ルイージ・デイ・フランチェージ教会の設計を手がけ、古典とバロックを融合した様式を確立した。内装の装飾やファサードのデザインにおいて優れた力量を発揮し、一族で共同作業を行うことで規模の大きなプロジェクトを実現した。息子カルロ・ライナルディと共に活動し、ローマ建築の発展に大きく貢献した。1655年に没し、後世の建築家に影響を与え続けた。
1655年 ジローラモ・ライナルディ 英語版 1570年
1685年

ジェイムズ・スコット

(1649 - 1685)

モンマス公、バクルー公

モンマス公 バクルー公
チャールズ2世の庶子として生まれ、モンマスの乱を率いた軍事指導者。
1649年にイングランド王チャールズ2世の庶子として生まれた。オランダで軍事訓練を積み、1663年にバクルー公位を与えられる。1685年、カトリック教徒のジェームズ2世即位に反発し、南西イングランドで反乱軍を組織した。一揆軍を率いてサマーセットなどを制圧したが、セジムーアの戦いで王軍に敗北した。捕らえられた後、ロンドン塔で処刑され、その死は名誉革命へとつながる動きに影響を与えた。
1685年 ジェイムズ・スコット モンマス公 バクルー公 1649年
1765年

シャルル=アンドレ・ヴァン・ロー

(1705 - 1765)

画家

画家
ロココ様式を代表するフランス宮廷画家。
1705年にニースで生まれ、父ジャン=バティスト・ヴァン・ローの影響を受けて美術を学んだ。ローマ留学を経て古典的技法を修得し、アカデミー・ロワイヤル・ド・ペインティングに入会した。ルイ15世の宮廷画家として宮殿や聖堂の壁画、神話や宗教画を手がけた。優雅で繊細なロココ調の画風は貴族階級に好まれ、多くの肖像画でも高い評価を得た。1765年にパリで没し、ロココ美術の発展に大きな足跡を残した。
1765年 シャルル=アンドレ・ヴァン・ロー 1705年
明和8年6月4日

徳川宗武

(1716 - 1771)

徳川吉宗の次男、田安徳川家始祖

徳川吉宗の次男 田安徳川家始祖
江戸時代の大名で、徳川吉宗の次男として生まれ、田安徳川家の初代当主を務めた。
1716年、8代将軍・徳川吉宗の次男として江戸で生まれる。 田安徳川家の初代当主として家督を継承。 幕臣として旗本領の運営に携わる。 学問や文化を好み、家中の教育にも力を注いだ。 1771年7月15日に55歳で死去した。
1771年 明和 6月4日 徳川宗武 徳川吉宗 田安徳川家 1716年
1778年

ジェームズ・タウンリー

(1714 - 1778)

劇作家

劇作家
18世紀イギリスで活躍した劇作家。市井の風俗を題材にした喜劇を数多く残した。
1714年、イギリスに生まれる。 18世紀半ばに劇作家として活動を始め、市井を題材にした喜劇を多数執筆。 作品はロンドンの劇場で上演され、当時の社会風俗を軽妙な語り口で描き出した。 喜劇作品は幅広い層に支持され、演劇界に新風を吹き込んだ。 1778年7月15日に没し、イギリス演劇史に名を残した。
1778年 ジェームズ・タウンリー 英語版 1714年