仁治3年6月15日

北条泰時の死去に伴い、孫の北条経時が鎌倉幕府第4代執権に就任。

北条泰時の没後、孫の経時が第4代執権に就き、幕府政治に新たな時代が訪れました。
1242年6月、3代執権北条泰時が逝去し、孫にあたる北条経時が4代執権を継承しました。泰時は御成敗式目の制定など幕府法制の整備を進めたことで知られ、経時の継承は泰時の業績を受け継ぐことが期待されました。経時は執権として院政や貴族勢力との調整に努め、幕府の安定化と武家的統治体制のさらなる確立を図りました。この政権移行は鎌倉幕府の継続的な権力基盤を支え、武家政治の成熟に大きな影響を与えました。経時政権はその後の幕府内の勢力均衡にも影響を及ぼしました。
1242年 仁治 6月15日 北条泰時 北条経時 鎌倉幕府 執権
1223年

フランス国王フィリップ2世が死去。長男のルイ8世が国王に即位。

フランス王フィリップ2世が崩御し、長男ルイ8世が王位を継承した歴史的転換。
1223年7月、カペー朝の国王フィリップ2世が逝去しました。彼は領土拡大や王権強化を進め、フランス王権の基礎を築いたことで知られています。後を受けた長男ルイ8世は即位後、父の政策を継承しつつも南部の貴族との対立に直面しました。王位継承は王権安定の証として国内外に大きな注目を集め、フランス中世王権史における重要な節目となりました。この王位交代はフランス国内の政治変動にも影響を与えました。
1223年 フランス フィリップ2世 ルイ8世
1789年

フランス革命: パリの民衆がバスティーユ牢獄を襲撃・占領、政治犯を解放。フランス革命の勃発。

パリ市民がバスティーユ牢獄を襲撃し、政治犯を解放。革命の象徴となった出来事。
1789年7月14日未明、パリ市民は絶対王政の象徴とされたバスティーユ牢獄を襲撃・占領し、政治犯を解放しました。この蜂起は財政危機と食糧不足に苦しむ人々の不満が爆発したもので、革命の火ぶたを切る契機となりました。フランス全土に自由と平等を求める運動が波及し、封建的特権の廃止や人権宣言の採択へとつながりました。バスティーユ襲撃は現在のフランス革命記念日の由来となり、共和国の成立と近代民主主義の礎を築いた歴史的転換点です。市民蜂起の熱狂はヨーロッパ各地に衝撃を与え、その後の革命運動に大きな影響を残しました。
1789年 フランス革命 パリ バスティーユ牢獄 襲撃・占領 フランス革命
1790年

フランスで連盟祭開催。ルイ16世が憲法への忠誠を誓う。現在の建国記念日(パリ祭)はバスティーユ襲撃ではなくこの連盟祭を記念している。

ルイ16世が憲法への忠誠を誓い、一致団結を祝した連盟祭が開催。
1790年7月14日、フランス国王ルイ16世は国民議会が制定した憲法への忠誠を示すため、パリのシャン・ド・マルスで盛大な連盟祭を開催しました。全国から市民と兵士が集結し、王と市民が握手を交わす場面は王権と人民の和解を象徴しました。この式典は「人民主権」の理念を具現化し、自由と平等を祝福する祝典として位置づけられます。現在のフランス建国記念日(パリ祭)は、この連盟祭を記念しており、フランス人にとって重要な国民の休日です。この祝典は革命の理念を祝う文化的行事として今日まで受け継がれています。
1790年 連盟祭 フランス語版 ルイ16世
1804年

ナポレオン・ボナパルトが、廃兵院にて初のレジオンドヌール勲章授与を行う。

ナポレオンがレジオンドヌール勲章を初授与し、栄誉制度を確立。
1804年7月14日、ナポレオン・ボナパルトはパリの廃兵院でレジオンドヌール勲章を初めて授与しました。この制度は革命の功労者を顕彰するために創設され、軍人や文民に栄誉を与える新しい勲章制度として設計されました。授与式には帝政成立直前の高揚感が漂い、ナポレオンの統治理念と栄誉意識を象徴しました。レジオンドヌールは現在まで続くフランスの名誉勲章制度となり、その栄誉は世界的にも高く評価されています。この勲章制度は後に各国にも模倣されるなど、国際栄誉制度に大きな影響を与えました。
1804年 ナポレオン・ボナパルト 廃兵院 レジオンドヌール勲章
天保14年6月17日

新潟が天領とされて新潟奉行が設置され、川村修就が任命される。

新潟が天領となり、奉行設置で幕府直轄地として統治が強化。
1843年6月17日、幕府は新潟一帯を天領と定め、新たに新潟奉行を設置しました。初代奉行には川村修就が任命され、港湾管理や交易促進、防備体制の整備を担当しました。この措置は北前船による日本海交易の中心地としての新潟の重要性を反映しており、幕府直轄地として経済・治安の統制が図られました。奉行所の設置は地域発展の契機となり、後の新潟開港と近代化への足掛かりを作りました。以後、新潟は日本海沿岸の要所として飛躍的に発展しました。
1843年 天保 6月17日 新潟 天領 新潟奉行 川村修就
慶応3年6月13日

浦上四番崩れ。長崎奉行がキリシタン68人を捕える。

慶応3年6月13日(1867年7月14日)、浦上四番崩れで68人のキリシタンが長崎奉行所に捕えられました。 幕末の禁教政策を象徴する弾圧です。
浦上村(現在の長崎市)には多くの潜伏キリシタンが暮らしていました。 当時の幕府は禁教令を強化し、長崎奉行所は集団検挙を敢行。 68人の信徒が捕縛され、国外追放や投獄など過酷な処遇を受けました。 この事件はキリシタン迫害の最高潮を示し、信仰の自由をめぐる歴史的教訓となりました。 後の明治政府でも宗教政策の転換に影響を与えました。
慶応 6月13日 浦上四番崩れ 長崎奉行
1889年

パリで第二インターナショナルが結成される。

1889年7月14日、パリで社会主義者たちが集い第二インターナショナルを結成しました。
第二インターナショナルは労働者の国際連帯を目指す組織として発足。 マルクス主義を政治運動の基盤とし、各国の社会主義政党が参加。 結成総会では労働時間短縮や女性参政権など多くの議題が採択されました。 第一次世界大戦前の欧州労働運動を牽引する存在となりました。 対立や分裂を経ながらも、国際的運動の礎を築いた歴史的組織です。
1889年 第二インターナショナル
1908年

日本で桂太郎が第13代内閣総理大臣に就任し、第2次桂内閣が発足。

1908年7月14日、桂太郎が第13代内閣総理大臣に就任し、第2次桂内閣が発足しました。
桂太郎は長州藩出身の軍人・政治家で、3度にわたり首相を務めました。 1908年の就任は日露戦後の政局安定を図る目的がありました。 第2次桂内閣では財政再建と軍備拡張が主要課題とされました。 政党内閣の先駆けとしても注目され、日本の政党政治の発展に影響を与えました。 当時の政権運営は後の大正デモクラシー期への布石ともなりました。
1908年 桂太郎 内閣総理大臣 第2次桂内閣
1909年

テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェークがドイツ帝国宰相に就任。

1909年7月14日、テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェークがドイツ帝国宰相に就任しました。
ベートマン・ホルヴェークはプロイセン貴族出身の政治家・弁護士。 宰相就任後、帝国議会との協調を図りながら社会政策や軍備増強に取り組みました。 第一次世界大戦前夜の複雑な国際情勢の中で指導力を発揮。 1914年に退陣するまでの在任期間はドイツ国内外の均衡を模索する時代でした。 その政治手腕は後のヴェルサイユ体制にも影響を残しました。
1909年 テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェーク ドイツ帝国宰相
1917年

ゲオルク・ミヒャエリスがドイツ帝国宰相に就任。

第一次世界大戦中の1917年、ベートマン=ホルヴェークの退陣を受け ゲオルク・ミヒャエリスがドイツ帝国宰相に就任した。
ゲオルク・ミヒャエリスは陸軍将校として知られ、政治経験は浅かったものの、共和派や議会からの信任を受けて宰相に任命された。 彼は1917年7月14日、議会の支持を得てドイツ帝国宰相に就任した。 しかし、その在任期間は数ヶ月にとどまり、内外の政治的混乱に対応し切れなかった。 ミヒャエリスの政権は議会と軍部の対立を反映し、戦時体制下のドイツ政治の難しさを示した。 退陣後、後任にはパウル・フォン・ベイトマン=ホルヴェークが就任している。
1917年 ゲオルク・ミヒャエリス
1933年

強制的同一化: ドイツでナチ党以外の政治政党が禁止される。

ナチス・ドイツによる「強制的同一化」が進められ、他党の活動が禁止された。
1933年7月14日、ナチ党はドイツ国内で他のすべての政治政党の活動禁止を法制化した。 この措置は「強制的同一化(Gleichschaltung)」政策の一環として行われ、議会制民主主義を解体するものだった。 社会民主党や共産党など主要野党は解党を余儀なくされ、多くの党員が逮捕・弾圧を受けた。 この政令によりナチ党は政治独裁体制を確立し、反対勢力を完全に排除する道を開いた。 結果としてドイツは一党支配の全体主義国家へと急速に移行していった。
1933年 強制的同一化 ドイツ ナチ党