至徳元載/聖武元年6月13日
安史の乱: 安禄山らの蜂起により唐の皇帝玄宗が楊貴妃を伴って都落ち。
安禄山らの反乱が唐の都を揺るがし、玄宗皇帝が楊貴妃を伴って長安を去った緊迫の瞬間。
756年、安禄山と史思明の反乱により唐の中央権力は大きな打撃を受けました。反乱軍の進撃におびえた玄宗皇帝は愛妃の楊貴妃を伴い長安を脱出し、都は一時的に混乱に陥ります。この出来事は安史の乱の始まりとなり、以後の唐王朝の衰退を決定づけた歴史的転換点です。宮廷や民衆の苦悩、政治的混乱が広がり、中国史における大規模内乱の代表例として知られています。玄宗と楊貴妃の悲劇的な逃避行は後世の文学や芸術にも多大な影響を与えました。
756年
至徳
聖武
6月13日
安史の乱
安禄山
唐
玄宗
楊貴妃
延暦13年6月13日
桓武天皇の命を受けた坂上田村麻呂が蝦夷征討に出発。
桓武天皇の勅命で坂上田村麻呂が東北の蝦夷征討に向かった重要な出発点。
794年6月、平安京への遷都後間もなく蝦夷討伐の先鋒として坂上田村麻呂が東北地方へ出陣しました。命を下した桓武天皇の狙いは未開の地と見なされた北方勢力の制圧と中央政権の安定でした。田村麻呂は蝦夷の首長であるアテルイを相手に巧緻な戦術を駆使し、後の征夷大将軍の源流とも言える存在となります。この遠征は律令国家の影響を日本海側まで拡大し、東北地方の統治強化につながりました。この功績により坂上田村麻呂は朝廷から厚い信任を得ました。
794年
延暦
6月13日
桓武天皇
坂上田村麻呂
仁治3年6月15日
北条泰時の死去に伴い、孫の北条経時が鎌倉幕府第4代執権に就任。
北条泰時の没後、孫の経時が第4代執権に就き、幕府政治に新たな時代が訪れました。
1242年6月、3代執権北条泰時が逝去し、孫にあたる北条経時が4代執権を継承しました。泰時は御成敗式目の制定など幕府法制の整備を進めたことで知られ、経時の継承は泰時の業績を受け継ぐことが期待されました。経時は執権として院政や貴族勢力との調整に努め、幕府の安定化と武家的統治体制のさらなる確立を図りました。この政権移行は鎌倉幕府の継続的な権力基盤を支え、武家政治の成熟に大きな影響を与えました。経時政権はその後の幕府内の勢力均衡にも影響を及ぼしました。
1242年
仁治
6月15日
北条泰時
北条経時
鎌倉幕府
執権
1223年
フランス国王フィリップ2世が死去。長男のルイ8世が国王に即位。
フランス王フィリップ2世が崩御し、長男ルイ8世が王位を継承した歴史的転換。
1223年7月、カペー朝の国王フィリップ2世が逝去しました。彼は領土拡大や王権強化を進め、フランス王権の基礎を築いたことで知られています。後を受けた長男ルイ8世は即位後、父の政策を継承しつつも南部の貴族との対立に直面しました。王位継承は王権安定の証として国内外に大きな注目を集め、フランス中世王権史における重要な節目となりました。この王位交代はフランス国内の政治変動にも影響を与えました。
1223年
フランス
フィリップ2世
ルイ8世
1789年
フランス革命: パリの民衆がバスティーユ牢獄を襲撃・占領、政治犯を解放。フランス革命の勃発。
パリ市民がバスティーユ牢獄を襲撃し、政治犯を解放。革命の象徴となった出来事。
1789年7月14日未明、パリ市民は絶対王政の象徴とされたバスティーユ牢獄を襲撃・占領し、政治犯を解放しました。この蜂起は財政危機と食糧不足に苦しむ人々の不満が爆発したもので、革命の火ぶたを切る契機となりました。フランス全土に自由と平等を求める運動が波及し、封建的特権の廃止や人権宣言の採択へとつながりました。バスティーユ襲撃は現在のフランス革命記念日の由来となり、共和国の成立と近代民主主義の礎を築いた歴史的転換点です。市民蜂起の熱狂はヨーロッパ各地に衝撃を与え、その後の革命運動に大きな影響を残しました。
1789年
フランス革命
パリ
バスティーユ牢獄
襲撃・占領
フランス革命
1790年
フランスで連盟祭開催。ルイ16世が憲法への忠誠を誓う。現在の建国記念日(パリ祭)はバスティーユ襲撃ではなくこの連盟祭を記念している。
ルイ16世が憲法への忠誠を誓い、一致団結を祝した連盟祭が開催。
1790年7月14日、フランス国王ルイ16世は国民議会が制定した憲法への忠誠を示すため、パリのシャン・ド・マルスで盛大な連盟祭を開催しました。全国から市民と兵士が集結し、王と市民が握手を交わす場面は王権と人民の和解を象徴しました。この式典は「人民主権」の理念を具現化し、自由と平等を祝福する祝典として位置づけられます。現在のフランス建国記念日(パリ祭)は、この連盟祭を記念しており、フランス人にとって重要な国民の休日です。この祝典は革命の理念を祝う文化的行事として今日まで受け継がれています。
1790年
連盟祭
フランス語版
ルイ16世
1795年
「ラ・マルセイエーズ」がフランスの国歌となる。 聴く
革命の熱気を歌い上げる「ラ・マルセイエーズ」が国歌に正式採用。
1795年7月14日、フランス革命期に作られた行進曲「ラ・マルセイエーズ」が国民公会の決議により正式に国歌として採用されました。作詞はクロード・ジョセフ・ルジェ・ド・リールが行い、革命戦士の決意と自由への渇望を力強く歌い上げています。新生共和国の象徴となったこの歌は、軍歌としても広く歌われ、後世にわたりフランス国民のアイデンティティを体現する存在となりました。現在も国家行事や国際大会で演奏されるなど、国歌の定番として世界に知られています。その旋律は多くの国で行進曲としても採用されるほど影響力を持ちました。
1795年
ラ・マルセイエーズ
聴く
1804年
ナポレオン・ボナパルトが、廃兵院にて初のレジオンドヌール勲章授与を行う。
ナポレオンがレジオンドヌール勲章を初授与し、栄誉制度を確立。
1804年7月14日、ナポレオン・ボナパルトはパリの廃兵院でレジオンドヌール勲章を初めて授与しました。この制度は革命の功労者を顕彰するために創設され、軍人や文民に栄誉を与える新しい勲章制度として設計されました。授与式には帝政成立直前の高揚感が漂い、ナポレオンの統治理念と栄誉意識を象徴しました。レジオンドヌールは現在まで続くフランスの名誉勲章制度となり、その栄誉は世界的にも高く評価されています。この勲章制度は後に各国にも模倣されるなど、国際栄誉制度に大きな影響を与えました。
1804年
ナポレオン・ボナパルト
廃兵院
レジオンドヌール勲章
天保14年6月17日
新潟が天領とされて新潟奉行が設置され、川村修就が任命される。
新潟が天領となり、奉行設置で幕府直轄地として統治が強化。
1843年6月17日、幕府は新潟一帯を天領と定め、新たに新潟奉行を設置しました。初代奉行には川村修就が任命され、港湾管理や交易促進、防備体制の整備を担当しました。この措置は北前船による日本海交易の中心地としての新潟の重要性を反映しており、幕府直轄地として経済・治安の統制が図られました。奉行所の設置は地域発展の契機となり、後の新潟開港と近代化への足掛かりを作りました。以後、新潟は日本海沿岸の要所として飛躍的に発展しました。
1843年
天保
6月17日
新潟
天領
新潟奉行
川村修就
1853年
ニューヨーク万国博覧会開幕、会期は翌年の11月1日まで。
ニューヨーク万国博覧会が開幕し、世界の技術・産業が集結。
1853年7月14日、ニューヨーク市で万国博覧会が開幕しました。会場には工業製品、新技術、芸術作品が展示され、国際的な交流と商業の発展が図られました。博覧会は翌年11月1日まで開催され、来場者は最新の蒸気機関や織機、ハンドメイドの工芸品などを目にしました。アメリカの産業力をアピールするとともに、各国の技術革新が相互に影響を与える場となり、近代化の潮流を加速させました。この博覧会は後の世界各地での万国博覧会開催の先駆けとして評価されています。
ニューヨーク万国博覧会
11月1日
1865年
マッターホルンがエドワード・ウィンパーらにより初登頂。
1865年7月14日、エドワード・ウィンパーらによってマッターホルンが初登頂されました。
アルプスの尖峰を制した冒険は多くの登山家に影響を与えました。
マッターホルンはアルプス山脈の中でも最も険しい峰のひとつとされていました。
1865年7月14日、イギリス人登山家エドワード・ウィンパーを中心とする7人のパーティが山頂に到達。
初登頂は成功でしたが、下山時にロープが切れて4名が滑落する事故も発生しました。
この事件は登山史における大きな出来事となり、アルプス登山の黎明期を象徴するものとなりました。
以降、マッターホルンは登山家にとって永遠の挑戦の場となりました。
1865年
マッターホルン
エドワード・ウィンパー
1867年
アルフレッド・ノーベルがダイナマイトを発表。
1867年7月14日、アルフレッド・ノーベルが安定した爆薬「ダイナマイト」を発表しました。
土木工事や鉱山開発に革命をもたらす発明です。
ダイナマイトは硝酸グリセリンを珪藻土で吸収させた爆薬で、従来の爆薬より安全に扱えました。
ノーベルは1867年にスウェーデンでこの発明を特許登録。
発明後はヨーロッパ各地で採掘や土木工事に急速に普及しました。
また、軍事目的にも応用され、後の武器技術にも影響を与えました。
ノーベルは戦争の恐怖を目の当たりにし、遺言で平和賞創設を遺しました。
1867年
アルフレッド・ノーベル
ダイナマイト