寛和2年6月23日

花山天皇が近習らとともに清涼殿から失踪。

寛和2年、花山天皇が突然清涼殿から姿を消し、その背景には院政の混乱や権力闘争があったと言われています。
寛和2年(986年)6月23日、花山天皇は清涼殿より忽然と姿を消しました。 一説には院政を巡る摂関家や地方貴族との対立が原因とされ、その後比叡山に入山したと伝えられます。 僧侶となって仏道修行に専念した花山天皇は、短い在位期間ながら後の院政の先駆けとも言われます。 当時の記録は限られるものの、皇室内部の権力構造や貴族社会の緊張を示す重要な事件です。 この失踪事件は、平安時代中期の政治動向を考える上で欠かせない歴史的謎となっています。
986年 寛和 6月23日 花山天皇
観応3年6月2日

光厳上皇・光明上皇・崇光上皇・直仁親王、奈良県の賀名生に拉致される。

観応3年、南北朝時代の複雑な政争の中で、複数の上皇と王族が奈良・賀名生に拉致される事件が発生しました。
1352年6月2日(観応3年)、南北朝時代の内紛「観応の擾乱」に伴い、光厳上皇、光明上皇、崇光上皇、直仁親王らが奈良県賀名生まで連れ去られました。 足利尊氏と弟直義の対立から発生した政争の一環で、皇位継承権を持つ人物が政争の具とされた例です。 賀名生は当時の貴族や皇族を隔離する拠点として利用され、上皇や王族の拘禁状態が続きました。 この事件は南北朝時代の皇室と武家勢力の微妙な力関係を象徴し、以降の朝廷政治に大きな影響を与えました。 現在も当時の史料が断片的に残り、研究者によって多角的な解釈が行われています。
1352年 観応 6月2日 光厳上皇 光明上皇 崇光上皇 直仁親王 奈良県 賀名生
1765年

ロッキンガム侯チャールズ・ワトソン=ウェントワースが第9代イギリス首相に就任。

1765年、ロッキンガム侯ことチャールズ・ワトソン=ウェントワースがイギリスの首相に就任しました。
チャールズ・ワトソン=ウェントワースは1765年7月13日、初代ノースブリッジ公爵ジョージ・グレンヴィルの後を受けて第9代イギリス首相に就任しました。 彼は穏健派として知られ、特に北米植民地の反発を鎮めるために印紙法の撤廃を決定し、両大陸間の緊張緩和を図りました。 農業改革やインド会社の運営見直しにも着手し、短期間の在任ながらも影響力を発揮しました。 しかし政治的支持基盤の脆弱さから在職期間はおよそ1年に満たず、後任に権力を譲ることとなりました。 彼の政策はアメリカ独立戦争前夜の英国内政に一定の安定をもたらし、後の政治動向に示唆を残しました。
1765年 チャールズ・ワトソン=ウェントワース イギリス首相
1787年

アメリカ合衆国連合会議で北西部領土の統治方法を定めた北西部条例が可決。

1787年、アメリカ連合会議で北西部領土の統治を定める北西部条例が可決し、新州形成の枠組みが整いました。
北西部条例は憲法制定前の連合会議で採択され、オハイオ川以北の領域における自治制度と州昇格の計画を規定しました。 25000人以上の白人男性入植者が居住することで議会加盟を申請できる州形成のプロセスが明確化されました。 また、条文には公教育の設立や民権保護に関する条項が盛り込まれ、検証可能な統治モデルを提示しました。 特筆すべきは奴隷制禁止条項であり、後の南北戦争前夜まで続く奴隷制問題への最初の制度的介入となりました。 この条例はアメリカ西部開拓と州拡大の基礎を築き、連邦主義の理念を具体化した歴史的文書です。
1787年 アメリカ合衆国 連合会議 北西部領土 北西部条例
1837年

ヴィクトリア英女王がバッキンガム宮殿に移り住む。これ以降バッキンガムが英王室の常住の場となる。

1837年、在位間もないヴィクトリア女王が公式にバッキンガム宮殿を王室の常住宮殿としました。
1837年7月13日、即位したばかりのヴィクトリア女王はバッキンガム宮殿に移り、以後ロイヤルファミリーの主要居所と定めました。 宮殿はジョージ4世以来の改装を経て、公式儀式や執務、各国賓客との謁見が行われる中心拠点となりました。 バッキンガム宮殿の常用化は王室権威の象徴性を高め、ヴィクトリア朝時代の華やかな宮廷文化を支えました。 女王はここで長く公務を行い、宮殿は世界中に知られる英国王室の象徴的建築物として定着しました。 今日でも衛兵交代式や公式行事を通じて、多くの観光客を魅了し続ける歴史的名所です。
1837年 ヴィクトリア英女王 バッキンガム宮殿
元治元年6月10日

明保野亭事件。

幕末京都で起きた尊攘派志士と幕府警備隊の衝突事件。 水戸藩脱藩浪士らが集った明保野亭に襲撃が及んだ。
1864年6月10日、尊王攘夷を掲げた水戸脱藩浪士らが宴会を開いていた京都の明保野亭に、幕府側の警備隊が突然襲撃。 数名が討ち取られるか負傷し、幕末の政治対立が激化。 襲撃を主導したのは京都見廻組や新選組とも伝えられる。 事件は翌月の禁門の変へとつながり、幕府・公武合体派と攘夷派の対立を決定的にした。 幕末維新史における重要な転換点の一つとして知られる。
1864年 元治 6月10日 明保野亭事件
慶応3年6月12日

坂本龍馬が『船中八策』を著す。

1867年、坂本龍馬が航海中に明治維新後の国家像を示す政策提言『船中八策』を起草。
1867年7月13日、坂本龍馬が土佐藩下士として長崎へ向かう海上で、幕末日本の改革案『船中八策』を作成。 8条にわたる政体改革、議会設置、内閣設置などの具体案を示し、欧米列強に対抗する近代国家像を提示。 この提言は薩長同盟や大政奉還への道を開く思想的背景となった。 当時の政治状況を踏まえた実践的な構想であり、維新の原動力の一つとされる。 現在も政治改革論の先駆けとして評価される重要文書。
1867年 慶応 6月12日 坂本龍馬 船中八策
1870年

普仏戦争の原因となったエムス電報事件が起こる。

1870年、ビスマルクが公表した改ざん電報がフランスの激怒を招き、普仏戦争勃発の緒となった。
1870年7月13日、プロイセン王ヴィルヘルム1世とフランス大使の会話を伝えるエムス電報を、ビスマルク首相が意図的に編集。 電報はフランスへの侮辱的な表現を含む形で公表され、世論を煽る。 激怒したフランスはプロイセンに宣戦布告し、普仏戦争が勃発。 戦争はドイツ統一の契機となり、ヨーロッパ勢力図を一変させた。 ビスマルクの巧妙な外交策略として歴史に残る事件。
1870年 普仏戦争 エムス電報事件
1878年

露土戦争の講和条約であるベルリン条約が締結。

1878年、露土戦争を終結させたベルリン会議での講和条約が締結。
1878年7月13日、露土戦争を終結させるためベルリン会議で調印。 ロシアは獲得した領土の一部返還を認め、バルカン半島の諸国に自治権を付与。 オスマン帝国は欧州領土を縮小し、列強の関与が深まる。 条約はヨーロッパ列強の勢力均衡を再編し、バルカン民族運動の契機となった。 後の第一次世界大戦への伏線とされる複雑な外交交渉の成果。
1878年 露土戦争 ベルリン条約
1893年

パークナム事件。

1893年、朝鮮朴南(パークナム)で日本公使館員らが襲撃された外交摩擦事件。
1893年7月13日、朝鮮・朴南で日本公使館関係者が地元民に襲撃されるパークナム事件が発生。 襲撃の背景には朝鮮国内の反日感情と外交権をめぐる混乱があった。 事件を受けて日本政府は朝鮮王室に抗議し、賠償と治安維持を要求。 両国間の緊張が高まり、朝鮮半島への日本の影響力拡大を正当化する契機となった。 近代東アジア外交史における重要な一幕。
1893年 パークナム事件
1911年

第3次日英同盟協約締結。

1911年、日英同盟の第3次協約が締結され、両国関係が更に強化。
1911年7月13日、日本とイギリスは第三次日英同盟協約に調印。 同盟期間を延長し、協約条項を一部改定して相互防衛義務を維持。 この協約は両国の信頼関係を深め、列強間の勢力均衡に寄与。 日露戦争後の日本の国際的地位向上を象徴し、東アジア政策にも影響を及ぼした。 第一次世界大戦期には同盟関係が連合国側で作用した。
1911年 日英同盟
1948年

優生保護法(現在の母体保護法)公布。

1948年、日本で優生保護法が公布され、後の母体保護法の前身となりました。
1948年7月13日、優生保護法が公布され、人為的に遺伝的に有害とされた障害者に対する強制的な不妊手術の制度が導入されました。 この法律は戦後の人口管理と国家主義的な背景を持ち、遺伝的健全性の維持を目的としていました。 後に国際的な批判を受け、1996年に母体保護法として名称変更・改正され、強制不妊の規定は撤廃されました。 現在では、日本における人権意識の変化と法制度の見直しの象徴的な出来事とされています。
1948年 母体保護法