貞観11年5月26日
貞観地震。(グレゴリオ暦換算、ユリウス暦7月9日)
869年、平安時代に発生した貞観地震は、東北地方を中心に大きな被害をもたらした大地震です。
869年5月26日(ユリウス暦7月9日)、陸奥・出羽を中心に大規模な地震が発生し、沿岸部には津波が押し寄せました。
古文書の記録によると、現在の宮城県や岩手県で甚大な被害を出し、死者や家屋の流失が多数報告されています。
地殻変動の規模はマグニチュード8前後と推定され、日本史上最も被害が大きかった地震の一つです。
当時の人々の生活に深刻な影響を与え、復興には長い年月を要しました。
近年の研究で、地震発生のメカニズムや津波跡の地層が明らかになり、災害史の貴重な資料として注目されています。
869年
貞観
貞観地震
グレゴリオ暦
7月9日
寛和2年6月23日
花山天皇が近習らとともに清涼殿から失踪。
寛和2年、花山天皇が突然清涼殿から姿を消し、その背景には院政の混乱や権力闘争があったと言われています。
寛和2年(986年)6月23日、花山天皇は清涼殿より忽然と姿を消しました。
一説には院政を巡る摂関家や地方貴族との対立が原因とされ、その後比叡山に入山したと伝えられます。
僧侶となって仏道修行に専念した花山天皇は、短い在位期間ながら後の院政の先駆けとも言われます。
当時の記録は限られるものの、皇室内部の権力構造や貴族社会の緊張を示す重要な事件です。
この失踪事件は、平安時代中期の政治動向を考える上で欠かせない歴史的謎となっています。
986年
寛和
6月23日
花山天皇
観応3年6月2日
光厳上皇・光明上皇・崇光上皇・直仁親王、奈良県の賀名生に拉致される。
観応3年、南北朝時代の複雑な政争の中で、複数の上皇と王族が奈良・賀名生に拉致される事件が発生しました。
1352年6月2日(観応3年)、南北朝時代の内紛「観応の擾乱」に伴い、光厳上皇、光明上皇、崇光上皇、直仁親王らが奈良県賀名生まで連れ去られました。
足利尊氏と弟直義の対立から発生した政争の一環で、皇位継承権を持つ人物が政争の具とされた例です。
賀名生は当時の貴族や皇族を隔離する拠点として利用され、上皇や王族の拘禁状態が続きました。
この事件は南北朝時代の皇室と武家勢力の微妙な力関係を象徴し、以降の朝廷政治に大きな影響を与えました。
現在も当時の史料が断片的に残り、研究者によって多角的な解釈が行われています。
1352年
観応
6月2日
光厳上皇
光明上皇
崇光上皇
直仁親王
奈良県
賀名生
1573年
八十年戦争: ハールレム攻城戦が終結。
1573年、オランダ独立戦争(八十年戦争)において、スペイン軍によるハールレム攻城戦が終結しました。
八十年戦争はスペイン領ネーデルラントの独立を目指す戦いであり、1572年12月から続いたハールレム攻城戦は約7か月にわたり行われました。
1573年7月13日、スペイン軍が攻略に成功し、市内は激しい包囲砲撃と市街戦で荒廃しました。
多くの市民が犠牲となり、市は略奪と火災に見舞われましたが、その抵抗はネーデルラント側の連帯感を高める契機ともなりました。
この戦いは後のユトレヒト同盟の成立や独立運動を加速させ、最終的にオランダ共和国誕生への道を開く重要な転機でした。
史跡や記念行事が通じて現在も当時の戦いの記憶が語り継がれています。
1573年
八十年戦争
ハールレム攻城戦
英語版
1643年
イングランド内戦: ラウンドウェイダウンの戦い。
イングランド内戦中の1643年、王党派と議会派が西イングランドで激突し、ラウンドウェイダウンの戦いが行われました。
1643年7月13日、イングランド内戦(ピューリタン革命)の一幕として西部地方で王党派と議会派が衝突しました。
指導者シーモア伯爵率いる王党派が、議会派軍を急襲し圧倒的勝利を収め、多数の捕虜を得ました。
この勝利により、チャールズ1世支持勢力は南西部の制圧を強化し、一時的に優位に立ちます。
一方で、戦闘の残酷さや深刻な戦死者数が報告され、当時の民間にも大きな衝撃を与えました。
ラウンドウェイダウンの戦いは内戦の激化を象徴し、最終的な王政復古までの長い混乱の序章となりました。
1643年
イングランド内戦
ラウンドウェイダウンの戦い
英語版
1765年
ロッキンガム侯チャールズ・ワトソン=ウェントワースが第9代イギリス首相に就任。
1765年、ロッキンガム侯ことチャールズ・ワトソン=ウェントワースがイギリスの首相に就任しました。
チャールズ・ワトソン=ウェントワースは1765年7月13日、初代ノースブリッジ公爵ジョージ・グレンヴィルの後を受けて第9代イギリス首相に就任しました。
彼は穏健派として知られ、特に北米植民地の反発を鎮めるために印紙法の撤廃を決定し、両大陸間の緊張緩和を図りました。
農業改革やインド会社の運営見直しにも着手し、短期間の在任ながらも影響力を発揮しました。
しかし政治的支持基盤の脆弱さから在職期間はおよそ1年に満たず、後任に権力を譲ることとなりました。
彼の政策はアメリカ独立戦争前夜の英国内政に一定の安定をもたらし、後の政治動向に示唆を残しました。
1765年
チャールズ・ワトソン=ウェントワース
イギリス首相
1772年
レゾリューション号およびアドヴェンチャー号がジェームズ・クック率いる2度目の太平洋探検のためプリマスを出港。
ジェームズ・クック率いる2度目の航海で、探検船レゾリューション号とアドヴェンチャー号がプリマスを出港しました。
1772年7月13日、ジェームズ・クック船長が率いる英国探検隊のレゾリューション号とアドヴェンチャー号がプリマス港を出帆しました。
この航海は科学的調査を目的とし、太平洋、南極海域、南太平洋の島々を調査しました。
コックはこれまで到達されたことのない南緯70度線近くまで航行し、南極大陸の存在を示唆する成果を残しました。
植物学者や天文学者、画家など専門家も同乗し、観測データや生物標本、地図の作成に貢献しました。
帰還後、航海記録は世界中で高い評価を受け、海洋探検の新たな地平を開いた歴史的業績となりました。
1772年
レゾリューション
アドヴェンチャー
ジェームズ・クック
太平洋
プリマス
1787年
アメリカ合衆国連合会議で北西部領土の統治方法を定めた北西部条例が可決。
1787年、アメリカ連合会議で北西部領土の統治を定める北西部条例が可決し、新州形成の枠組みが整いました。
北西部条例は憲法制定前の連合会議で採択され、オハイオ川以北の領域における自治制度と州昇格の計画を規定しました。
25000人以上の白人男性入植者が居住することで議会加盟を申請できる州形成のプロセスが明確化されました。
また、条文には公教育の設立や民権保護に関する条項が盛り込まれ、検証可能な統治モデルを提示しました。
特筆すべきは奴隷制禁止条項であり、後の南北戦争前夜まで続く奴隷制問題への最初の制度的介入となりました。
この条例はアメリカ西部開拓と州拡大の基礎を築き、連邦主義の理念を具体化した歴史的文書です。
1787年
アメリカ合衆国
連合会議
北西部領土
北西部条例
1837年
ヴィクトリア英女王がバッキンガム宮殿に移り住む。これ以降バッキンガムが英王室の常住の場となる。
1837年、在位間もないヴィクトリア女王が公式にバッキンガム宮殿を王室の常住宮殿としました。
1837年7月13日、即位したばかりのヴィクトリア女王はバッキンガム宮殿に移り、以後ロイヤルファミリーの主要居所と定めました。
宮殿はジョージ4世以来の改装を経て、公式儀式や執務、各国賓客との謁見が行われる中心拠点となりました。
バッキンガム宮殿の常用化は王室権威の象徴性を高め、ヴィクトリア朝時代の華やかな宮廷文化を支えました。
女王はここで長く公務を行い、宮殿は世界中に知られる英国王室の象徴的建築物として定着しました。
今日でも衛兵交代式や公式行事を通じて、多くの観光客を魅了し続ける歴史的名所です。
1837年
ヴィクトリア英女王
バッキンガム宮殿
1848年
ロンドンのターミナル駅ウォータールー駅が開業。
1848年、ロンドン南部に主要ターミナル駅ウォータールー駅が開業し、鉄道網の発展に寄与しました。
ロンドン・アンド・サウス・ウェスタン鉄道によって建設されたウォータールー駅は、1848年7月13日に乗客の受け入れを開始しました。
当初のターミナルビルはエレガントな鉄骨とガラス屋根で覆われ、都市南部と地方を結ぶ重要な結節点となりました。
開業当時は限定的な路線網でしたが、その後の拡張に伴いロンドン最大級の駅へ成長しました。
駅舎は数度の改築を経て、現在ではヨーロッパ大陸との国際列車や地下鉄路線との接続拠点としても機能しています。
近年では歴史的アーキテクチャ保全とモダン化の両立が図られ、市民と観光客に親しまれる鉄道ハブです。
1848年
ロンドン
ウォータールー駅
1863年
ニューヨーク徴兵暴動勃発。南北戦争中の米ニューヨークでアイルランド系移民の労働者が徴兵反対を訴える。
1863年7月13日、南北戦争下のニューヨークで起きた大規模徴兵反対暴動。
アイルランド系移民らが制度に反発し、市街で抗議活動を展開。
1863年7月13日、アメリカ南北戦争の徴兵制度に反発したアイルランド系移民の労働者らがニューヨーク市内で蜂起。
数日間にわたり市街地で略奪や放火が相次ぎ、死傷者が多数発生。
白人労働者層の経済的不満や人種差別意識が背景にあり、暴動は激化。
連邦政府は連邦軍を投入して鎮圧にあたり、戒厳令を布告。
この事件は戦時下の国内対立を浮き彫りにし、徴兵制度や市民権の在り方を問い直す契機となった。
1863年
ニューヨーク徴兵暴動
南北戦争
ニューヨーク
アイルランド
移民
徴兵
元治元年6月10日
明保野亭事件。
幕末京都で起きた尊攘派志士と幕府警備隊の衝突事件。
水戸藩脱藩浪士らが集った明保野亭に襲撃が及んだ。
1864年6月10日、尊王攘夷を掲げた水戸脱藩浪士らが宴会を開いていた京都の明保野亭に、幕府側の警備隊が突然襲撃。
数名が討ち取られるか負傷し、幕末の政治対立が激化。
襲撃を主導したのは京都見廻組や新選組とも伝えられる。
事件は翌月の禁門の変へとつながり、幕府・公武合体派と攘夷派の対立を決定的にした。
幕末維新史における重要な転換点の一つとして知られる。
1864年
元治
6月10日
明保野亭事件