1191年

第3回十字軍: アッコンが陥落し、2年に及ぶアッコン攻城戦が終結。

第3回十字軍の一環として行われたアッコン攻城戦が2年に及び、ついに都市が陥落した日です。
1191年7月12日、約2年間にわたって行われたアッコン攻城戦が終結し、都市アッコンが陥落しました。 アッコンは十字軍における重要な拠点であり、地中海貿易の要所として戦略的価値が高い都市でした。 聖地回復を目指す第3回十字軍にとって、この勝利は大きな成果とされました。 しかし、降伏条件を巡って十字軍内部で意見対立が起こり、イスラム勢力に対するその後の進撃は遅れました。 アッコンの陥落は十字軍国家の存続を一時的に安定させましたが、長期的には継続的な衝突を招く結果となりました。
1191年 第3回十字軍 アッコン アッコン攻城戦
嘉吉元年6月24日

嘉吉の乱: 播磨守護・赤松満祐が室町幕府将軍・足利義教を自邸に招き謀殺。

播磨守護・赤松満祐が室町幕府将軍・足利義教を謀殺した事件の発生日です。
1441年6月24日(嘉吉元年)、播磨守護の赤松満祐が将軍・足利義教を自邸に招いて謀殺しました。 足利義教は強権的な政治手法で幕府内外に反感を買っており、反乱の引き金となりました。 この事件は『嘉吉の乱』と呼ばれ、幕府権威の失墜を象徴する出来事とされています。 謀殺後、赤松満祐は京都での勢力拡大を図りましたが、幕府の反攻により最終的に討伐されました。 嘉吉の乱は室町幕府の混乱を招き、幕政の再編成を促す契機となりました。
1441年 嘉吉 6月24日 嘉吉の乱 赤松満祐 足利義教
ユリウス暦7月1日

ウィリアマイト戦争: ボイン川の戦い。

ウィリアマイト戦争の主要な戦闘、ボイン川の戦いが行われた日です。
1690年7月1日(ユリウス暦)、ウィリアマイト戦争におけるボイン川の戦いが起こりました。 ウィリアマイト派(ウィリアム3世支持)とヤコバイト派(ジェームズ2世支持)の軍が激突しました。 ウィリアム3世率いる軍勢が勝利を収め、イングランド王位を巡る争いの決定打となりました。 この戦いの結果、プロテスタントがアイルランドにおける支配を強化し、ヤコバイト勢力は後退しました。 ボイン川の戦いは英国王位継承問題の一端として欧州政治に大きな影響を与えました。
1690年 7月1日 ウィリアマイト戦争 ボイン川の戦い
1913年

第二革命開始。江西省で李烈鈞が袁世凱政権からの独立を宣言。

中国・江西省で李烈鈞が袁世凱政権からの独立を宣言し、第二革命が開始した日。
1913年7月12日、孫文らによる第二革命運動が本格化しました。 江西省で軍閥指揮官の李烈鈞が袁世凱政権への反発を示し、独立を宣言しました。 この動きは北洋政府による専制的な政治に対抗する試みとされます。 袁世凱は反乱鎮圧を図り、各地で激しい衝突が発生しました。 結果的に革命は失敗に終わりますが、中国近代史における政争の一幕となりました。
1913年 第二革命 江西省 李烈鈞 袁世凱
1917年

張勲復辟: 北京政府国務総理段祺瑞率いる討逆軍が張勲軍を破り北京に入城、溥儀が退位を宣言。

張勲復辟が失敗し、軍閥討逆軍が北京に入り、溥儀が退位を宣言した日。
1917年7月12日、張勲が清朝復辟を試みた張勲復辟のクーデターが終焉を迎えました。 北京政府の国務総理段祺瑞率いる討逆軍が張勲軍を破り、北京城に入城しました。 当時の皇帝溥儀は復位を断念し、退位を再度宣言して清朝復活の企ては頓挫しました。 この事件は共和制成立後も清朝派と共和派の対立が続いていたことを示す出来事です。 中国の政局混乱期における重要な転換点の一つとされています。
1917年 張勲復辟 北京政府 段祺瑞 張勲 北京 溥儀
1943年

第二次世界大戦・太平洋戦争: コロンバンガラ島沖海戦が行われる。

1943年7月12日に太平洋戦争の一環として行われたコロンバンガラ島沖の海戦です。
1943年7月12日、ソロモン諸島近海で日本海軍とアメリカ海軍の部隊が衝突。 日本軍は兵員補給を試みた輸送船団を護衛、米軍はこれを阻止するため迎撃戦を仕掛けました。 戦闘は夜間に及び、双方の艦艇が至近距離で砲撃や雷撃を交わしました。 結果的に日本軍は輸送船を失い、兵員輸送計画に大きな打撃を受けました。 戦況はソロモン方面作戦に影響を与え、連合軍の制海権確保を促進しました。
1943年 太平洋戦争 コロンバンガラ島沖海戦
1943年

第二次世界大戦・独ソ戦: プロホロフカの戦いが行われる。

独ソ戦期のクルスクの戦いで発生した、史上最大級の戦車戦の一つです。
1943年7月12日、プロホロフカの戦いが独ソ戦(クルスク大戦車戦)の一部として勃発。 ドイツ軍は新型戦車パンターやティーガーで突破を試み、ソ連軍はT-34部隊で迎撃。 数百両の戦車が激突し、戦車戦としては歴史上最大規模を記録。 ソ連軍は膠着状態を強いられつつもドイツ軍の大規模前進を食い止めました。 この戦闘は東部戦線の帰趨を左右し、ヒトラーの攻勢計画に大打撃を与えました。
独ソ戦 プロホロフカの戦い
1945年

第二次世界大戦・日本本土空襲: 敦賀大空襲。日本海側沿岸の都市としては最初の空襲。

1945年7月12日、日本海側沿岸都市として初めて空襲を受けた敦賀大空襲です。
第二次世界大戦末期の1945年7月12日、アメリカ軍B-29爆撃機による敦賀大空襲が実施されました。 敦賀市内の軍需工場や市街地が目標となり、甚大な被害と民間人の犠牲を出しました。 日本海側沿岸都市が空襲を受けるのは本空襲が初めてであり、防空体制の脆弱さが露呈。 空襲後の復興は困難を極め、戦争末期の苦難を象徴する出来事となりました。 市民の戦争体験と平和への願いを今に伝える歴史的事件です。
1945年 日本本土空襲 敦賀大空襲 空襲
1945年

第二次世界大戦・日本本土空襲: 宇都宮大空襲。

同じく1945年に行われた宇都宮市への大規模爆撃です。
1945年7月12日(または13日未明)、アメリカ軍B-29による宇都宮大空襲が発生。 市中心部が焼夷弾によって壊滅的被害を受け、多数の建物と住民が犠牲になりました。 宇都宮は東北地方と関東地方を結ぶ交通の要衝であり、軍需拠点としての重要性が標的に。 戦後、都市は復興計画を経て再建されましたが、市民の戦争の記憶として語り継がれています。 平和と戦争の教訓を考える上で重要な出来事です。
宇都宮大空襲
2006年

イスラエル軍によるレバノン侵攻が始まる。

2006年7月12日、イスラエル軍がレバノン南部への侵攻を開始し、中東情勢が一層緊迫しました。
2006年7月12日、イスラエルはヒズボラによる攻撃への対応として、軍事作戦を開始しました。空爆や地上侵攻を含む大規模な作戦はレバノン南部を中心に展開。紛争は約1か月続き、多数の民間人被害とインフラ破壊を引き起こしました。国連や国際社会は即時停戦を求め、8月に国連安保理決議1701が採択されました。紛争後も地域の緊張は続き、中東和平交渉に大きな影響を残しました。
2006年 イスラエル軍 レバノン侵攻