孝徳天皇元年6月14日

皇極天皇の弟・軽皇子が即位して第36代天皇・孝徳天皇に。中大兄皇子が皇太子となる。

645年6月14日、軽皇子が即位して孝徳天皇となり、中大兄皇子が皇太子に任命されました。
645年6月14日(孝徳天皇元年)、皇極天皇の弟・軽皇子が即位して第36代天皇・孝徳天皇となりました。 同日、中大兄皇子が皇太子に立てられ、政務を担う中心的存在となります。 この即位は蘇我氏の権勢抑制と天皇中心の政治体制確立に向けた転機となりました。 孝徳天皇の治世下で、大化改新の準備が進められ、後の改革への基礎が築かれました。 中大兄皇子は後の大化改新を主導し、日本古代史に大きな影響を与えました。 歴史的には中央集権化の始まりとされる重要な出来事です。
645年 6月14日 皇極天皇 孝徳天皇 中大兄皇子
1543年

イングランド王ヘンリー8世が6番目で最後の妻キャサリン・パーとハンプトン・コート・パレスで結婚。

イングランド王ヘンリー8世が6番目で最後の妻・キャサリン・パーと結婚した日です。
1543年7月12日、イングランド王ヘンリー8世が6番目で最後の妻となるキャサリン・パーとハンプトン・コート・パレスで結婚しました。 キャサリン・パーはヘンリーの中で最も長く生存した妻でもあり、2人の結婚生活は相対的に安定していました。 ヘンリー8世の結婚は宗教や政治に大きな影響を与え、多くの離婚や処刑を伴う騒動を引き起こしました。 しかしキャサリン・パーは穏健で賢明な王妃とされ、ヘンリー晩年を支えた人物として知られています。 結婚はプロテスタント改革が進む時代背景の中で行われ、宮廷文化にも影響を及ぼしました。
1543年 イングランド王 ヘンリー8世 キャサリン・パー ハンプトン・コート・パレス
1790年

フランス革命: 国民議会が聖職者民事基本法を制定。

フランス革命で国民議会が聖職者民事基本法を制定した日です。
1790年7月12日、フランス革命期の国民議会が聖職者民事基本法を制定しました。 この法律はカトリック聖職者を国家の公務員と定め、教会の財産を国有化しました。 聖職者民事基本法は教会の権威を大きく制限し、宗教的対立を深刻化させました。 多くの聖職者が抵抗し、反乱や内戦の引き金となるなど政治的不安定を招きました。 結果として革命は急進化し、政教関係の在り方が根本的に見直される契機となりました。
1790年 フランス革命 国民議会 聖職者民事基本法
1806年

神聖ローマ帝国に属していたドイツの諸侯が帝国を離脱し、ナポレオンを盟主とするライン同盟を結成する。

神聖ローマ帝国のドイツ諸侯が離脱し、ライン同盟を結成した日です。
1806年7月12日、神聖ローマ帝国に属していたドイツの諸侯が帝国を離脱しました。 彼らはナポレオン・ボナパルトを盟主とするライン同盟を結成し、フランスの傘下に入りました。 この同盟結成により神聖ローマ帝国は事実上解体し、歴史的な終焉を迎えました。 ナポレオンは同盟諸侯に領土保障と地位を約束し、中欧支配を強化しました。 ライン同盟の成立はヨーロッパの勢力図を一変させ、近代国家形成への転機となりました。
1806年 神聖ローマ帝国 ドイツ ナポレオン ライン同盟
1862年

アメリカ合衆国で名誉勲章が制定される。

1862年、アメリカ合衆国で名誉勲章が制定され、後に数々の英雄に授与されることとなった記念すべき日。
名誉勲章はアメリカ合衆国議会によって制定された最上位の軍事勲章です。 南北戦争中の功績を称える目的で創設され、その後も様々な戦争や紛争で勇気ある行動を示した兵士が受賞してきました。 授与基準は非常に厳格であり、上官や同僚の推薦を経て議会の承認を得る必要があります。 Medal of Honorという英語名で世界的にも知られ、映画や文学作品にも度々登場します。 この日に制定された出来事は、アメリカ軍人の名誉と勇気を象徴する重要な制度の始まりを告げるものです。
1862年 アメリカ合衆国 名誉勲章
明治元年5月23日

明治政府が、飛騨国の旧天領を管轄する飛騨県、兵庫港を管轄する兵庫県を設置。

明治維新直後、旧天領と港湾を管轄する新たな県が設置された日。
1868年、明治政府は地方行政の近代化を進めるために旧来の藩や天領を再編しました。 飛騨国の旧天領を管轄する飛騨県と、重要港湾である兵庫港を管轄する兵庫県が設置されました。 これにより中央集権的な府県制度が整備され、国内の行政効率化が図られました。 新設された県は後に再編や統合を経て、現在の都道府県区分の礎となりました。 地方自治と国力増強を目指した明治政府の取り組みの一端を示す出来事です。
1868年 明治 5月23日 飛騨県 兵庫港 兵庫県
1902年

アーサー・バルフォアがイギリス首相に就任。

1902年、アーサー・バルフォアがイギリス首相に就任し、新たな政局が始まった日。
1902年7月12日、アーサー・バルフォアがイギリス自由党の党首として首相の座につきました。 彼は自由党と保守党の激しい政争の中で指導力を発揮し、政府運営に挑みました。 在任中は労働条件の改善や軍備拡張などを巡る論争が続き、国内外の課題に向き合いました。 外相時代の1917年には有名な「バルフォア宣言」を発表し、中東情勢に大きな影響を与えました。 バルフォアの就任は20世紀初頭のイギリス政治の転換点の一つとされます。
1902年 アーサー・バルフォア イギリス首相
1920年

ソビエト・リトアニア平和条約締結。ロシアがリトアニアの独立を承認。

ソビエト・リトアニア平和条約が締結され、リトアニアの独立が承認された日。
1920年7月12日、ソビエトロシアとリトアニアの間で平和条約が締結されました。 この条約によってソビエト側はリトアニアの独立を正式に承認しました。 第一次世界大戦後の東欧再編における重要な国際条約とされています。 リトアニアはこの条約を契機に独立国家としての地位を確立しました。 その後のヨーロッパ情勢に大きな影響を与えた歴史的な出来事です。
1920年 ソビエト・リトアニア平和条約 英語版 ロシア リトアニア 承認
1941年

第二次世界大戦: 英ソ相互援助協定が締結される。

イギリスとソ連が相互援助協定を締結し、枢軸国に対抗する連携を強化しました。
1941年7月12日、第二次世界大戦中のアメリカ参戦前夜にイギリスとソ連は「英ソ相互援助協定」を締結しました。 両国はドイツや日本など枢軸国の進攻に対抗し、互いに軍事支援を行うことを約束。 この協定は東部戦線で苦戦するソ連への支援をとりまとめたものであり、戦局に大きな影響を及ぼしました。 また、戦後の連合国間の協力関係を示す先例ともなりました。 ヨーロッパにおける連帯感を強めた意義深い外交協定です。
1941年 第二次世界大戦
1967年

アンギラがイギリス自治領セントキッツ・ネイビス・アンギラからの独立を宣言。1969年に元のイギリス植民地統治下に戻る。

アンギラがイギリス自治領からの分離独立を宣言しました。
1967年7月12日、カリブ海の島嶼地域アンギラがセントキッツ・ネイビス・アンギラ連邦からの独立を宣言。 アンギラ住民は連邦政府の行政改革や統治に不満を抱いており、英政府の支援と軍事介入を招きました。 独立宣言後も実質的な自治権回復には至らず、1969年に再びイギリス直轄の植民地へ戻りました。 この出来事は植民地支配からの脱却をめぐる運動の複雑さを浮き彫りにし、国際的にも注目されました。 現在もアンギラはイギリス海外領土としての地位を維持しています。
アンギラ 自治領 セントキッツ・ネイビス・アンギラ 1969年
1975年

サントメ・プリンシペがポルトガルから独立。

サントメ・プリンシペがポルトガルからの独立を達成しました。
1975年7月12日、アフリカ西岸の小国サントメ・プリンシペがポルトガルからの独立を正式に宣言。 長年続いた植民地支配に終止符が打たれ、アフリカ最後の非独立地域が解消されました。 新国家は一党制の社会主義路線を採用し、ガブリエル・フェレイラ暫定大統領が指導。 国際連合やアフリカ諸国から承認を受け、国家建設と経済発展に向けた道を歩み始めました。 観光と農業(カカオ生産)が主要産業となり、独立記念日は国の祝日として祝われています。
1975年 サントメ・プリンシペ ポルトガル
1979年

キリバスがイギリスから独立。

1979年7月12日にキリバスがイギリスから独立し、新たな国家として誕生しました。
キリバスは太平洋の赤道付近に位置し、33の環礁と1つの島から構成される小さな島嶼国家です。 1979年7月12日の独立宣言により、英領ギルバート諸島から共和国としての地位を獲得しました。 独立後すぐに国連加盟を申請し、1980年1月14日に正式に承認を受けました。 人口は約10万人で、主に漁業や観光業を中心に経済が支えられています。 近年は海面上昇などの環境問題に直面し、国際社会との協調が求められています。
1979年 キリバス イギリス