孝徳天皇元年6月14日
皇極天皇の弟・軽皇子が即位して第36代天皇・孝徳天皇に。中大兄皇子が皇太子となる。
645年6月14日、軽皇子が即位して孝徳天皇となり、中大兄皇子が皇太子に任命されました。
645年6月14日(孝徳天皇元年)、皇極天皇の弟・軽皇子が即位して第36代天皇・孝徳天皇となりました。
同日、中大兄皇子が皇太子に立てられ、政務を担う中心的存在となります。
この即位は蘇我氏の権勢抑制と天皇中心の政治体制確立に向けた転機となりました。
孝徳天皇の治世下で、大化改新の準備が進められ、後の改革への基礎が築かれました。
中大兄皇子は後の大化改新を主導し、日本古代史に大きな影響を与えました。
歴史的には中央集権化の始まりとされる重要な出来事です。
645年
6月14日
皇極天皇
孝徳天皇
中大兄皇子
1191年
第3回十字軍: アッコンが陥落し、2年に及ぶアッコン攻城戦が終結。
第3回十字軍の一環として行われたアッコン攻城戦が2年に及び、ついに都市が陥落した日です。
1191年7月12日、約2年間にわたって行われたアッコン攻城戦が終結し、都市アッコンが陥落しました。
アッコンは十字軍における重要な拠点であり、地中海貿易の要所として戦略的価値が高い都市でした。
聖地回復を目指す第3回十字軍にとって、この勝利は大きな成果とされました。
しかし、降伏条件を巡って十字軍内部で意見対立が起こり、イスラム勢力に対するその後の進撃は遅れました。
アッコンの陥落は十字軍国家の存続を一時的に安定させましたが、長期的には継続的な衝突を招く結果となりました。
1191年
第3回十字軍
アッコン
アッコン攻城戦
嘉吉元年6月24日
嘉吉の乱: 播磨守護・赤松満祐が室町幕府将軍・足利義教を自邸に招き謀殺。
播磨守護・赤松満祐が室町幕府将軍・足利義教を謀殺した事件の発生日です。
1441年6月24日(嘉吉元年)、播磨守護の赤松満祐が将軍・足利義教を自邸に招いて謀殺しました。
足利義教は強権的な政治手法で幕府内外に反感を買っており、反乱の引き金となりました。
この事件は『嘉吉の乱』と呼ばれ、幕府権威の失墜を象徴する出来事とされています。
謀殺後、赤松満祐は京都での勢力拡大を図りましたが、幕府の反攻により最終的に討伐されました。
嘉吉の乱は室町幕府の混乱を招き、幕政の再編成を促す契機となりました。
1441年
嘉吉
6月24日
嘉吉の乱
赤松満祐
足利義教
明応4年6月20日
宗祇の『新撰菟玖波集』が完成。
連歌師・宗祇による連歌撰集『新撰菟玖波集』が完成した日です。
1495年6月20日(明応4年)、連歌師・宗祇による新撰連歌集『新撰菟玖波集』が完成しました。
『新撰菟玖波集』は1557番の連歌を収録し、当時の連歌文化を代表する作品とされています。
宗祇は連歌において形式と情趣を兼ね備えた作風を確立し、多くの門人に影響を与えました。
この集は後の俳諧の発展にも大きな役割を果たし、日本文学史上に重要な位置を占めています。
完成により連歌の普及が一層進み、室町時代の芸術文化に新たな潮流をもたらしました。
1495年
明応
6月20日
宗祇
新撰菟玖波集
1543年
イングランド王ヘンリー8世が6番目で最後の妻キャサリン・パーとハンプトン・コート・パレスで結婚。
イングランド王ヘンリー8世が6番目で最後の妻・キャサリン・パーと結婚した日です。
1543年7月12日、イングランド王ヘンリー8世が6番目で最後の妻となるキャサリン・パーとハンプトン・コート・パレスで結婚しました。
キャサリン・パーはヘンリーの中で最も長く生存した妻でもあり、2人の結婚生活は相対的に安定していました。
ヘンリー8世の結婚は宗教や政治に大きな影響を与え、多くの離婚や処刑を伴う騒動を引き起こしました。
しかしキャサリン・パーは穏健で賢明な王妃とされ、ヘンリー晩年を支えた人物として知られています。
結婚はプロテスタント改革が進む時代背景の中で行われ、宮廷文化にも影響を及ぼしました。
1543年
イングランド王
ヘンリー8世
キャサリン・パー
ハンプトン・コート・パレス
1562年
ユカタンの司教ディエゴ・デ・ランダがインディオの異端尋問を行い、多数のマヤの絵文書の焚書を命じる。
ユカタンのディエゴ・デ・ランダ司教がマヤ文明の絵文書を大量に焼却した日です。
1562年7月12日、ユカタンのカトリック司教ディエゴ・デ・ランダが異端尋問を名目にマヤの絵文書を大量に焚書しました。
デ・ランダは先住民文化を異端と見なし、伝統的な宗教儀式や文書の破壊を命じました。
この焚書により、マヤ文明の貴重な歴史資料や知識の多くが失われました。
後世の研究者はこの行為を文化破壊の象徴として批判しており、失われた情報の復元が試みられています。
デ・ランダ自身は後にマヤ文化の記録も執筆しましたが、同時に破壊者でもある複雑な人物像です。
1562年
ユカタン
司教
ディエゴ・デ・ランダ
インディオ
マヤ
絵文書
寛永12年5月28日
江戸幕府が第3次鎖国令を布告。日本人の海外渡航および海外滞在者の帰国が禁止される。
江戸幕府が第3次鎖国令を布告し、日本人の海外渡航と帰国を禁止した日です。
1635年5月28日(寛永12年)、江戸幕府が第3次鎖国令を布告しました。
これにより日本人の海外渡航と海外滞在者の帰国が全面的に禁止され、鎖国体制が一層強化されました。
鎖国令は貿易相手国やキリスト教の影響を排除し、幕府の国内支配を安定させる目的がありました。
オランダと中国との限定的な貿易は長崎でのみ許可され、他国との接触は遮断されました。
この政策は約200年間続き、日本独自の文化と社会構造を育む基盤となりました。
1635年
寛永
5月28日
江戸幕府
鎖国
ユリウス暦7月1日
ウィリアマイト戦争: ボイン川の戦い。
ウィリアマイト戦争の主要な戦闘、ボイン川の戦いが行われた日です。
1690年7月1日(ユリウス暦)、ウィリアマイト戦争におけるボイン川の戦いが起こりました。
ウィリアマイト派(ウィリアム3世支持)とヤコバイト派(ジェームズ2世支持)の軍が激突しました。
ウィリアム3世率いる軍勢が勝利を収め、イングランド王位を巡る争いの決定打となりました。
この戦いの結果、プロテスタントがアイルランドにおける支配を強化し、ヤコバイト勢力は後退しました。
ボイン川の戦いは英国王位継承問題の一端として欧州政治に大きな影響を与えました。
1690年
7月1日
ウィリアマイト戦争
ボイン川の戦い
1790年
フランス革命: 国民議会が聖職者民事基本法を制定。
フランス革命で国民議会が聖職者民事基本法を制定した日です。
1790年7月12日、フランス革命期の国民議会が聖職者民事基本法を制定しました。
この法律はカトリック聖職者を国家の公務員と定め、教会の財産を国有化しました。
聖職者民事基本法は教会の権威を大きく制限し、宗教的対立を深刻化させました。
多くの聖職者が抵抗し、反乱や内戦の引き金となるなど政治的不安定を招きました。
結果として革命は急進化し、政教関係の在り方が根本的に見直される契機となりました。
1790年
フランス革命
国民議会
聖職者民事基本法
1806年
神聖ローマ帝国に属していたドイツの諸侯が帝国を離脱し、ナポレオンを盟主とするライン同盟を結成する。
神聖ローマ帝国のドイツ諸侯が離脱し、ライン同盟を結成した日です。
1806年7月12日、神聖ローマ帝国に属していたドイツの諸侯が帝国を離脱しました。
彼らはナポレオン・ボナパルトを盟主とするライン同盟を結成し、フランスの傘下に入りました。
この同盟結成により神聖ローマ帝国は事実上解体し、歴史的な終焉を迎えました。
ナポレオンは同盟諸侯に領土保障と地位を約束し、中欧支配を強化しました。
ライン同盟の成立はヨーロッパの勢力図を一変させ、近代国家形成への転機となりました。
1806年
神聖ローマ帝国
ドイツ
ナポレオン
ライン同盟
1862年
アメリカ合衆国で名誉勲章が制定される。
1862年、アメリカ合衆国で名誉勲章が制定され、後に数々の英雄に授与されることとなった記念すべき日。
名誉勲章はアメリカ合衆国議会によって制定された最上位の軍事勲章です。
南北戦争中の功績を称える目的で創設され、その後も様々な戦争や紛争で勇気ある行動を示した兵士が受賞してきました。
授与基準は非常に厳格であり、上官や同僚の推薦を経て議会の承認を得る必要があります。
Medal of Honorという英語名で世界的にも知られ、映画や文学作品にも度々登場します。
この日に制定された出来事は、アメリカ軍人の名誉と勇気を象徴する重要な制度の始まりを告げるものです。
1862年
アメリカ合衆国
名誉勲章
明治元年5月23日
明治政府が、飛騨国の旧天領を管轄する飛騨県、兵庫港を管轄する兵庫県を設置。
明治維新直後、旧天領と港湾を管轄する新たな県が設置された日。
1868年、明治政府は地方行政の近代化を進めるために旧来の藩や天領を再編しました。
飛騨国の旧天領を管轄する飛騨県と、重要港湾である兵庫港を管轄する兵庫県が設置されました。
これにより中央集権的な府県制度が整備され、国内の行政効率化が図られました。
新設された県は後に再編や統合を経て、現在の都道府県区分の礎となりました。
地方自治と国力増強を目指した明治政府の取り組みの一端を示す出来事です。
1868年
明治
5月23日
飛騨県
兵庫港
兵庫県