元熙2年/永初元年6月15日
東晋の恭帝が劉裕(武帝)に禅譲。東晋が滅亡し宋(南朝宋)が建国。
東晋最後の皇帝恭帝が劉裕に禅譲し、南朝宋が建国された政変。
中国南朝時代の幕開けとなった歴史的事件。
東晋末期、内紛に揺れる朝廷で将軍の劉裕が実権を掌握していた。
恭帝は政務を放棄し、7月11日に禅譲して退位を余儀なくされた。
これにより東晋は滅亡し、劉裕が南朝宋を建国して建康(現在の南京)に都を置いた。
南北朝時代の始まりを告げ、以降の南朝宋は江南地域を中心に繁栄を築いていく。
北朝勢力との対立が続く中国史の重要な転換点となった。
420年
元熙
永初
6月15日
東晋
恭帝
劉裕
禅譲
南朝宋
1789年
フランス革命: マリー・アントワネットらが、民衆に人気のあった財務大臣ジャック・ネッケルを罷免。バスティーユ襲撃の引き金となる。
ネッケル罷免がパリ民衆の反発を招いた。
バスティーユ襲撃の引き金となった事件。
ルイ16世の財政改革を担っていたジャック・ネッケルは民衆の支持を集める存在だった。
しかし王妃マリー・アントワネットら側近の反対を受け、7月11日に罷免が決定された。
この措置がパリ市民の怒りを爆発させ、バスティーユ襲撃への動きを加速させた。
ネッケル解任は絶対王政批判の象徴的事件となり、革命勢力にさらなる勢いを与えた。
フランス革命の転換点として歴史に刻まれている。
1789年
フランス革命
マリー・アントワネット
ジャック・ネッケル
バスティーユ襲撃
1804年
アメリカ合衆国副大統領アーロン・バーと同財務長官アレクサンダー・ハミルトンが決闘を行う。ハミルトンは翌日死亡。
アーロン・バーとアレクサンダー・ハミルトンが決闘。
ハミルトンは翌日死亡。
当時副大統領のバーと元財務長官ハミルトンは政治的対立が深刻化していた。
7月11日、彼らはニューヨーク近郊で銃による決闘に臨んだ。
ハミルトンは胸部を負傷し、翌日に致命傷で息を引き取ったと報じられた。
この事件は若い共和国の政治文化と決闘慣習の危険性を象徴する。
バーは政治生命を失い、その後のアメリカ史に暗い影を落とした。
1804年
アメリカ合衆国副大統領
アーロン・バー
同財務長官
アレクサンダー・ハミルトン
決闘
咸豊4年6月17日
琉米修好条約が締結される。
琉米修好条約が締結される。
琉球王国の国際関係拡大の一歩。
咸豊4年6月17日(1854年7月11日)、琉球王国とアメリカ合衆国が友好条約を締結した。
漂流民救助や通商、領事裁判権などを定めた画期的な協定であった。
琉球は独立国として初めて西洋列強と正式な外交関係を樹立した。
同時期の日本開国と並び、東アジアにおける近代国際秩序の変化を象徴する。
後の琉米・清国条約締結や地域の政治構造に大きな影響を与えた。
1854年
咸豊
6月17日
琉米修好条約
1902年
アーサー・バルフォアがイギリスの第50代首相に就任。
1902年7月11日、アーサー・バルフォアがイギリス第50代首相に就任しました。保守党の指導者として知られる政治家です。
1902年7月11日、保守党のアーサー・バルフォアがイギリス王国内閣の第50代首相に任命されました。教育改革や労働者福祉の問題など国内政策に取り組みつつ、植民地問題にも注力しました。バルフォア政権下では『教会平等法』の改正や南アフリカ第二次ボーア戦争後の和平交渉が大きな課題となりました。彼が示した妥協や調整の姿勢は後の保守党政治にも影響を与え、『バルフォア合意』として評価されます。第一次世界大戦前夜の外交的布石にも関与し、20世紀初頭の英国政治を象徴する指導者の一人です。
1902年
アーサー・バルフォア
1921年
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の支援を受けたモンゴル人民党が、活仏ボグド・ハーンを君主とするモンゴル人民政府を樹立し、中華民国から実質的に独立。
1921年7月11日、モンゴル人民党がボグド・ハーンを君主とする人民政府を樹立し、中華民国から実質的に独立しました。ソ連の支援を受けた革命政権の誕生です。
1921年7月11日、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の後押しを受けたモンゴル人民党は、仏教指導者ボグド・ハーンを国家元首とするモンゴル人民政府を首都ウランバートルに樹立しました。これにより、約270年ぶりに外部勢力からの支配を脱して独立政権が復活したとされます。新政府は内政の近代化や農牧業の改革を掲げつつ、ソ連との友好関係を築きました。中華民国は独立を認めず、国際的には複雑な駆け引きが続きました。この出来事はモンゴルの「人民革命」の始まりとして記念されています。
1921年
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国
モンゴル人民党
ボグド・ハーン
モンゴル人民政府
中華民国
1933年
神兵隊事件。大日本生産党・愛国勤労党員らのクーデター計画が事前に発覚し、約50人が検挙される。
1933年7月11日、神兵隊と呼ばれる過激派組織によるクーデター計画が露見し、約50人が検挙されました。昭和初期の政治不安を象徴する事件です。
1933年7月11日、大日本生産党や愛国勤労党員らによって結成された極右組織『神兵隊』の政府転覆計画が警察に摘発されました。計画には一部軍人や思想家も関与しており、約50人が逮捕されました。裁判では反乱扇動罪が適用され、厳罰が科されました。政府は事件を利用して治安維持法を強化し、国民統制を一層推進しました。この事件は軍国主義と国家主義が高まる昭和初期の危険な潮流を示すものとされています。
1933年
神兵隊事件
大日本生産党
愛国勤労党
1951年
第一次朝鮮スパイ事件の被告13人に重労働、罰金、強制送還の判決。
1951年7月11日、第一次朝鮮スパイ事件の被告13名に対し、重労働・罰金・強制送還の判決が言い渡された。
1951年7月11日、第一次朝鮮スパイ事件の被告13名に対し、重労働、罰金、強制送還の判決が言い渡された。
この事件は朝鮮戦争期の混乱の中で、北朝鮮とつながりを持つ疑いで複数人が逮捕されたもの。
裁判では、被告らが当時の日本国内で情報収集や工作を行ったと認定された。
判決後、彼らは刑罰を遂行されたうえで本国へ送還され、占領下の治安維持の難しさを示した事例となった。
第一次朝鮮スパイ事件
1954年
埼玉県春日部市が市制施行。
1954年7月11日、埼玉県春日部市が市制を施行し、新たに市として発足した。
1954年7月11日、埼玉県春日部市が市制を施行し、新たに市として発足した。
春日部町はそれまでの行政区画を改め、人口増加と地域開発を背景に市昇格を果たした。
市制施行により行政サービスが強化され、都市基盤の整備や教育施設の充実が進められた。
以降、春日部市は工業と住宅地のバランスが取れた地域として発展を続けている。
1954年
春日部市
1960年
ベルギーの支持を得たモイーズ・チョンベが南部カタンガ州のコンゴ共和国(コンゴ・レオポルドヴィル)からの独立を宣言。
ベルギーの支持を得たモイーズ・チョンベがカタンガ州の独立を宣言しました。
1960年7月11日、独立直後のコンゴ共和国において、南部カタンガ州の州首相モイーズ・チョンベがベルギーの支持を受けて分離独立を宣言しました。
同州は鉱業資源が豊富で、ベルギー企業の関心が高かった地域です。
チョンベ率いるCONAKATは中央政府からの自立を主張していました。
この動きはコンゴ危機を深刻化させ、国連平和維持軍の介入を招きました。
最終的に1963年1月に独立は終結し、カタンガ州は中央政府の支配下に戻されました。
1960年
モイーズ・チョンベ
カタンガ州
コンゴ共和国
1971年
チリ議会が国内の銅山の国有化を決定。
チリ議会が銅山を国有化し、国の重要資源を掌握しました。
1971年7月11日、チリ議会は国内主要銅山の国有化を正式に決定しました。
この政策はサルバドール・アジェンデ大統領の社会主義改革の一環として行われました。
銅山の国有化により、チリ国家企業CODELCOが設立され、収益は国家予算に組み込まれました。
従来の外国資本企業は営業権を失い、国際的にも注目と批判を集めました。
銅産業の国有化はチリ経済の自立化と社会福祉拡充に大きな影響を与えました。
1971年
チリ
銅山
1975年
私立学校振興助成法公布。
1975年7月11日、私立学校の運営支援を目的とした私立学校振興助成法が公布されました。
文部省(現文部科学省)によって私立学校振興助成法が公布され、私学の財政基盤を支援する法的枠組みが整備されました。
背景には戦後教育改革以降の私立学校の経営難や学費の高騰がありました。
助成対象は幼稚園から大学まで幅広く、施設整備費や経常費の補助が規定されました。
この法律により私学への公的支援が制度化され、教育機会の多様化と地域社会への貢献が期待されました。
その後の制度改正を経て、現在も私立学校の運営支援の基盤となっています。
1975年
私立学校振興助成法