紀元前48年
ローマ内戦: デュッラキウムの戦い
カエサル率いるローマ内戦の主要な戦闘。
紀元前48年7月10日にデュッラキウムで行われ、戦局を左右した。
紀元前49年から続くローマ内戦では、カエサルとポンペイウスがローマ覇権を争った。
デュッラキウムの戦いは紀元前48年7月10日に現在のアルバニア付近で発生。
カエサル軍は巧みな戦術で不利な状況を覆し、ポンペイウス派を打ち破った。
この勝利によりカエサルは南イタリアの支配を確立し、後の勢力拡大の基礎を築いた。
戦いの激しさは後世まで語り草となり、カエサルの軍事的才能を示す代表的な事例である。
ローマ内戦の帰趨を決定づけた重要な転換点となった。
紀元前48年
ローマ内戦
デュッラキウムの戦い
皇極天皇4年6月12日
乙巳の変で蘇我入鹿が暗殺される。
645年旧暦6月12日に行われた乙巳の変で蘇我入鹿が暗殺された。
この事件は大化の改新への序章となった。
蘇我氏が飛鳥時代の政治を牛耳り、権力集中が進んでいた。
英邁な皇子・中大兄皇子らが蘇我入鹿排除を企て、645年旧暦6月12日に決行。
宮殿内での暗殺により蘇我入鹿が急襲され、即死した。
翌日に孝徳天皇は廃位され、大化の改新が始動する。
この政変は中央集権化を目指す改革の契機となり、日本史に大きな転換をもたらした。
蘇我氏の没落と新体制樹立の象徴的な出来事である。
645年
6月12日
乙巳の変
蘇我入鹿
嘉応2年5月25日
奥州の藤原秀衡が鎮守府将軍に任命される。
嘉応2年旧暦5月25日(1170年7月10日)、藤原秀衡が鎮守府将軍に任命された。
東国における藤原氏の影響力が本格化した。
奥州藤原氏は清衡以来東北地方で勢力を築いた家系。
藤原秀衡は第4代当主として、その統治能力を中央朝廷に認められた。
鎮守府将軍の称号は東国支配の正当性を示す重要な官職であった。
この任命により秀衡は独自の外交や経済政策を推進、毛越寺などの文化事業を支援。
院政期の地方文化と政治権力の融合を象徴する出来事となった。
最盛期の藤原氏繁栄の礎が築かれた歴史的瞬間である。
1170年
嘉応
5月25日
藤原秀衡
鎮守府将軍
元久2年6月22日
畠山重忠の乱: 北条時政が武蔵・二俣川で畠山重忠一族を討つ。
元久2年旧暦6月22日(1205年7月10日)、畠山重忠の乱が勃発。
北条時政が二俣川で重忠一族を討って鎌倉幕府の統制を強化した。
初期鎌倉幕府における有力御家人同士の政治抗争。
畠山重忠は源頼朝以来の忠臣として勢力を誇ったが、北条氏との対立が深まった。
元久2年6月22日、重忠一族が謀反を企てたとされ、幕府執権・北条時政が攻撃を命じる。
二俣川の戦いでは北条軍が重忠勢を包囲し、激戦の末に鎮圧した。
敗北後、重忠は討ち取られ、一族の多くが処断された。
この事件は執権北条氏の権力基盤を決定的に固める転機となった。
1205年
元久
6月22日
畠山重忠の乱
北条時政
畠山重忠
1460年
薔薇戦争: ノーサンプトンの戦い。
イングランド・薔薇戦争中、ノーサンプトンで行われた大規模会戦。
ヨーク朝がランカスター朝を大破した。
薔薇戦争はランカスター家とヨーク家による王位継承争い。
1460年7月10日の戦いで、ヨーク派はノーサンプトンで決定的勝利を収めた。
ランカスター派の大軍を打ち破り、多数の貴族が戦死または捕縛された。
この勝利によりヨーク家は王位請求権を強化。
同年10月にはヨーク家がヘンリー6世を幽閉し、事実上の掌握に成功した。
英国内戦が更なる激化を迎える鍵となる戦いであった。
1460年
薔薇戦争
ノーサンプトンの戦い
1553年
ノーサンバランド公ジョン・ダドリーがジェーン・グレイのイングランド女王即位を宣言。
1553年7月10日、ノーサンバランド公がジェーン・グレイを英国女王に擁立。
わずか9日間の即位劇に終わった「九日女王」の始まり。
エドワード6世の死去に伴い、プロテスタント政権維持を図るノーサンバランド公ジョン・ダドリーがクーデター。
1553年7月10日、ジェーン・グレイをイングランド女王として宣言した。
しかしメアリー1世の支持を受けた勢力が反撃を開始。
7月19日、メアリー派がロンドンを掌握し、ジェーンは退位を余儀なくされた。
ジェーン・グレイは1月の在位後、反逆罪で逮捕され、同年2月に処刑された。
宗教対立と王位継承の複雑さを象徴する劇的な事件である。
1553年
ノーサンバランド公ジョン・ダドリー
ジェーン・グレイ
イングランド
19日
メアリー1世
1584年
八十年戦争: ウィレム1世(沈黙公)がスペイン方のフランス人により暗殺される。
1584年7月10日、オランダ独立戦争の指導者ウィレム1世が暗殺された。
フランス人刺客による国家的衝撃事件。
八十年戦争はネーデルラントの独立運動とスペイン帝国の対立。
ウィレム1世(沈黙公)は独立派の象徴的指導者として崇拝された。
1584年7月10日、現在のオランダ・デルフトでフランス出身の刺客バルタザール・ジェラールに襲撃。
ウィレムは重傷を負い、数日のうちに昏睡状態に陥ったのち死亡した。
彼の暗殺は独立運動を激化させ、後継者たちは粘り強く戦い続けた。
その殉教的な最期は共和国建設への決意を強固にした。
1584年
八十年戦争
ウィレム1世
文化元年6月4日
象潟地震。秋田の象潟湖が地震による海底隆起で陸地になる。
1804年7月10日、秋田県象潟で大規模な地震が発生。
象潟湖が海底隆起により陸地化した自然の驚異。
文化元年6月4日(旧暦)に発生した象潟地震は大きな海底隆起を伴った。
秋田の象潟湖周辺の地形が一夜にして陸地へと変貌。
湖底が持ち上がり、美しい入江と洲が消失した。
現地の住民は急激な地形変化に驚愕し、生活環境が一変した。
この地震現象は後に本居宣長など学者の地質研究対象ともなった。
自然の力がもたらす景観変化を象徴する歴史的事例である。
1804年
文化
6月4日
象潟地震
象潟湖
1821年
アメリカとスペインの間のアダムズ=オニス条約が発効。アメリカがフロリダを獲得。
1821年7月10日、アダムズ=オニス条約が発効しアメリカがフロリダを獲得。
米西間の国境線が初めて明確化された。
アメリカ合衆国とスペイン王国は領土問題と先住民対策を巡って交渉を継続。
1819年に締結されたアダムズ=オニス条約が1821年に発効。
これによりスペイン領フロリダは米国に譲渡され、西フロリダもアメリカ領となった。
併せてルイジアナ購入以後の国境線が定められ、西部開拓への基盤が整備された。
フロリダ獲得はアメリカの領土拡張主義「マニフェスト・ディスティニー」の先駆となった。
米西関係史における重要な外交成果である。
1821年
アメリカ
スペイン
アダムズ=オニス条約
フロリダ
1888年
大阪の朝日新聞社が買収した『めさまし新聞』が『東京朝日新聞』(現在の朝日新聞東京本社発行による朝日新聞)に改題して新創刊。
1888年7月10日、大阪の朝日新聞社が『めさまし新聞』を買収し『東京朝日新聞』として創刊。
現朝日新聞東京本社の前身として発足。
明治21年、大阪の朝日新聞社は『めさまし新聞』を買収し、名称を改めて新たに創刊。
『東京朝日新聞』の発行により首都圏での展開を本格化させた。
迅速な報道と多分野の記事構成で読者層を拡大。
後に熱狂的な支持を受け、全国紙としての地位を確立した。
大衆新聞の草分けとして日本のメディア史に大きな影響を与えた。
現在の朝日新聞東京本社発行版につながる重厚なブランドがここに始まった。
1888年
朝日新聞社
めさまし新聞
東京朝日新聞
朝日新聞東京本社
朝日新聞
1890年
ワイオミング準州が州に昇格し、アメリカ合衆国44番目の州・ワイオミング州となる。
ワイオミング準州が正式にアメリカ合衆国の44番目の州に昇格しました。新たに州政府が設立され、連邦議会への代表を得る歴史的瞬間です。
ワイオミング準州は1869年に設置され、銀鉱山や農牧業の発展を背景に人口と経済が成長しました。1890年7月10日、正式にワイオミング州として認められ、州知事や州議会が発足しました。この昇格により住民は連邦議会に上院議員2名、下院議員1名を送り出す権利を得ました。またワイオミングは女性参政権運動の先駆けとしても知られ、「女性の州」と呼ばれた歴史的背景を持ちます。雄大な大平原とロッキー山脈に囲まれた自然環境は、現在もアウトドア愛好家に人気です。
1890年
ワイオミング準州
アメリカ合衆国
ワイオミング州
1908年
ヘイケ・カメルリング・オネスによって初のヘリウムの液化に成功。
オランダの物理学者ヘイケ・カメルリング・オネスが世界で初めてヘリウムの液化に成功しました。これにより超低温物理学の新時代が幕を開けます。
1908年7月10日、ライデン大学のヘイケ・カメルリング・オネスは摂氏−269度付近でヘリウムを液化し、史上初のヘリウム液体を得ることに成功しました。これまでにない低温域の到達は、新たな物性研究や超伝導現象の発見に道を拓きました。オネスは後に超伝導を発見し、1913年にノーベル物理学賞を受賞。この実験はクライオジェニクス(超低温科学)の基礎を築き、磁気浮上やMRIなど現代技術への応用にも大きな影響を与えました。
1908年
ヘイケ・カメルリング・オネス
ヘリウム
液化