建安13年6月9日癸巳
後漢で三公制が廃止され、曹操が新設された丞相に就任。
後漢末期の政治改革で三公制が廃止され、権力を掌握した曹操が丞相に就任しました。
後漢末期において腐敗した三公制が廃止され、中央政権の権力構造が大きく変わりました。
曹操は新設された丞相の地位を得て、軍事力と政治権力の双方を掌握しました。
この改革により、董卓や袁紹らの勢力に対抗するための基盤が整えられました。
曹操は以後、魏の基礎を築くまでの専横的な政治を展開しました。
中国三国時代の黎明を象徴する大きな転換点となりました。
208年
建安
後漢
三公
曹操
丞相
455年
ローマの指揮官アウィトゥスが西ローマ帝国皇帝即位を宣言。
西ローマ帝国でアウィトゥスが皇帝の座につき、混乱期の帝国再建を試みました。
西ローマ帝国崩壊前夜の混乱した政情下、ガリア総督であったアウィトゥスが将軍の支持を受けて即位しました。
彼の登場はゲルマン人勢力との関係改善を期待されましたが、短命に終わりました。
アウィトゥスはローマ貴族と野戦軍団との間で政治的均衡を図ろうと試みましたが、数年で追放されます。
その即位は西ローマ帝国最終期の動乱と権力闘争を如実に表しています。
帝国の没落に向かう過程を象徴する重要な出来事と言えるでしょう。
455年
アウィトゥス
西ローマ帝国
1540年
イングランド王ヘンリー8世が、同年1月に行われた4番目の妻アン・オブ・クレーヴズとの結婚の無効(離婚)を宣言。
イングランド王ヘンリー8世が4人目の王妃アン・オブ・クレーヴズとの結婚無効を宣言しました。
ヘンリー8世は同年1月にアンとの結婚を行ったものの、公的儀式後に生理的な相性や政治的合意を理由に婚姻無効を主張しました。
この宣言によりアンは『王の姉妹』として扱われ、財産と称号を保持しました。
ヘンリー8世の婚姻政策は宗教改革や王権強化の一環とも解釈され、後の政治情勢にも影響を与えました。
王とアンの離婚は宮廷内の派閥争いにも大きな影響を与えました。
当時のヨーロッパ諸国を巻き込む婚姻政策の一つとしても注目される事件です。
1540年
イングランド
ヘンリー8世
アン・オブ・クレーヴズ
離婚
慶長20年6月1日
江戸で晩雪。夏の雪に驚愕した人々は、本郷(東京都文京区)に富士神社を建立し、富士山の神を祀った。
江戸の夏に珍しい『晩雪』が降り、人々は驚き富士神社を建立しました。
慶長20年6月、江戸で夏としては異例の雪が降り、多くの庶民が驚愕しました。
この『晩雪』は農作物への影響を懸念させるほどの珍事と見なされました。
住民たちは『富士の神』の怒りか祝福かを占うため、本郷に富士神社を建立しました。
その後の祭礼や信仰は地域社会の結束を強め、江戸町人文化にも一石を投じました。
天候と信仰が結びつく日本の伝統文化の一例とも言われます。
1615年
慶長
6月1日
寛永9年5月22日
熊本藩主加藤忠広が改易。肥後熊本藩54万石は没収され、出羽庄内の酒井家にお預けとなる。
熊本藩主・加藤忠広が改易され、藩が没収のうえ庄内藩家に預けられました。
寛永9年、藩政改革と幕府の警戒政策の一環として加藤忠広が改易処分されました。
肥後熊本藩54万石は没収され、出羽庄内藩主・酒井家に預け置きとなりました。
加藤家は肥後支配を喪失し、地域の統治構造が一変しました。
この出来事は幕藩体制下における領地没収の象徴的事例とされます。
各地の藩主に対する幕府の統制強化の歴史的流れを示しています。
1632年
寛永
5月22日
熊本藩主
加藤忠広
改易
1755年
フレンチ・インディアン戦争: モノンガヘラの戦い
フレンチ・インディアン戦争の一戦『モノンガヘラの戦い』が起きました。
1755年、北米東部でフランス軍とイロコイ連邦を中心とした連合軍がイギリス植民地軍と衝突しました。
モノンガヘラの谷で行われた戦闘は、イギリス軍指揮官ブラドックやジョージ・ワシントンの初陣として知られています。
不慣れな森林戦闘に苦戦した英軍は大敗し、将軍ブラドックは戦死しました。
この敗北は後の英仏両国の北米支配争いに大きな影響を与えました。
若き日のワシントン将軍の活躍が後世に語り継がれる契機ともなりました。
1755年
フレンチ・インディアン戦争
モノンガヘラの戦い
ユリウス暦6月28日
エカチェリーナ2世がロシア皇帝に即位。
エカチェリーナ2世がロマノフ朝のロシア皇帝として即位しました。
1762年、夫ピョートル3世の廃位を経て実権を掌握したエカチェリーナ2世が正式に即位しました。
啓蒙専制君主として法改正や行政改革、文化振興を推進しました。
啓蒙思想家との交流を深め、ロシアの欧化を図りました。
領土拡大と軍事力増強も同時に推し進め、ロシア帝国の国際的地位を向上させました。
後世『大いなる女帝』と称されるその治世の幕開けとなりました。
1762年
6月28日
エカチェリーナ2世
1807年
ナポレオン戦争: フランスとプロイセン王国がティルジットの和約を締結。
ナポレオン戦争下、ティルジットの和約がフランスとプロイセン間で締結されました。
1807年、ナポレオンが勝利を収めた後の講和会議により、フランスとプロイセン王国が和平条約を締結しました。
ティルジット条約は領土割譲や賠償金支払いを含み、プロイセンの国力を大きく弱体化させました。
ナポレオンはさらにロシアとも同盟を結び、ヨーロッパ大陸の覇権を確立しました。
条約成立はコンスル体制を強化し、ヨーロッパ支配体制の転換点となりました。
当時の国際政治秩序に大きな影響を与えた歴史的協定です。
1807年
ナポレオン戦争
フランス
プロイセン王国
ティルジットの和約
1810年
フランス帝国が衛星国のホラント王国を併合。
フランス帝国が衛星国ホラント王国を正式に併合しました。
1810年、ナポレオン・ボナパルトがホラント王国の併合を布告しました。
元々弟ルイ・ボナパルトが王位を務めていたが、フランス中央集権化の一環として完全版図化されました。
併合により、ナポレオンは海峡封鎖体制を強化し、イギリスとの経済戦争を激化させました。
ホラントの自治権は消失し、フランス法典や税制が導入されました。
欧州支配戦略の一環として注目される出来事です。
1810年
フランス帝国
衛星国
ホラント王国
1815年
タレーラン=ペリゴールがフランスの首相に就任。
タレーラン=ペリゴールがフランス首相に任命されました。
1815年、ウィーン会議後の混乱期に外交の名手タレーランが首相に就任しました。
復古王政下での外交政策を担い、イギリスやオーストリアとの関係調整に尽力しました。
ナポレオン戦争の終結に続くヨーロッパ再編の中核を担いました。
タレーランの経験と手腕はフランス復興に寄与し、後の議会制度にも影響を与えました。
政治家・外交官としての評価を確立した任命です。
1815年
タレーラン=ペリゴール
フランスの首相
1816年
アルゼンチンがスペインからの独立を宣言。
アルゼンチンがスペイン帝国から独立を宣言した歴史的な出来事です。
1816年7月9日、現在のアルゼンチン共和国の独立を目指す代表団がトゥクマンで独立宣言を採択しました。
南米諸国の独立運動の中でも重要な節目となり、スペインからの直接支配を拒否しました。
宣言はその後の独立戦争と共和国樹立への道を切り開き、地域の自由と自己決定を象徴しました。
この宣言は南米大陸におけるスペイン権力崩壊の象徴ともなりました。
今日、アルゼンチンでは「独立記念日」として国民的祝日になり、盛大な式典が毎年行われています。
1816年
アルゼンチン
スペイン
1832年
コンスタンティノープル条約調印によりギリシャがオスマン帝国より正式に独立する。
ギリシャの独立を正式に認めたコンスタンティノープル条約が調印されました。
1821年から続いたギリシャ独立戦争は欧州列強の介入も得て、新国家樹立の機運が高まりました。
1832年7月9日、オスマン帝国と列強の調停によりコンスタンティノープル条約が締結され、ギリシャ王国の独立が国際的に承認されました。
この条約によってオスマン帝国による直接支配は終わり、ギリシャは正式に主権国家として歩み始めました。
条約成立後、ギリシャ王国は憲法制定や国内整備を進め、ヨーロッパの一員としての地位を確立していきました。
条約締結後、首都はナフプリオンに置かれ、新生ギリシャ王国の統治機構が整備されました。
1832年