1099年
第1回十字軍・エルサレム攻囲戦: 十字軍がエルサレムの城外を巡る「裸足の行列」を始める。
第1回十字軍の聖地攻略を前に、兵士たちが信仰を示すために裸足で行列を行った歴史的瞬間です。
第1回十字軍は1096年に教皇ウルバヌス2世の呼びかけで開始され、聖地奪還を目指すキリスト教徒が結集しました。1099年7月8日、エルサレム城壁を前に、兵士たちは信仰の証として裸足の行列を行い、神の加護を祈りました。この儀式は士気を高めるとともに、最終的な攻撃に向けた精神的準備として機能しました。行列は数日にわたって繰り返され、7月15日の城壁突入とエルサレム陥落へとつながりました。聖地奪還の象徴的行為として後世に語り継がれています。
1099年
第1回十字軍
エルサレム攻囲戦
十字軍
エルサレム
宝治元年6月5日
宝治合戦。鎌倉幕府執権・北条時頼が幕府評定衆・三浦泰村を討ち三浦氏が滅亡。
鎌倉幕府内の勢力争いで北条時頼が三浦氏を討ち、三浦氏が滅亡した合戦です。
宝治合戦は1247年6月5日、鎌倉幕府執権の北条時頼が三浦泰村の拠点を包囲し、三浦氏を徹底的に討伐した戦いです。三浦氏側は激しく抵抗しましたが、数度の攻撃を受けて敗北し、指導者らは自害または捕縛されました。この戦いにより三浦氏は滅亡し、北条家の幕府内支配が一層強固になりました。宝治合戦は鎌倉幕府の権威確立と勢力再編に大きな影響を与えた重要な事件とされています。幕府内部の抗争を収束させる転機となりました。
1247年
宝治
6月5日
宝治合戦
北条時頼
三浦泰村
三浦氏
1343年
カリシュ条約がポーランド王国とドイツ騎士団との間で締結される。
ポーランド王国とドイツ騎士団が1343年の戦争を終結させるためにカリシュ条約を締結した外交協定です。
カリシュ条約は1343年7月8日にポーランド王カジミェシュ3世とドイツ騎士団総長との間で締結されました。条約によりポーランドはクヤヴィアやドブジン土地を回復し、騎士団はポメラニアの一部に対する権利を維持しました。これまで続いていた国境紛争は一時的に収束し、東欧地域の政治均衡に影響を与えました。条約はその後約70年間にわたり平和をもたらし、ポーランド国内の経済再建を促進しました。歴史的には東欧での騎士国家と王国の勢力図を決定づけた重要な合意とされています。
1343年
カリシュ条約
ポーランド王国
ドイツ騎士団
1497年
ヴァスコ・ダ・ガマ率いる船団がインド航路開拓のためリスボンを出港。
ヴァスコ・ダ・ガマがインドへの航路を初めて開拓するため、リスボンを出港した画期的な航海です。
1497年7月8日、ポルトガル王マヌエル1世の命を受けたヴァスコ・ダ・ガマは4隻の船団を率いてリスボンを出帆しました。目標はアフリカ南端を回りインド西海岸に到達し、香辛料貿易の新航路を確立することでした。航海中、ケープヴェルデ諸島で補給を行い、喜望峰を越えて東アフリカ沿岸を北上しました。最終的に1498年5月にカリカット(現在のコーリコード)に到達し、ヨーロッパとアジアを結ぶ海上ルートが誕生しました。この航路開拓は世界の貿易構造を一変させ、大航海時代の象徴的出来事となりました。
1497年
ヴァスコ・ダ・ガマ
リスボン
1709年
大北方戦争: ポルタヴァの戦いが行われる。
大北方戦争の転換点となったポルタヴァの戦いでロシア帝国がスウェーデン軍に決定的勝利を収めました。
1709年7月8日、ロシア皇帝ピョートル1世率いる軍がウクライナのポルタヴァ周辺でスウェーデン王カール12世の軍と激突しました。スウェーデン軍は厳しい冬の行軍と補給不足に悩まされ、ロシア軍の組織的な防御に苦戦しました。戦闘はロシア軍の緻密な塹壕戦術と火力優位によって展開され、スウェーデンは大敗を喫しました。カール12世は戦場を脱出しオスマン帝国へ逃亡し、スウェーデンの欧州での影響力は急速に低下しました。ポルタヴァの勝利はロシアを欧州列強へと押し上げた歴史的決戦とされています。
1709年
大北方戦争
ポルタヴァの戦い
1775年
アメリカ独立戦争: 第二次大陸会議がイギリス王ジョージ3世にオリーブの枝請願を送る。
アメリカ独立戦争中、第二次大陸会議がイギリス王に最後の和解を求める請願書を送った外交的試みです。
1775年7月8日、第二次大陸会議はイギリス国王ジョージ3世に『オリーブの枝請願』を正式に送付しました。請願はジョン・ディキンソンらにより起草され、植民地側の忠誠を示しつつ英議会の圧政に抗議し和平を訴える内容でした。この提案はボストン包囲戦後の緊張緩和を目指す最後の努力として多くの支持を集めました。しかし王室側は請願を受理せず、無視したことで両者の対立は決定的となります。この後、植民地側では独立の声が一層強まり、翌1776年の独立宣言発布へとつながりました。
1775年
アメリカ独立戦争
大陸会議
ジョージ3世
オリーブの枝請願
1776年
アメリカ合衆国ペンシルベニア州フィラデルフィアでアメリカ独立宣言の朗読が行われ、自由の鐘が鳴らされる。
フィラデルフィアで宣言の公開朗読が行われ、『自由の鐘』が鳴らされたと伝えられる歴史的瞬間です。
1776年7月8日、ペンシルベニア州フィラデルフィアの州会議事堂前でアメリカ独立宣言の最初の公的朗読が行われました。ジョン・ニクソンやイスラエル・プットナムらが読み上げ、市民たちは自由への希望を胸に熱狂的な歓迎を示しました。朗読後、会議事堂の鐘楼から『自由の鐘』が鳴らされたと伝えられ、この出来事は独立の象徴として語り継がれています。宣言は当初約200部が配布され、植民地全域に急速に広まりました。この公開朗読は新生アメリカ合衆国の誕生を祝う最初の大規模な公的イベントでした。
1776年
アメリカ合衆国
ペンシルベニア州
フィラデルフィア
アメリカ独立宣言
自由の鐘
1815年
ナポレオンの百日天下が終わったことにより、ルイ18世がパリに帰還して国王に復位。
ナポレオンの百日天下終結に伴い、ルイ18世がパリに帰還して王政が復古した出来事です。
1815年7月8日、エルバ島の幽閉から逃れたナポレオンが敗北を喫した後、ブルボン朝のルイ18世がパリに凱旋し、王位に復帰しました。ナポレオンは6月22日に二度目の退位を宣言し、一時的に王政が再興されました。ルイ18世は1814年に発布された憲章を維持しつつ統治を再開し、パリ市民から熱烈な歓迎を受けました。王政復古はウィーン体制下でヨーロッパの再構築を象徴し、フランス国内の政治的安定化に寄与しました。これによりナポレオン戦争後のフランスは再び王政国家としての体制を強固にしました。
1815年
ナポレオン
百日天下
ルイ18世
1833年
ロシアとオスマン帝国がウンキャル・スケレッシ条約に調印。
ロシア帝国とオスマン帝国がウンキャル・スケレッシ条約を結び、軍事同盟を締結した外交協定です。
1833年7月8日、ロシア皇帝ニコライ1世とオスマン帝国がウンキャル・スケレッシ条約に調印しました。条約ではオスマン帝国がロシアと相互防衛を約束し、双方が外部の侵略に対抗する協力体制を築くことが盛り込まれました。特にボスポラス海峡とダーダネルス海峡の通航問題が焦点となり、ロシア艦隊の通行権が認められました。この協定は西欧列強の不安を招き、『東方問題』の一端を形成しました。東地中海の勢力均衡を大きく変え、その後の欧州外交に影響を与えました。
1833年
ロシア
オスマン帝国
ウンキャル・スケレッシ条約
嘉永6年6月3日
黒船来航: マシュー・ペリー率いるアメリカ海軍所属の東インド艦隊艦船(黒船)4隻が、江戸湾浦賀湾に来航。
マシュー・ペリー率いるアメリカ海軍の黒船4隻が浦賀に来航し、日本の鎖国体制に揺さぶりをかけました。
1853年7月8日(嘉永6年6月3日)、マシュー・ペリー提督率いるアメリカ海軍東インド艦隊の蒸気軍艦4隻が江戸湾浦賀沖に到着しました。黒船と呼ばれたこれらの艦船は最新鋭の蒸気装置を備え、展示した軍事力で幕府へ開国を迫りました。ペリーは幕府に親書を手交し、貿易の再開や領事裁判権などを要求しました。この来航は約250年間続いた日本の鎖国体制を揺るがし、翌年に日米和親条約締結への道を開きました。近代日本の幕開けを象徴する歴史的な一幕です。
1853年
嘉永
6月3日
黒船来航
マシュー・ペリー
アメリカ海軍
東インド艦隊
黒船
江戸湾
浦賀
1859年
スウェーデン=ノルウェー王オスカル1世が死去。子のカール15世(ノルウェー王としてはカール4世)が即位。
King Oscar I of Sweden and Norway died, and his son Charles XV ascended to the throne.
On July 8, 1859, King Oscar I passed away after a reign marked by liberal reforms and efforts to modernize his kingdoms. He was known for promoting religious tolerance, press freedom, and infrastructure improvements across Sweden and Norway. His death initiated a smooth transition of power to his son, Charles XV (known as Charles IV in Norway). The new monarch continued to balance progressive policies with traditional monarchy. This change of leadership reinforced stability within the Swedish-Norwegian union during a period of shifting European politics.
1859年
スウェーデン=ノルウェー
オスカル1世
カール15世
元治元年6月5日
池田屋事件がおこる。
Shogunate forces raided the Ikedaya Inn in Kyoto, thwarting a planned arson and kidnapping plot by pro-imperial samurai.
On July 8, 1864, during the late Edo period, the Shinsengumi and Kyoto police launched a surprise raid on the Ikedaya Inn where radical Chōshū samurai had gathered. The insurgents were accused of plotting to burn significant parts of Kyoto and kidnap court officials to challenge the shogunate. The ensuing clash resulted in several fatalities and numerous arrests, highlighting the escalating violence between pro-imperial and shogunate factions. This incident boosted the Shinsengumi’s reputation as a disciplined policing force and intensified political tensions that contributed to the eventual Meiji Restoration.
1864年
元治
6月5日
池田屋事件