1189年
ヘンリー2世の逝去に伴い、リチャード1世がイングランド王に即位。なお、ウェストミンスター寺院での戴冠日は同年9月3日。
1189年7月6日に父ヘンリー2世が逝去し、リチャード1世がイングランド王位を継承しました。戴冠式は同年9月3日にウェストミンスター寺院で行われています。
リチャード1世(獅子心王)はイングランド王ヘンリー2世の息子として幼少期を過ごし、1189年7月6日に父の死去に伴い王位を継承しました。当時のイングランド王権は国内外で強い影響力を持ち、リチャードは後に第三回十字軍で活躍する武勇家として知られます。戴冠式は同年9月3日にウェストミンスター寺院で執り行われ、中世イングランド王権を象徴する重要儀礼でした。新王即位はプランタジネット朝の勢力基盤を維持し、ヨーロッパ政治にも大きな影響を与えました。リチャードの統治は短期間ながらも華々しく、その後の歴史的評価は英雄的なイメージと結びついています。
1189年
ヘンリー2世
リチャード1世
イングランド
ウェストミンスター寺院
9月3日
1253年
初代リトアニア王ミンダウガスが戴冠。
1253年7月6日、ミンダウガスがリトアニア大公から初代王に戴冠し、王国が成立しました。リトアニア国家の国際的地位向上を象徴する出来事です。
ミンダウガスはリトアニアの統一を進めた大公であり、教皇インノケンティウス4世の支援を得てローマ・カトリックに改宗しました。1253年7月6日にクライペダ近郊で戴冠式が行われ、初代リトアニア王として正式に認められました。王国の成立は北東ヨーロッパにおけるリトアニアの政治的地位を大いに高め、東欧諸国との外交関係構築に寄与しました。ミンダウガス王政時代は内部の統治体制整備と外敵への防衛強化が進められ、国家形成期の重要な節目となりました。
1253年
リトアニア
ミンダウガス
正和元年6月2日
北条宗宣の出家に伴い、北条煕時が鎌倉幕府第12代執権に就任。
1312年7月6日、北条煕時が第12代執権に就任し、鎌倉幕府の実権を掌握しました。出家した前執権・北条宗宣の後任として就任しました。
北条氏の有力一族に属する北条宗宣が出家したことにより、若年の北条煕時が1312年7月6日に鎌倉幕府第12代執権に就任しました。執権は鎌倉幕府で将軍を補佐し、実質的な政治権力を握る役職であり、北条氏一門の専横が進む要因となりました。煕時就任後も北条氏による幕政の安定維持や御家人統制が継続し、鎌倉時代後期の政治基盤が強化されました。出家と執権交代は幕府内部の権力構造を再編する契機となり、以降の鎌倉幕府政治に影響を与えました。
1312年
正和
6月2日
北条宗宣
北条煕時
執権
1483年
イングランド王リチャード3世が戴冠。
1483年7月6日にヨーク家出身のリチャード3世がイングランド王に戴冠しました。甥エドワード5世を廃位した後の即位です。
リチャード3世はヨーク朝第3代国王であり、先代エドワード4世の弟として1483年7月6日に王位につきました。当初、王太子エドワード5世の摂政を務めていたものの、王位継承を廃し自ら即位しました。有名な「ロンドン塔の王子たち」の失踪事件はリチャードの治世に暗い影を落とし、後世に怪しい評判を残しています。戴冠式はウェストミンスター寺院で行われ、新国王の権威を内外に示しました。しかし在位わずか2年弱で1485年のボズワースの戦いで敗れ、プランタジネット朝は終焉を迎えました。彼の短い治世は中世イングランド史上最大のミステリーの一つとして語り継がれています。
1483年
リチャード3世
1535年
トマス・モアが外患罪で処刑される。
1535年7月6日、イングランドの法学者トマス・モアが国王ヘンリー8世への反逆罪で処刑されました。
トマス・モアは著書『ユートピア』で知られる法学者・政治家であり、カトリック教会への強い忠誠を示していました。1534年、ヘンリー8世の教会首長法による宗教改革を拒否し、自らをローマ教皇の臣下と認め続けたため、外患罪と反逆罪に問われました。翌1535年7月6日、ロンドン塔近郊のタワーヒルで斬首刑に処され、その生涯を閉じました。死後、カトリック教会により殉教者とみなされ、1935年には聖人に列せられています。政治倫理と信仰的良心の対立を象徴する事件として、後世に大きな影響を与えました。
1535年
トマス・モア
外患罪
1758年
クレメンス13世がローマ教皇に即位。
1758年7月6日、カルロ・デ・ドゥッティスベッロが教皇クレメンス13世として即位しました。
教皇クレメンス13世は1758年7月6日に選出され、ローマ教皇庁の第248代教皇として即位しました。本名はカルロ・デ・ドゥッティスベッロで、神学的保守派としてイエズス会の保護を強めました。在位中は啓蒙主義的圧力に対抗し、教皇権の維持を図りました。芸術や学問の保護者としても知られ、バチカン図書館の整備や教会慣習の厳格化に努めました。1769年2月に亡くなるまで、教会改革と外交関係の均衡を追求しました。彼の教皇職はカトリック教会の近代化への足がかりとも評価されます。
クレメンス13世
ローマ教皇
1854年
アメリカ合衆国ミシガン州・ジャクソンでおよそ1万人が参加する共和党大会が開かれ、共和党が正式に結成された。
ミシガン州ジャクソンで開催された大会で、共和党が正式に設立されました。
1854年7月6日、当時奴隷制度拡張に反対するウィグ党、自由土壌党、反ネブラスカ民主党のメンバーら約1万人がミシガン州ジャクソンに結集しました。
彼らはカンザス・ネブラスカ法に反対する新党結成を宣言し、「共和党」の名前を採用。
会議では党綱領が採択され、奴隷制度拡大反対を明確に打ち出しました。
これが後のアメリカ二大政党の一つ、共和党の正式な誕生となりました。
共和党は翌年の中間選挙で勢力を拡大し、1860年にはリンカーンを大統領に輩出しました。
1854年
アメリカ合衆国
ミシガン州
ジャクソン
共和党
1887年
ハワイ王国国王カラカウアが、アメリカ系移民の蜂起に押され、アメリカ人の権利を大幅に認めハワイ国民の権利を奪う銃剣憲法に署名。
ハワイ王国のカラカウア国王が『銃剣憲法』に署名し、王権が大幅に抑制されました。
1887年7月6日、ハワイの武装移民組織『ホノルル護国隊』の蜂起により、国王カラカウアは妥協を余儀なくされました。
彼は『銃剣憲法』(Bayonet Constitution)に署名し、実質的に外国人と資産家に大きな政治権を付与。
一方、多くのハワイ先住民の参政権は制限され、王権は著しく削減されました。
この憲法改正は後の王政転覆とアメリカ合衆国による併合への道を開く契機となりました。
ハワイの主権を巡る国際情勢に深い影響を与えた政治的事件です。
1887年
ハワイ王国
カラカウア
銃剣憲法
英語版
1940年
社会大衆党が解党し、大政翼賛会に合流。
1940年7月6日、社会大衆党が解党し、戦時体制強化を目的とした大政翼賛会に合流した政治的転換点。
1940年7月6日、社会大衆党は自主的に解党を決定し、政党を離脱。
解党後、党員らは政府主導の大政翼賛会へと参加し、統制政治体制への協力を表明した。
大政翼賛会は第二次世界大戦中の国民統合を目的に設立され、事実上の一党体制を形成。
社会大衆党の合流は、多党制の崩壊と戦時下における政治統制の強化を象徴する出来事となった。
この動きは、日本国内の政治方向を一元化し、国民の結束と戦意高揚を図る狙いがあった。
1940年
社会大衆党
大政翼賛会
1943年
創価教育学会(創価学会の前身)の創立者である牧口常三郎と戸田城聖が治安維持法違反で逮捕される。
1943年7月6日、創価教育学会創立者の牧口常三郎と戸田城聖が治安維持法違反で逮捕された。
1943年7月6日、仏教運動団体・創価教育学会の創立者である牧口常三郎と戸田城聖が逮捕された。
当時の治安維持法は思想・言論の統制を目的とし、政府批判や集会を厳しく規制していた。
牧口と戸田は学会活動が「非政府的結社」とみなされ、弾圧対象とされた。
牧口常三郎は拷問を受け獄中で処刑され、戸田城聖は終戦後に釈放された。
この事件は戦時下における宗教団体への弾圧と信教の自由制限を象徴する出来事として知られる。
1943年
創価教育学会
創価学会
牧口常三郎
戸田城聖
治安維持法
1949年
下山事件。前日から行方不明となっていた国鉄総裁の下山定則が轢死体で発見される。
1949年7月6日、国鉄総裁・下山定則が行方不明の末、線路上で轢死体として発見された「下山事件」が発生。
1949年7月6日、翌日から行方不明となっていた国鉄総裁の下山定則の死体が鉄道線路上で発見された。
下山は歴史的資産の返還計画を巡る官僚・政治家間の対立に巻き込まれていたとされる。
死因は列車による轢死とされたが、自殺説や他殺説など多くの謎を残している。
当時の捜査は不十分と批判され、真相は未だに解明されていない。
この事件は戦後日本の政治腐敗や権力闘争を象徴するミステリーとして知られる。
1949年
下山事件
国鉄
下山定則
1950年
ポーランドと東ドイツがズゴジェレツ条約を締結。オーデル・ナイセ線を両国の国境として確認しあうも西ドイツは受け入れず。
1950年7月6日、ポーランドと東ドイツはズゴジェレツ条約を締結し、オーデル・ナイセ線を国境と定めました。西ドイツはこの線を承認せず、ヨーロッパの戦後処理に影を落としました。
ポーランドと東ドイツは第二次世界大戦後の国境問題を解決するためズゴジェレツ条約を締結しました。
この条約により両国はオーデル川からナイセ川を国境線と公式に確認しました。
しかし、当時まだ国家として完全に再建途上にあった西ドイツは戦後国境の正当性を認めず、条約を不承認としました。
西ドイツの非承認はドイツ統一と東西ドイツ間の緊張を長期化させる一因となりました。
この条約は冷戦下の東欧における領土問題を象徴する重要な出来事とされています。
1950年
ポーランド
東ドイツ
オーデル・ナイセ線
西ドイツ