1189年

ヘンリー2世の逝去に伴い、リチャード1世がイングランド王に即位。なお、ウェストミンスター寺院での戴冠日は同年9月3日。

1189年7月6日に父ヘンリー2世が逝去し、リチャード1世がイングランド王位を継承しました。戴冠式は同年9月3日にウェストミンスター寺院で行われています。
リチャード1世(獅子心王)はイングランド王ヘンリー2世の息子として幼少期を過ごし、1189年7月6日に父の死去に伴い王位を継承しました。当時のイングランド王権は国内外で強い影響力を持ち、リチャードは後に第三回十字軍で活躍する武勇家として知られます。戴冠式は同年9月3日にウェストミンスター寺院で執り行われ、中世イングランド王権を象徴する重要儀礼でした。新王即位はプランタジネット朝の勢力基盤を維持し、ヨーロッパ政治にも大きな影響を与えました。リチャードの統治は短期間ながらも華々しく、その後の歴史的評価は英雄的なイメージと結びついています。
1189年 ヘンリー2世 リチャード1世 イングランド ウェストミンスター寺院 9月3日
承久3年6月15日

承久の乱が終結。北条泰時・時房の鎌倉幕府軍が後鳥羽上皇方を破って京都を占領して常駐し、後の六波羅探題となる。

1221年7月6日に承久の乱が終結し、北条泰時・時房が率いる幕府軍が後鳥羽上皇方を破りました。これにより幕府は京都に常駐する六波羅探題を設置しました。
承久の乱は1221年、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して軍事行動を起こした国内最大級の朝幕抗争でした。北条泰時・時房率いる幕府軍は優れた戦略と兵力を背景に京都に進軍し、7月6日に後鳥羽上皇方を破りました。戦後、幕府は京都に常設の監視機関として六波羅探題を設置し、公武一体の支配体制を強化しました。これにより朝廷の政治的実権は大幅に縮小され、鎌倉幕府の支配体制が全国に確立される契機となりました。鎌倉時代中期における幕府の権威と統治機構の発展が象徴される事件です。
1221年 承久 6月15日 承久の乱 後鳥羽上皇 六波羅探題
1253年

初代リトアニア王ミンダウガスが戴冠。

1253年7月6日、ミンダウガスがリトアニア大公から初代王に戴冠し、王国が成立しました。リトアニア国家の国際的地位向上を象徴する出来事です。
ミンダウガスはリトアニアの統一を進めた大公であり、教皇インノケンティウス4世の支援を得てローマ・カトリックに改宗しました。1253年7月6日にクライペダ近郊で戴冠式が行われ、初代リトアニア王として正式に認められました。王国の成立は北東ヨーロッパにおけるリトアニアの政治的地位を大いに高め、東欧諸国との外交関係構築に寄与しました。ミンダウガス王政時代は内部の統治体制整備と外敵への防衛強化が進められ、国家形成期の重要な節目となりました。
1253年 リトアニア ミンダウガス
正和元年6月2日

北条宗宣の出家に伴い、北条煕時が鎌倉幕府第12代執権に就任。

1312年7月6日、北条煕時が第12代執権に就任し、鎌倉幕府の実権を掌握しました。出家した前執権・北条宗宣の後任として就任しました。
北条氏の有力一族に属する北条宗宣が出家したことにより、若年の北条煕時が1312年7月6日に鎌倉幕府第12代執権に就任しました。執権は鎌倉幕府で将軍を補佐し、実質的な政治権力を握る役職であり、北条氏一門の専横が進む要因となりました。煕時就任後も北条氏による幕政の安定維持や御家人統制が継続し、鎌倉時代後期の政治基盤が強化されました。出家と執権交代は幕府内部の権力構造を再編する契機となり、以降の鎌倉幕府政治に影響を与えました。
1312年 正和 6月2日 北条宗宣 北条煕時 執権
1483年

イングランド王リチャード3世が戴冠。

1483年7月6日にヨーク家出身のリチャード3世がイングランド王に戴冠しました。甥エドワード5世を廃位した後の即位です。
リチャード3世はヨーク朝第3代国王であり、先代エドワード4世の弟として1483年7月6日に王位につきました。当初、王太子エドワード5世の摂政を務めていたものの、王位継承を廃し自ら即位しました。有名な「ロンドン塔の王子たち」の失踪事件はリチャードの治世に暗い影を落とし、後世に怪しい評判を残しています。戴冠式はウェストミンスター寺院で行われ、新国王の権威を内外に示しました。しかし在位わずか2年弱で1485年のボズワースの戦いで敗れ、プランタジネット朝は終焉を迎えました。彼の短い治世は中世イングランド史上最大のミステリーの一つとして語り継がれています。
1483年 リチャード3世
1535年

トマス・モアが外患罪で処刑される。

1535年7月6日、イングランドの法学者トマス・モアが国王ヘンリー8世への反逆罪で処刑されました。
トマス・モアは著書『ユートピア』で知られる法学者・政治家であり、カトリック教会への強い忠誠を示していました。1534年、ヘンリー8世の教会首長法による宗教改革を拒否し、自らをローマ教皇の臣下と認め続けたため、外患罪と反逆罪に問われました。翌1535年7月6日、ロンドン塔近郊のタワーヒルで斬首刑に処され、その生涯を閉じました。死後、カトリック教会により殉教者とみなされ、1935年には聖人に列せられています。政治倫理と信仰的良心の対立を象徴する事件として、後世に大きな影響を与えました。
1535年 トマス・モア 外患罪
1758年

フレンチ・インディアン戦争:カリヨンの戦いがはじまる。

1758年7月6日、七年戦争北米戦線の一局面であるカリヨンの戦いが始まりました。
カリヨンの戦いは、北米大陸での英仏対立(フレンチ・インディアン戦争)の重要な戦闘です。1758年7月6日、イギリス軍のジェームズ・アバクロンビー将軍率いる大軍がニューヨーク州チャンプレーン湖畔のカルレオン要塞を攻撃しました。要塞はフランス軍と現地同盟インディアンの連合部隊により堅固に防御されており、英国側は甚大な損害を被りました。結果的に英国軍は撤退を余儀なくされ、フランスは一時的に地域防衛に成功しました。この勝利はフランス側の士気を高め、七年戦争における北米戦線の帰趨に影響を与えました。
1758年 フレンチ・インディアン戦争 カリヨンの戦い
1758年

クレメンス13世がローマ教皇に即位。

1758年7月6日、カルロ・デ・ドゥッティスベッロが教皇クレメンス13世として即位しました。
教皇クレメンス13世は1758年7月6日に選出され、ローマ教皇庁の第248代教皇として即位しました。本名はカルロ・デ・ドゥッティスベッロで、神学的保守派としてイエズス会の保護を強めました。在位中は啓蒙主義的圧力に対抗し、教皇権の維持を図りました。芸術や学問の保護者としても知られ、バチカン図書館の整備や教会慣習の厳格化に努めました。1769年2月に亡くなるまで、教会改革と外交関係の均衡を追求しました。彼の教皇職はカトリック教会の近代化への足がかりとも評価されます。
クレメンス13世 ローマ教皇
1785年

ドルをアメリカ合衆国の通貨とすることを議会が決定。

1785年7月6日、アメリカ合衆国議会がドルを国家通貨として正式に採用する決議を可決しました。
アメリカ合衆国議会は1785年7月6日、貨幣単位として「ドル」を採用する法案を可決しました。当時はスペイン領の8レアル銀貨(通称スペイン・ドル)が流通の中心であり、これを基準とした十進法貨幣制度が導入されました。新通貨制度は統一的な経済基盤の整備を目的とし、州間の商取引や税制の簡素化に寄与しました。1792年の米国造幣法成立に先立つ重要な前段階であり、連邦政府の財政運営能力向上につながりました。ドルの制定は後の世界的な基軸通貨としての地位確立への第一歩とも言えます。
1785年 ドル アメリカ合衆国 通貨
寛政2年5月24日

寛政の改革:寛政異学の禁がはじまり昌平坂学問所で朱子学以外の学問の教授が禁じられる。

1790年7月6日、寛政の改革の一環として昌平坂学問所で朱子学以外の教授を禁じる寛政異学の禁が始まりました。
寛政異学の禁は幕府老中松平定信が推進した寛政の改革の一環で、1790年7月6日に施行されました。昌平坂学問所では朱子学以外の学派の講義が禁止され、神道学や国学などの研究が制限されました。この政策は幕府の思想統制と道徳規範の強化を目的としており、学問の自由を大きく制限しました。学問所の学生や師範は定められた学説以外を口にすることを戒められ、幕府に忠実な人材育成が図られました。寛政異学の禁は幕末まで続き、後に学問の多様化を阻害したとして批判の対象となりました。
1790年 寛政 5月24日 寛政の改革 寛政異学の禁 昌平坂学問所 朱子学
1801年

ナポレオン戦争:アルヘシラス湾の戦いが始まる。

南スペインのアルヘシラス湾で、ナポレオン戦争期の海戦が始まりました。
1801年7月6日、スペイン南部アルヘシラス湾でイギリス海軍とフランス・スペイン連合艦隊が衝突しました。 指揮官はイギリス側がサウマレイズ提督、連合側はリノー提督とラングラ将軍でした。 第1回戦では連合軍が勝利しましたが、7月12日の第2回戦でイギリスが反撃に成功。 この一連の海戦は敵艦隊の運用や新たな戦術を生み、後の海上作戦に影響を与えました。 ナポレオン戦争における重要な海戦の一つです。
1801年 ナポレオン戦争 アルヘシラス湾の戦い 英語版
1854年

アメリカ合衆国ミシガン州・ジャクソンでおよそ1万人が参加する共和党大会が開かれ、共和党が正式に結成された。

ミシガン州ジャクソンで開催された大会で、共和党が正式に設立されました。
1854年7月6日、当時奴隷制度拡張に反対するウィグ党、自由土壌党、反ネブラスカ民主党のメンバーら約1万人がミシガン州ジャクソンに結集しました。 彼らはカンザス・ネブラスカ法に反対する新党結成を宣言し、「共和党」の名前を採用。 会議では党綱領が採択され、奴隷制度拡大反対を明確に打ち出しました。 これが後のアメリカ二大政党の一つ、共和党の正式な誕生となりました。 共和党は翌年の中間選挙で勢力を拡大し、1860年にはリンカーンを大統領に輩出しました。
1854年 アメリカ合衆国 ミシガン州 ジャクソン 共和党