1811年
ベネズエラがスペインからの独立を宣言。1821年に承認される。
ベネズエラがスペイン帝国からの独立を宣言し、中南米の独立運動が加速しました。
1811年7月5日、カラカスを中心とするベネズエラ州はスペインからの独立を宣言しました。
この動きはシモン・ボリバルやフランシスコ・デ・ミランダら独立指導者の影響を受けています。
独立宣言は1821年のベイオの戦い後にスペイン軍により正式承認されました。
ベネズエラ独立はラテンアメリカにおける独立運動の先駆けとなり、多くの地域に波及しました。
スペイン植民地支配からの解放を目指す動きが中南米全域で加速しました。
1811年
ベネズエラ
スペイン
独立
文久元年5月28日
第一次東禅寺事件。
幕末期、尊王攘夷派志士がアメリカ公使タウンゼント・ハリスを襲撃しようとした事件が発生しました。
1861年7月5日(文久元年5月28日)、江戸幕府と開国派のアメリカ公使タウンゼント・ハリスを標的とした尊王攘夷派志士による攻撃事件が東禅寺で発生しました。
襲撃隊は幕府の対応に不満を抱き、公使の排斥を目指して行動を起こしました。
しかし襲撃は未遂に終わり、関与した志士たちは捕縛されました。
この事件は幕府内外で攘夷論と開国派の対立を浮き彫りにし、その後の外交政策に影響を与えました。
幕末の緊張感を象徴する一連の事件の先駆けとされます。
1861年
文久
5月28日
第一次東禅寺事件
文久3年5月20日
朔平門外の変。尊王攘夷を唱える公家姉小路公知が、禁裏朔平門外の猿ヶ辻で暗殺される。(猿ヶ辻の変ともいう。)
尊王攘夷を唱える公家姉小路公知が朔平門外で暗殺されました。
1863年7月5日(文久3年5月20日)、京都の朔平門外猿ヶ辻で公家の姉小路公知が暗殺されました。
暗殺者は尊王攘夷派とされ、幕府と朝廷の複雑な権力闘争が背景にありました。
公知は尊皇思想を掲げながらも、攘夷派内外の対立に巻き込まれていました。
事件は攘夷運動の過激化を示し、政治的混乱を一層深刻化させる要因となりました。
幕末の暗殺事件の一つとして歴史に刻まれています。
1863年
5月20日
朔平門外の変
尊王攘夷
公家
姉小路公知
禁裏
猿ヶ辻
暗殺
1884年
カメルーン全土がドイツの勢力下に置かれる。
カメルーン全土がドイツ帝国の保護領となり、植民地支配が本格化しました。
1884年7月5日、ドイツ帝国はビスマルク政権の下でカメルーン全土を保護領と宣言しました。
これによりドイツは西アフリカにおける植民地支配を強化し、資源開発と交易収益を目指しました。
現地の諸部族や王国との間で条約締結が進められ、支配体制が構築されました。
ドイツ植民地時代の行政組織やインフラ整備は、後のフランス・英国との委任統治期にも影響を及ぼしました。
カメルーンの歴史における植民地期の出発点です。
1884年
カメルーン
ドイツ
1935年
アメリカで労働者の団結権・団体交渉権を保証する「全国労働関係法」(ワグナー法)が施行。
アメリカで労働者の団結権と団体交渉権を法的に保証する「全国労働関係法」(ワグナー法)が施行された歴史的な一日。
1935年7月5日に施行された全国労働関係法(ワグナー法)は、ニューディール政策の一環として制定されました。
この法律は労働組合の結成と使用者との団体交渉を連邦政府が法的に認めた初の枠組みです。
労働関係委員会(NLRB)の設置により、労働者の権利保護の仕組みが整備されました。
アメリカの労働運動に深い影響を与え、現代の労働法制の基盤を築きました。
労働環境や労使関係のあり方を大きく変えた歴史的な出来事です。
1935年
アメリカ
団結権
団体交渉権
全国労働関係法
1936年
陸軍軍法会議が磯部浅一ら二・二六事件の軍関係者17人に死刑判決。
二・二六事件の関係者17人に対し陸軍軍法会議が死刑判決を言い渡した。
1936年7月5日、二・二六事件に関与した軍関係者17人に対し、陸軍軍法会議で死刑判決が下されました。
この事件は昭和11年(1936年)に皇道派青年将校らが首相官邸などを襲撃したクーデター未遂事件です。
軍法会議は決起する軍内部の勢力を一掃し、統制を回復する狙いで厳罰を科しました。
磯部浅一をはじめとする主要指導者が処刑され、軍による政治介入の抑止を図りました。
この判決は昭和維新への反動として位置づけられ、対立する軍部内勢力の均衡を左右しました。
1936年
陸軍
軍法会議
磯部浅一
二・二六事件
死刑
1955年
法制審議会民法部会、選択的夫婦別姓を認める案を論議。
法制審議会の審議で選択的夫婦別姓制度案が論議された。
1955年7月5日、法制審議会民法部会で夫婦の姓を別にできる選択的夫婦別姓案が議論されました。
当時の民法では夫婦同姓が原則とされており、性別役割分担意識が強い社会背景がありました。
法制審は個人の尊厳や男女平等の観点から制度導入の是非を検討しました。
しかし最終的には現行同姓制を維持する結論となり、案は採用されませんでした。
この論議は日本の家族法制とジェンダー論議の重要な転換期と位置づけられています。
1955年
夫婦別姓
1962年
アルジェリアがフランスより独立。
1962年7月5日、アルジェリアがフランスからの独立を正式に達成しました。
アルジェリアは1954年から独立戦争を展開し、1962年にエヴィアン協定を締結しました。
同年7月5日、フランスとの間で独立が承認され、アルジェリア民主人民共和国が誕生しました。
初代大統領にはフランス領時代の指導者アフメド・ベン・ベラが就任しました。
独立は長年にわたる抗争の終結を意味し、アフリカ各地の脱植民地化に大きな影響を与えました。
現在のアルジェリア国家の基礎が築かれた日です。
1962年
アルジェリア
フランス
1966年
インドネシアのスカルノが終身大統領の称号を剥奪される。スハルト陸相が大統領代行に指名される。
1966年7月5日、インドネシアでスカルノ大統領の終身大統領称号が剥奪され、スハルトが大統領代行に就任しました。
1965年のクーデター未遂事件後、インドネシア国内では権力闘争が激化しました。
スカルノは国軍との対立で影響力を失い、1966年7月5日に制憲議会で終身大統領の称号が剥奪されました。
同日、スハルト陸軍参謀総長が大統領代行に指名され、実質的な政権を掌握しました。
この出来事は『ニューオーダー体制』への移行を決定づけ、以後スハルト時代が続きます。
インドネシア政治史における大きな転換点です。
1966年
インドネシア
スカルノ
スハルト
1973年
ジュベナール・ハビャリマナがルワンダの第3代大統領に就任。
1973年7月5日、ジュベナール・ハビャリマナがルワンダの第3代大統領に就任しました。
1973年7月、ハビャリマナ将軍は軍事クーデターにより前政権を打倒しました。
同年7月5日に正式に大統領に就任し、Hutuが主導する政治体制を確立しました。
ハビャリマナ政権は経済発展と国内安定を掲げましたが、同時に民族対立も内包していました。
長期政権を築き、後の政治的緊張や深刻な人道危機への伏線ともなりました。
ルワンダ現代史において重大な転換点です。
1973年
ジュベナール・ハビャリマナ
ルワンダ
1975年
カーボベルデがポルトガルより独立。
1975年7月5日、カーボベルデがポルトガルからの独立を達成しました。
西アフリカの島嶼国カーボベルデは長年ポルトガルの植民地でした。
独立運動を展開していたPAIGCの指導で、1975年に平和裏に独立が認められました。
同年7月5日、正式にカーボベルデ共和国が成立しました。
初代大統領にはアンタォニオ・スペイミラ・グラサが就任しました。
独立後は観光業や漁業などで経済基盤を模索する時代が始まりました。
1975年
カーボベルデ
ポルトガル
1977年
パキスタンでムハンマド・ジア=ウル=ハク将軍がクーデターを起こし、ズルフィカール・アリー・ブットー首相ら閣僚を逮捕。
1977年にパキスタンでムハンマド・ジア=ウル=ハク将軍が実行した軍事クーデター。ズルフィカール・アリー・ブットー首相らが逮捕され、政権が崩壊。
1977年7月5日、パキスタン陸軍のムハンマド・ジア=ウル=ハク将軍がクーデターを起こしました。
ズルフィカール・アリー・ブットー首相をはじめとする政府閣僚が相次いで逮捕され、政府機能が麻痺。
これによりブットー政権は崩壊し、ジア=ウル=ハクは実権を掌握しました。
彼は大統領兼最高司令官として軍事独裁体制を築き、強権政治を展開。
このクーデターがパキスタンの政治に及ぼした影響は、後の政情不安定化につながりました。
1977年
パキスタン
ムハンマド・ジア=ウル=ハク
クーデター
ズルフィカール・アリー・ブットー