正慶2年/元弘3年5月22日

鎌倉幕府が滅亡。新田義貞が鎌倉に攻め込み北条高時ら一族約800人が自刃(東勝寺合戦)。

新田義貞が鎌倉を攻め落とし、東勝寺合戦により北条氏一族が自刃、鎌倉幕府が滅亡しました。
1333年7月4日、正慶2年/元弘3年5月22日、鎌倉幕府は新田義貞の鎌倉攻めを許し、倒幕の大きな転機を迎えました。 新田勢は激戦の末に東勝寺を占拠し、北条高時ら一族約800人が自刃しました。 これにより約150年間続いた鎌倉幕府は終焉を迎え、後の建武の新政への道が開かれました。 天皇中心の政治体制への復帰を目指したこの動きは、武家政権から天皇親政への変化を象徴します。 しかし間もなく足利尊氏の反乱により新政は挫折し、室町時代へと移行していきます。
1333年 正慶 元弘 5月22日 鎌倉幕府 新田義貞 北条高時 東勝寺合戦
寛永12年5月20日

江戸幕府が第3次鎖国令を発布。日本人の東南アジア方面への海外渡航・渡航者の帰国・長崎以外への外国商船入港を禁止。

江戸幕府が第3次鎖国令を発布しました。 日本人の海外渡航や帰国を全面的に禁止する法令です。
1635年7月4日、江戸幕府は第3次鎖国令を発布し、海外渡航の厳禁を強化しました。 日本人の東南アジア方面への渡航および渡航者の帰国を禁止しました。 これにより海外にいた日本人の帰国は許されず、国外コミュニティが断絶されました。 また長崎以外の港での外国船の出入りも禁じられ、貿易は長崎に限定されました。 鎖国体制は約200年間続き、江戸時代の社会や文化に大きな影響を与えました。
1635年 寛永 5月20日 第3次鎖国令
1776年

アメリカ独立宣言公布。アメリカ合衆国がイギリスからの独立を宣言。1783年に承認される。

アメリカ独立宣言が採択され、13植民地のイギリスからの独立が宣言されました。 後にアメリカ合衆国の建国記念日となります。
1776年7月4日、第二次大陸会議においてトマス・ジェファーソンらが起草した独立宣言が採択されました。 これにより13の北米植民地はイギリスとの政治的結びつきを断ち、主権国家としての地位を主張しました。 独立戦争は引き続き戦われ、1783年にパリ条約で正式にイギリスが独立を承認しました。 この日は後にアメリカ合衆国の独立記念日(Independence Day)として祝日となりました。 宣言書は自由、平等、追求の幸福などの理念を掲げ、世界に大きな影響を与えました。
1776年 アメリカ独立宣言 アメリカ合衆国 イギリス 1783年
1782年

第2代シェルバーン伯ウィリアム・ペティがイギリスの14代首相に就任。

第2代シェルバーン伯ウィリアム・ペティがイギリス首相に就任しました。 独立戦争終結に向けた和平交渉を指導しました。
1782年7月4日、第2代シェルバーン伯ウィリアム・ペティがイギリスの第14代首相に就任しました。 彼は前任のロックマンス伯に代わり、アメリカ独立戦争終結に向けた和平交渉を指揮しました。 シェルバーンはのちにアメリカ独立を承認するパリ条約の交渉に重要な役割を果たしました。 在任期間は短かったものの、その政策と外交手腕は高く評価されました。 のちにランズダウン侯に叙せられ、イギリス政治史に名を残しました。
1782年 ウィリアム・ペティ イギリス 首相
1802年

ニューヨーク州ウェストポイントにアメリカ合衆国陸軍士官学校開校。

ウェストポイントにアメリカ陸軍士官学校が開校しました。 後の米軍リーダーを多数輩出する名門校の始まりです。
1802年7月4日、ニューヨーク州ウェストポイントにアメリカ合衆国陸軍士官学校が開校しました。 トーマス・ジェファーソン大統領の署名により、国会で創設が承認されました。 同校は本格的な工学教育も取り入れ、米軍技術力の向上に寄与しました。 開校以来多くの著名な将校を輩出し、南北戦争や両大戦で指導的役割を担いました。 現在もアメリカ陸軍の中核的リーダー養成機関として知られています。
1802年 ニューヨーク州 ウェストポイント アメリカ合衆国陸軍士官学校
1834年

ウィスコンシン準州から分離してアイオワ準州を設置。

ウィスコンシン準州からアイオワ準州が分離・設置され、米国中西部の行政区画が再編されました。
アメリカ合衆国議会により、ウィスコンシン準州の一部が分離されてアイオワ準州が設置されました。 この新設区域はミシシッピ川西岸を含み、当時急速に入植が進んでいた地域を行政管理下に置く目的がありました。 農業開拓が最盛期を迎え、開拓者の安全と土地権利の保護が強化されました。 さらに、将来的な州昇格に向けた準備として憲法制定会議や地方政府の組織化が進められました。 この措置は中西部の人口増加とアメリカの領土拡大政策を象徴する出来事です。
1834年 ウィスコンシン準州 アイオワ準州
1892年

国際日付変更線が西サモアの東から西へ変更される。この年の西サモアでは7月4日が2日間続いた。

国際日付変更線の移動により、西サモアで7月4日が2日間続きました。
イギリス領西サモアにおいて、国際日付変更線が東側から西側へ移動されたことにより、1892年の当該地域では7月4日が2度繰り返されました。 この変更はアメリカ本土との貿易や通信を円滑にする目的で行われ、貿易相手との商業取引時間を統一させる狙いがありました。 日付線の移動に伴い住民は混乱しつつも、新たな暦に順応するための調整が求められました。 この珍しい歴史的出来事は、暦や時間の国際的ルールが政治的・経済的要請によって左右され得ることを物語っています。
1892年 国際日付変更線 西サモア
1894年

サンフォード・ドールがハワイ共和国の建国を宣言。

サンフォード・ドールがハワイ共和国の独立を宣言し、王政時代が終焉しました。
1887年の『ベイヨネット憲法』等を経て、親米派のプランテーション農場主らがクーデターで女王リリウオカラニを追放。 翌1894年7月4日、暫定政府の大統領であったサンフォード・ドールがハワイ共和国の建国を公式に宣言しました。 新共和国はアメリカ合衆国政府との関係強化を目指し、ドールを初代大統領とする体制を確立。 この宣言はハワイ王国の終焉を意味し、1898年のアメリカ併合へと繋がる重要な一歩となりました。 ハワイ独自の主権喪失とアメリカ領への変遷が国際政治にも大きな波紋を投げかけました。
1894年 サンフォード・ドール ハワイ共和国
1910年

第二次日露協約調印。日露両国の満洲での権益の確保を確認。

第二次日露協約が調印され、満洲における日露両国の権益が確定しました。
日露戦争後の両国関係の正常化を図るために結ばれた外交協定です。 満洲における日本とロシアの利益範囲を明確に区分しました。 南満洲鉄道をはじめとする日本の経済的権益と、ロシアの北満洲における影響力を互いに認め合う内容でした。 この協約により列強との競合が一時的に緩和したものの、後の満州事変など歴史的な緊張の火種ともなりました。 国際法や近代条約史の中でも重要な位置を占める一件です。
1910年 第二次日露協約 満洲
1918年

メフメト6世がオスマン帝国の皇帝に即位。

オスマン帝国最後のスルタン、メフメト6世が即位しました。
1918年7月4日、父マフムト6世の死去に伴いメフメト6世が帝位を継承しました。 第一次世界大戦末期の混乱期に即位した最後のオスマン帝国スルタンです。 即位後は連合国との和平交渉や領土問題に奔走しました。 1922年の政変で廃位され、1923年の共和国樹立とともに帝政は終焉を迎えました。 彼の治世は帝国解体の序章として、オスマン史に深い爪痕を残しました。
1918年 メフメト6世 オスマン帝国の皇帝
1927年

インドネシアでスカルノらがインドネシア国民党を結成する。

スカルノらがインドネシア国民党を結成し、独立運動の拠点が形成されました。
1927年7月4日、オランダ領東インド(現インドネシア)でスカルノら青年指導者が中心となり結成されました。 インドネシア国民党は民族主義を掲げ、植民地支配からの独立を目指す政治運動の拠点となりました。 結成当初はオランダ当局による弾圧を受けながらも、教育や出版を通じて支持を拡大しました。 第二次世界大戦後、スカルノは独立の英雄として初代大統領に就任し、共和国樹立へと導きました。 現代インドネシアの政治基盤を築いた歴史的な一歩です。
1927年 インドネシア スカルノ インドネシア国民党
1946年

第三次フィリピン共和国がアメリカ合衆国より独立。

第三次フィリピン共和国がアメリカから独立し、主権を回復しました。
1946年7月4日、フィリピン第三共和国がアメリカ合衆国から独立し、主権を回復しました。 マニラで独立宣言が行われ、マニュエル・ロハスが初代大統領に就任しました。 1898年のスペインからの独立運動以来、アメリカ統治を経て史上初の完全独立を達成しました。 独立後は国連加盟を目指しつつ、米軍基地問題や経済自立の課題に直面しました。 今日のフィリピン国家の基盤を築いた歴史的な転換点です。
1946年 フィリピン