993年
聖ウルリッヒが列聖される。
ローマ教皇ヨハネス15世により正式に列聖されました。
ドイツ・アウクスブルク司教として多くの奇跡伝承が残ります。
キリスト教会で重要な初期の列聖例です。
ウルリッヒは10世紀にアウクスブルクの司教を務め、中でも貧者や病人の救済に尽力しました。
生前には洪水を鎮める奇跡などが伝えられ、当時から信仰の対象となっていました。
993年7月4日、教皇ヨハネス15世はウルリッヒの列聖を正式に宣言しました。
これはローマ教皇による初期の公認列聖の一つとされます。
列聖後もドイツ南部では聖人ウルリッヒの崇敬が続き、祝日や教会に名を残しています。
993年
聖ウルリッヒ
英語版
列聖
1054年
この日から数ケ月にわたり超新星SN 1054が観測され、日中でも確認できるほどの光を放つ。その残滓が現在のかに星雲。
1054年、肉眼で観測できる明るい超新星SN 1054が出現しました。
数カ月間にわたり夜空を輝かせ、日中でも観察されました。
現在ではその残滓がかに星雲と呼ばれています。
1054年7月4日ごろ、SN 1054と呼ばれる超新星が夜空に現れました。
中国やアラブをはじめ世界各地の記録に残され、最大光度はマイナス6等級に達しました。
その明るさは昼間でも目視可能なほどで、数カ月間にわたり観測が続けられました。
超新星爆発後の残滓はかに星雲として知られ、現在も天文学研究の対象となっています。
SN 1054の観測は星の進化や超新星爆発メカニズムの理解に大きく貢献しました。
1054年
超新星
SN 1054
かに星雲
1187年
ヒッティーンの戦い。サラーフッディーンによりエルサレム王国の十字軍が壊滅。
サラーフッディーン率いるアイユーブ朝軍がヒッティーンの戦いで十字軍を撃破しました。
この敗北によりエルサレム王国は壊滅的な打撃を受けました。
ヒッティーンの戦いは1187年7月4日に現在のイスラエル北部で行われました。
サラーフッディーンが率いるムスリム軍とエルサレム王国軍が激突しました。
火山性の丘陵地帯で行われた戦いは十字軍軍の戦術ミスもあり大敗に終わりました。
王国軍は多くの指揮官を失い、多数が捕虜となったことで勢力を一気に失いました。
この戦いの結果、サラーフッディーンはエルサレムを奪還し、第三次十字軍の引き金となりました。
1187年
ヒッティーンの戦い
サラーフッディーン
エルサレム王国
十字軍
正慶2年/元弘3年5月22日
鎌倉幕府が滅亡。新田義貞が鎌倉に攻め込み北条高時ら一族約800人が自刃(東勝寺合戦)。
新田義貞が鎌倉を攻め落とし、東勝寺合戦により北条氏一族が自刃、鎌倉幕府が滅亡しました。
1333年7月4日、正慶2年/元弘3年5月22日、鎌倉幕府は新田義貞の鎌倉攻めを許し、倒幕の大きな転機を迎えました。
新田勢は激戦の末に東勝寺を占拠し、北条高時ら一族約800人が自刃しました。
これにより約150年間続いた鎌倉幕府は終焉を迎え、後の建武の新政への道が開かれました。
天皇中心の政治体制への復帰を目指したこの動きは、武家政権から天皇親政への変化を象徴します。
しかし間もなく足利尊氏の反乱により新政は挫折し、室町時代へと移行していきます。
1333年
正慶
元弘
5月22日
鎌倉幕府
新田義貞
北条高時
東勝寺合戦
建武3年5月25日
湊川の戦いが行われる。
足利尊氏と楠木正成が湊川の戦いで激突しました。
楠木軍は惜しくも敗北し、室町幕府成立への道筋が固まりました。
1336年7月4日、建武3年5月25日、湊川(現在の神戸市周辺)で足利尊氏軍と楠木正成らの朝廷軍が衝突しました。
楠木正成は少数の兵力で奮戦しましたが、圧倒的な尊氏軍に敗れ戦死しました。
この戦いは南朝(後醍醐天皇側)と北朝(足利尊氏側)の抗争の一場面でした。
尊氏は勝利後、室町幕府の基盤を着実に固め、京都に幕府を開くことになります。
日本の中世史における重要な転換点と評価されています。
1336年
建武
5月25日
湊川の戦い
1456年
オスマン・ハンガリー戦争: ベオグラード攻城戦が始まる。
オスマン帝国軍によるベオグラード攻城戦が開始されました。
ハンガリー防衛線をめぐる激戦の幕開けです。
1456年7月4日、オスマン帝国軍はハンガリー王国の首都ベオグラードを包囲しました。
防衛を率いたのはハンガリーの名将ヤーノシュ・フニャディでした。
教皇カリクストゥス3世は戦いの救援を呼びかけ、欧州各地の支援を集めました。
フニャディ率いる守備軍は数カ月にわたり包囲を耐え抜きました。
最終的に9月にオスマン軍は撤退し、ハンガリー側の勝利となりました。
この勝利はヨーロッパでのオスマン勢力南進を一時的に食い止めました。
1456年
ベオグラード攻城戦
寛永12年5月20日
江戸幕府が第3次鎖国令を発布。日本人の東南アジア方面への海外渡航・渡航者の帰国・長崎以外への外国商船入港を禁止。
江戸幕府が第3次鎖国令を発布しました。
日本人の海外渡航や帰国を全面的に禁止する法令です。
1635年7月4日、江戸幕府は第3次鎖国令を発布し、海外渡航の厳禁を強化しました。
日本人の東南アジア方面への渡航および渡航者の帰国を禁止しました。
これにより海外にいた日本人の帰国は許されず、国外コミュニティが断絶されました。
また長崎以外の港での外国船の出入りも禁じられ、貿易は長崎に限定されました。
鎖国体制は約200年間続き、江戸時代の社会や文化に大きな影響を与えました。
1635年
寛永
5月20日
第3次鎖国令
1776年
アメリカ独立宣言公布。アメリカ合衆国がイギリスからの独立を宣言。1783年に承認される。
アメリカ独立宣言が採択され、13植民地のイギリスからの独立が宣言されました。
後にアメリカ合衆国の建国記念日となります。
1776年7月4日、第二次大陸会議においてトマス・ジェファーソンらが起草した独立宣言が採択されました。
これにより13の北米植民地はイギリスとの政治的結びつきを断ち、主権国家としての地位を主張しました。
独立戦争は引き続き戦われ、1783年にパリ条約で正式にイギリスが独立を承認しました。
この日は後にアメリカ合衆国の独立記念日(Independence Day)として祝日となりました。
宣言書は自由、平等、追求の幸福などの理念を掲げ、世界に大きな影響を与えました。
1776年
アメリカ独立宣言
アメリカ合衆国
イギリス
1783年
1782年
第2代シェルバーン伯ウィリアム・ペティがイギリスの14代首相に就任。
第2代シェルバーン伯ウィリアム・ペティがイギリス首相に就任しました。
独立戦争終結に向けた和平交渉を指導しました。
1782年7月4日、第2代シェルバーン伯ウィリアム・ペティがイギリスの第14代首相に就任しました。
彼は前任のロックマンス伯に代わり、アメリカ独立戦争終結に向けた和平交渉を指揮しました。
シェルバーンはのちにアメリカ独立を承認するパリ条約の交渉に重要な役割を果たしました。
在任期間は短かったものの、その政策と外交手腕は高く評価されました。
のちにランズダウン侯に叙せられ、イギリス政治史に名を残しました。
1782年
ウィリアム・ペティ
イギリス
首相
1802年
ニューヨーク州ウェストポイントにアメリカ合衆国陸軍士官学校開校。
ウェストポイントにアメリカ陸軍士官学校が開校しました。
後の米軍リーダーを多数輩出する名門校の始まりです。
1802年7月4日、ニューヨーク州ウェストポイントにアメリカ合衆国陸軍士官学校が開校しました。
トーマス・ジェファーソン大統領の署名により、国会で創設が承認されました。
同校は本格的な工学教育も取り入れ、米軍技術力の向上に寄与しました。
開校以来多くの著名な将校を輩出し、南北戦争や両大戦で指導的役割を担いました。
現在もアメリカ陸軍の中核的リーダー養成機関として知られています。
1802年
ニューヨーク州
ウェストポイント
アメリカ合衆国陸軍士官学校
1817年
米国でエリー運河建設開始。
五大湖とハドソン川を結ぶ大規模運河の建設がニューヨークで始まりました。
建設当時、運河は交通の便が悪かったニューヨーク州を結ぶ重要な水路として計画されました。
全長約580キロメートルの運河は五大湖とハドソン川を結び、物資輸送の時間とコストを大幅に削減。
約8年の歳月と莫大な資金を投じて完成し、アメリカの西部開拓と経済発展を強力に後押ししました。
この工事は当時の土木技術の粋を集めたもので、多数の石造りアーチ式橋やロック(閘門)が採用されました。
運河開通後はニューヨーク市が東海岸最大の貿易港となり、同市の商業的地位を確立するきっかけとなりました。
1817年
エリー運河
1834年
ウィスコンシン準州から分離してアイオワ準州を設置。
ウィスコンシン準州からアイオワ準州が分離・設置され、米国中西部の行政区画が再編されました。
アメリカ合衆国議会により、ウィスコンシン準州の一部が分離されてアイオワ準州が設置されました。
この新設区域はミシシッピ川西岸を含み、当時急速に入植が進んでいた地域を行政管理下に置く目的がありました。
農業開拓が最盛期を迎え、開拓者の安全と土地権利の保護が強化されました。
さらに、将来的な州昇格に向けた準備として憲法制定会議や地方政府の組織化が進められました。
この措置は中西部の人口増加とアメリカの領土拡大政策を象徴する出来事です。
1834年
ウィスコンシン準州
アイオワ準州