グレゴリオ暦7月10日

名誉革命: オランダ統領オラニエ公ウィレム3世(後のイングランド王ウィリアム3世)のもとにイングランド議会からのイングランド王即位要請の手紙が届く。 (en:Invitation to William)

1688年、イングランド議会からオランダ総督ウィレム3世への王位継承要請が記された招請状が届きました。
この招請状(Invitation to William)は、ジェームズ2世の専制的政策に反発した7人の枢密顧問らが1688年6月30日(ユリウス暦)に発したものです。 手紙はウィレム3世に対し軍事介入とプロテスタント王制の復活を求め、イングランド王位への即位を招くものでした。 これを受けてウィレムは艦隊を組織し、11月に約15,000の兵を率いてイングランドに上陸しました。 結果としてジェームズ2世は逃亡し、名誉革命と呼ばれる血をほとんど流さない政変が達成されました。 この出来事は立憲主義と議会優位を確立する契機となりました。 また、この革命は後の権利章典(Bill of Rights)の制定につながり、近代英国王政の基礎を築きました。
1688年 7月10日 名誉革命 オランダ統領 オラニエ公ウィレム3世 en:Invitation to William
1805年

アメリカ合衆国議会でミシガン準州が発足。

1805年、米国議会がミシガン準州設置法を可決し、北西部領域から新たな準州が誕生しました。
ミシガン準州は1805年6月30日に成立し、当時の北西部領域から分割されて創設されました。 初代準州知事にはウィリアム・ハルが任命され、首府はデトロイトに置かれました。 準州の領域は五大湖地域を中心とした広大な範囲を含んでいました。 連邦政府の支配下で行政機構が整備され、入植者の土地権利や自治体設立に向けた法整備が進められました。 この設置が後の1837年のミシガン州昇格への道筋を築き、地域発展の基盤となりました。
1805年 アメリカ合衆国議会 ミシガン準州
1846年

ジョン・ラッセルがイギリスの32代首相に就任。

1846年、ホイッグ党のジョン・ラッセルが英国第32代首相に就任し、自由貿易政策を推進しました。
ジョン・ラッセル伯は1846年6月30日に首相に就任し、前任者ロバート・ピールの後を継ぎました。 彼はホイッグ党政権の下で自由貿易や選挙改革を推進し、航海法の廃止や穀物法廃止を支持しました。 内政では教育制度や刑罰改革にも取り組み、社会改善を図りました。 対外的には議会重視の外交を展開し、インドやカリブ海地域の植民地統治改革を進めました。 ラッセルは総計2期にわたり首相を務め、自由主義的政策を英国政治に根付かせる役割を果たしました。
1846年 ジョン・ラッセル
明治元年5月11日

明治新政府が、元・江戸町奉行支配地域を管轄する江戸府(後の東京府)を設置。

1868年、明治政府が旧江戸町奉行支配地域を統括する江戸府を設置し、東京の前身が誕生しました。
江戸府は1868年6月30日に発足し、旧江戸町奉行支配地域を管轄しました。 これは明治政府による廃藩置県への準備的措置で、旧幕府行政を排除する第一歩でした。 江戸という地名を保持しつつ、近代的な府県制度の導入が図られました。 翌年には江戸府は東京府と改称され、政府の首都機能が正式に東京に移転しました。 この改革は中央集権化と近代国家形成の重要な基盤となりました。
1868年 明治 5月11日 江戸町奉行 江戸府 東京府
1882年

米大統領ジェームズ・ガーフィールドを暗殺したチャールズ・J・ギトーが絞首刑に処せられる。

1882年、ジェームズ・ガーフィールド大統領暗殺犯チャールズ・J・ギトーが絞首刑に処されました。
ガーフィールド大統領は1881年7月2日に狙撃され、その傷がもとで同年9月19日に死去しました。 暗殺者チャールズ・J・ギトーは狂信的信念を理由に無罪を主張したものの、有罪判決を受けました。 1882年6月30日、ワシントンD.C.の刑務所で絞首刑が執行され、米国大統領暗殺犯として初の死刑例となりました。 この処刑は当時の米国内で過激派問題や精神鑑定の議論を呼び起こしました。 後の連邦法制定において、死刑制度や大統領警備体制の強化に影響を与えました。
1882年 ジェームズ・ガーフィールド 暗殺 チャールズ・J・ギトー
1898年

日本で大隈重信が第8代内閣総理大臣に就任し、第1次大隈内閣(隈板内閣)が発足。日本初の政党内閣。

大隈重信が第8代内閣総理大臣に就任し、日本初の政党内閣として第1次大隈内閣が発足しました。
1898年6月30日に大隈重信が内閣総理大臣に就任し、自由党と進歩党の連立に基づく第1次大隈内閣(隈板内閣)が誕生しました。これは日本における初の政党内閣であり、議会政治の礎となった画期的な出来事です。これまで藩閥出身者が中心だった内閣とは一線を画し、政党の影響力が政府運営に直接反映される仕組みが始まりました。教育制度や財政政策などで進歩的な改革を試みたものの、政党間の対立から半年足らずで総辞職に至ります。短命政権ながら、議会政治の発展に大きく寄与した内閣として知られています。
1898年 大隈重信 内閣総理大臣 第1次大隈内閣 政党内閣
1934年

長いナイフの夜事件(レーム事件)。ヒトラーが突撃隊幹部などの政敵を粛清。

ヒトラーが「長いナイフの夜」に突撃隊幹部らを粛清し、権力基盤を強化しました。
1934年6月30日深夜から7月2日にかけて、ナチス政権下で親衛隊(SS)らによって突撃隊(SA)の指導者を狙った一連の粛清が行われました。特に突撃隊最高指導者エルンスト・レームらが暗殺され、政治的ライバル排除のためのクーデター未遂を口実としました。これにより親衛隊のハインリヒ・ヒムラーが台頭し、ヒトラーの全権独裁体制が確立される転機となりました。ドイツ国内外に大きな衝撃を与え、ナチ政権の恐怖政治が本格化した歴史的事件です。
1934年 長いナイフの夜 ヒトラー 突撃隊
1944年

第二次世界大戦: 国民学校初等科の学童疎開促進要綱を閣議決定。

日本政府が学童疎開促進要綱を閣議決定し、戦時下の子どもたちの安全確保を図りました。
1944年6月30日、日本政府は第二次世界大戦の戦況悪化に伴い、国民学校初等科の児童を都市部から地方へ疎開させる学童疎開促進要綱を閣議決定しました。これにより数十万に上る学童が集団で地方の学校や農家に受け入れられ、空襲被害からの保護が図られました。しかし生活環境の変化や親元から離れた寂しさなど、多くの課題も浮き彫りとなりました。学童疎開は戦後復興期まで続き、戦時下の家庭と教育の在り方に大きな影響を与えた政策です。
1944年 国民学校 学童疎開
1949年

平事件。福島県平市(現在のいわき市)で日本共産党の宣伝用掲示板の設置許可の取消しをめぐり、共産党員と平市警察が衝突。

戦後日本の地方行政で、共産党員と警察が掲示板設置を巡って衝突した緊迫の一幕。
1949年6月30日、福島県平市(現いわき市)で日本共産党が宣伝用掲示板の設置許可を取り消されたことを発端に、党員と平市警察が衝突。 共産党側は言論・表現の自由の侵害を訴え、市側は治安維持の必要性を主張。 地域住民の緊張が高まり、当局による検挙や抗議行動が相次ぎました。 この事件は、戦後日本の政治的自由と治安維持のバランスを問う象徴的な出来事として知られています。
1949年 平事件 福島県 平市 いわき市 日本共産党 平市警察
1951年

覚醒剤取締法公布。

日本で覚醒剤の製造・所持を厳しく取り締まる法律が制定された日。
1951年6月30日、戦後の日本で覚醒剤の乱用が社会問題化する中、「覚醒剤取締法」が公布。 この法律は覚醒剤の製造、販売、所持、使用を厳しく禁止し、違反者に重い罰則を科す内容。 戦時中に軍用目的で大量製造されたアンフェタミン類が流出した背景を受け、国民の健康と治安維持を目的としました。 以降、薬物犯罪の抑止と依存症対策の基盤となり、今日まで日本の薬物政策の柱となっています。
1951年 覚醒剤取締法
1955年

自治体警察全廃。

日本の警察制度が大規模に再編され、自治体警察が廃止された日。
1955年6月30日、警察法改正により各自治体が運営していた自治体警察が全面廃止。 全国の警察を都道府県単位の警察に再編し、中央政府の下で統一的に運用。 この制度改革は治安維持の効率化を目的に行われ、警察業務の専門性と統制力を強化しました。 以後の日本の警察制度は、この日を起点に現在の都道府県警察制度が確立されました。
1955年
1960年

ベルギー領コンゴが独立してコンゴ共和国(後のザイール、現在のコンゴ民主共和国)となる。

長年の植民地支配を経て、ベルギー領コンゴが独立国家として新たな歩みを始めた日。
1960年6月30日、アフリカのベルギー領コンゴが独立し、コンゴ共和国として主権を獲得。 初代首相パトリス・ルムンバと大統領ジョゼフ・カサヴブが就任し、新国家の建設に着手。 植民地時代の社会構造や経済格差の克服、政治的安定化が課題となり、独立直後から紛争と危機が続きました。 その後国家名をザイール、さらにコンゴ民主共和国と改称しつつ、現在に至るまで複雑な歴史を辿っています。
1960年 ベルギー領コンゴ コンゴ民主共和国