元弘3年/正慶2年5月18日

元弘の乱: 鎌倉幕府軍と新田義貞率いる反幕府軍の合戦・鎌倉の戦いが始まる。

1333年、新田義貞が後醍醐天皇を支持して鎌倉幕府に反旗を翻し、鎌倉攻防戦が始まった出来事です。
後醍醐天皇による建武の新政を復興するための反幕府運動「元弘の乱」の一環として発生しました。 新田義貞率いる反幕府軍は1333年5月18日に鎌倉への進軍を開始し、夜襲を駆使して幕府軍を追い詰めました。 この戦いは幕府権力の象徴である鎌倉を直接攻めるもので、後の鎌倉幕府崩壊の契機となりました。 最終的に7月4日に鎌倉は陥落し、日本の武家政権構造に大きな転換点をもたらしました。 武士の間で権力のあり方や朝廷との関係を問い直す動きが活発となった歴史的重要作戦です。
1333年 元弘 正慶 5月18日 元弘の乱 鎌倉幕府 新田義貞 鎌倉の戦い
1643年

イングランド内戦: アドウォルトン・ムーアの戦い。

イングランド内戦中、王党派と議会派がアドウォルトン・ムーアで衝突し、決定的な戦闘が繰り広げられました。
アドウォルトン・ムーアの戦いは1643年6月30日、ヨークシャー近郊で発生しました。 王党派のニュッカッスル公率いる部隊と議会派のファーファクス率いる部隊が激突しました。 王党派は巧みな陣形と騎兵攻撃により議会派を圧倒し、ヨークシャー地域の支配権を確立しました。 この勝利により王党派は北部イングランドでの優位を固め、内戦全体の勢力図に大きな影響を与えました。 議会派は後の反撃に向けて部隊の再編を余儀なくされました。
1643年 イングランド内戦 アドウォルトン・ムーアの戦い
1651年

大洪水時代・フメリニツキーの乱: ベレステーチュコの戦いが終結。

1651年、ポーランド・リトアニア共和国軍とコサック・タタール連合軍の間で行われたベレステーチュコの戦いが終結しました。
ベレステーチュコの戦いはフメリニツキーの乱(大洪水時代)の最も大規模な陸上戦であり、1651年6月28日から30日にかけて現在のウクライナ西部で行われました。 ポーランド・リトアニア連合軍はヤン2世カジミェシュ率いる軍勢を擁し、コサック・ヘーチマンのフメリニツキーとクリミア・タタール同盟軍と激突しました。 戦闘はポーランド軍の正規騎兵と砲兵が有利に働き、同盟軍を撤退させる結果となりました。 この勝利によりポーランド側は一時的に支配権を取り戻しましたが、長期的な解決には至りませんでした。 戦闘の死傷者は両軍合わせて数万に及び、大洪水時代の苛烈さを象徴するものとなりました。
1651年 大洪水時代 フメリニツキーの乱 ベレステーチュコの戦い 英語版
グレゴリオ暦7月10日

名誉革命: オランダ統領オラニエ公ウィレム3世(後のイングランド王ウィリアム3世)のもとにイングランド議会からのイングランド王即位要請の手紙が届く。 (en:Invitation to William)

1688年、イングランド議会からオランダ総督ウィレム3世への王位継承要請が記された招請状が届きました。
この招請状(Invitation to William)は、ジェームズ2世の専制的政策に反発した7人の枢密顧問らが1688年6月30日(ユリウス暦)に発したものです。 手紙はウィレム3世に対し軍事介入とプロテスタント王制の復活を求め、イングランド王位への即位を招くものでした。 これを受けてウィレムは艦隊を組織し、11月に約15,000の兵を率いてイングランドに上陸しました。 結果としてジェームズ2世は逃亡し、名誉革命と呼ばれる血をほとんど流さない政変が達成されました。 この出来事は立憲主義と議会優位を確立する契機となりました。 また、この革命は後の権利章典(Bill of Rights)の制定につながり、近代英国王政の基礎を築きました。
1688年 7月10日 名誉革命 オランダ統領 オラニエ公ウィレム3世 en:Invitation to William
1805年

アメリカ合衆国議会でミシガン準州が発足。

1805年、米国議会がミシガン準州設置法を可決し、北西部領域から新たな準州が誕生しました。
ミシガン準州は1805年6月30日に成立し、当時の北西部領域から分割されて創設されました。 初代準州知事にはウィリアム・ハルが任命され、首府はデトロイトに置かれました。 準州の領域は五大湖地域を中心とした広大な範囲を含んでいました。 連邦政府の支配下で行政機構が整備され、入植者の土地権利や自治体設立に向けた法整備が進められました。 この設置が後の1837年のミシガン州昇格への道筋を築き、地域発展の基盤となりました。
1805年 アメリカ合衆国議会 ミシガン準州
1846年

ジョン・ラッセルがイギリスの32代首相に就任。

1846年、ホイッグ党のジョン・ラッセルが英国第32代首相に就任し、自由貿易政策を推進しました。
ジョン・ラッセル伯は1846年6月30日に首相に就任し、前任者ロバート・ピールの後を継ぎました。 彼はホイッグ党政権の下で自由貿易や選挙改革を推進し、航海法の廃止や穀物法廃止を支持しました。 内政では教育制度や刑罰改革にも取り組み、社会改善を図りました。 対外的には議会重視の外交を展開し、インドやカリブ海地域の植民地統治改革を進めました。 ラッセルは総計2期にわたり首相を務め、自由主義的政策を英国政治に根付かせる役割を果たしました。
1846年 ジョン・ラッセル
明治元年5月11日

明治新政府が、元・江戸町奉行支配地域を管轄する江戸府(後の東京府)を設置。

1868年、明治政府が旧江戸町奉行支配地域を統括する江戸府を設置し、東京の前身が誕生しました。
江戸府は1868年6月30日に発足し、旧江戸町奉行支配地域を管轄しました。 これは明治政府による廃藩置県への準備的措置で、旧幕府行政を排除する第一歩でした。 江戸という地名を保持しつつ、近代的な府県制度の導入が図られました。 翌年には江戸府は東京府と改称され、政府の首都機能が正式に東京に移転しました。 この改革は中央集権化と近代国家形成の重要な基盤となりました。
1868年 明治 5月11日 江戸町奉行 江戸府 東京府
1876年

イギリス人の手により、中国初の鉄道が上海・呉淞間に開通。

1876年、中国で初めて上海と呉淞を結ぶ鉄道がイギリス人技師の手で開通しました。
呉淞鉄道は全長約14.5kmの路線で、上海~呉淞港を結びました。 青木長井やジャーディン・マセソン商会が建設を主導し、清朝政府の許可を得て開業しました。 この路線は貨物輸送と旅客輸送の両方に利用され、中国初の営業鉄道となりました。 鉄道建設は中国の近代化と経済発展の契機となり、その後各地へ鉄道網が拡大しました。 西洋技術導入の象徴として、後の近代中国史における重要なマイルストーンです。
1876年 中国初の鉄道 上海 呉淞
1882年

米大統領ジェームズ・ガーフィールドを暗殺したチャールズ・J・ギトーが絞首刑に処せられる。

1882年、ジェームズ・ガーフィールド大統領暗殺犯チャールズ・J・ギトーが絞首刑に処されました。
ガーフィールド大統領は1881年7月2日に狙撃され、その傷がもとで同年9月19日に死去しました。 暗殺者チャールズ・J・ギトーは狂信的信念を理由に無罪を主張したものの、有罪判決を受けました。 1882年6月30日、ワシントンD.C.の刑務所で絞首刑が執行され、米国大統領暗殺犯として初の死刑例となりました。 この処刑は当時の米国内で過激派問題や精神鑑定の議論を呼び起こしました。 後の連邦法制定において、死刑制度や大統領警備体制の強化に影響を与えました。
1882年 ジェームズ・ガーフィールド 暗殺 チャールズ・J・ギトー
1894年

三菱一号館竣工が竣工。丸の内に三菱合資会社が建てた最初のオフィスビル。ジョサイア・コンドル設計のレンガ建築の建物だったが、1968年に解体された。その後2009年4月30日、旧来の建物を復元する形で三菱一号館美術館が建築された。

1894年、丸の内に西洋式レンガ造りのオフィスビル・三菱一号館が竣工しました。
三菱一号館はジョサイア・コンドル設計により1894年6月30日に完成しました。 当時日本で最先端の鉄筋コンクリート+レンガ造構造を採用し、機能的なオフィスビルとして注目されました。 丸の内という商業地区に建てられ、三菱合資会社の本社として利用されました。 1968年に解体されましたが、2009年4月30日に外観を復元した三菱一号館美術館として再生しました。 明治期の近代建築の象徴として、訪れる人々に歴史的価値を伝える存在となっています。
1894年 三菱一号館 ジョサイア・コンドル 1968年 2009年 4月30日 三菱一号館美術館
1894年

ロンドンのタワーブリッジが使用開始。

ロンドンの象徴的な可動式吊り橋、タワーブリッジが正式に開通し、歩行者と車両の通行が開始されました。
1876年に設計が始まり、1886年から着工したタワーブリッジはゴシックリバイバル様式を取り入れたデザインが特徴です。1894年6月30日の完成により、テムズ川をまたぐ交通の利便性が飛躍的に向上しました。中央の可動式バスキュール橋は蒸気機関で開閉し、当時の最新技術を示しています。現在でも年間に数百回開閉し、観光名所としても名高い橋となっています。建設当時の技術と美術の融合が感じられる逸品です。
ロンドン タワーブリッジ
1898年

日本で大隈重信が第8代内閣総理大臣に就任し、第1次大隈内閣(隈板内閣)が発足。日本初の政党内閣。

大隈重信が第8代内閣総理大臣に就任し、日本初の政党内閣として第1次大隈内閣が発足しました。
1898年6月30日に大隈重信が内閣総理大臣に就任し、自由党と進歩党の連立に基づく第1次大隈内閣(隈板内閣)が誕生しました。これは日本における初の政党内閣であり、議会政治の礎となった画期的な出来事です。これまで藩閥出身者が中心だった内閣とは一線を画し、政党の影響力が政府運営に直接反映される仕組みが始まりました。教育制度や財政政策などで進歩的な改革を試みたものの、政党間の対立から半年足らずで総辞職に至ります。短命政権ながら、議会政治の発展に大きく寄与した内閣として知られています。
1898年 大隈重信 内閣総理大臣 第1次大隈内閣 政党内閣