長元元年6月5日

平忠常の乱。

平忠常が関東地方で起こした武士の反乱です。 皇朝の権威に挑み、中世日本の武士台頭を象徴する事件となりました。
平忠常の乱は1028年、下総国で発生した平忠常による反乱です。 忠常は上総広常の排斥を図り、関東の武士勢力を背景に下総国府を襲撃しました。 朝廷は討伐軍を派遣し、数カ月に及ぶ戦闘の末、鎮圧に成功しました。 この反乱は荘園制の混乱を露呈し、武士の台頭を示す前兆とされます。 以後の武家政権成立に大きな影響を与えた歴史的転機です。
1028年 長元 6月5日 平忠常の乱
1194年

ノルウェー王スヴェレ・シグルツソンが戴冠。

ノルウェー王スヴェレ・シグルツソンが正式に王位を認められた戴冠式です。 北欧史における統一政権の礎となりました。
スヴェレ・シグルツソンは内戦を勝ち抜き、1194年6月29日にトロンハイムで戴冠式を挙行しました。 戴冠は教会と貴族の支持を象徴し、ノルウェー統一への大きな一歩となります。 彼は強力な王権を確立し、約26年間にわたり国内法整備や対外防衛に注力しました。 戴冠式は当時の宗教儀礼と王権承認の重要な行事とされました。 スヴェレ王の治世は北欧の政治構造に深い影響を与えました。
1194年 ノルウェー スヴェレ・シグルツソン
天正3年5月21日

長篠の戦い。

織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼軍の激突です。 銃火器戦術の威力を示した戦国史上の重大事件。
1575年6月29日(天正3年5月21日)、三河国長篠で行われた戦いで織田・徳川連合軍が武田軍を破りました。 織田信長は柵列陣と多数の火縄銃を組み合わせ、武田騎馬隊を効果的に撃退しました。 この戦術は戦国時代における銃器の有効性を証明し、旧来の騎馬優位の軍事思想を覆しました。 戦後、武田氏の没落が決定的となり、織田政権の全国的支配が加速しました。 以後の日本軍事史における転換点と評価されます。
1575年 天正 5月21日 長篠の戦い
1613年

ロンドンのグローブ座が焼失。翌年再建。

イギリス・ロンドンの名劇場グローブ座が炎上しました。 翌1614年に再建され、シェイクスピア劇の舞台として復活。
1613年6月29日、グローブ座での劇中演出に用いられた小砲から火が移り、劇場が全焼しました。 木造建築であったため瞬く間に炎上し、多くの観客が避難を余儀なくされました。 人的被害は限定的でしたが、文化史上大きな衝撃を与えました。 焼失の翌年には資金調達と設計を経て1614年に再建が完了し、再び上演が再開されました。 再建後もシェイクスピア作品をはじめ多くの名作が生まれ、舞台芸術の中心地として栄えました。
1613年 ロンドン グローブ座
慶長12年5月6日

朝鮮通信使が初めて江戸を訪問し、将軍徳川秀忠と会見。

慶長12年、朝鮮通信使が江戸城に入り徳川秀忠と対面しました。 日朝友好の象徴となった初の公式訪問です。
1607年6月29日(慶長12年5月6日)、朝鮮王朝から派遣された通信使一行が江戸に到着しました。 通信使は朱子学を基盤とする礼式を重んじた使節団で、相互の文化・学術交流を目的としていました。 秀忠は本丸で盛大な饗応を行い、両国の友好関係を改めて確認しました。 以後、江戸時代を通じて定期的に通信使が訪れ、外交・文化交流の重要な慣例となりました。 この訪問は鎖国下の日本における対外儀礼維持のモデルケースとして評価されています。
1607年 慶長 5月6日 朝鮮通信使 江戸 徳川秀忠
1659年

コノトプの戦いが終結。ロシア・ツァーリ国軍がウクライナ・コサック軍に敗れる。

ロシア軍とウクライナ・コサック軍の激戦が決着。 コサック軍の勝利が歴史的転機となりました。
1659年6月29日、東欧コノトプでロシア・ツァーリ国軍とウクライナ・コサック軍が衝突し、コサック軍が勝利しました。 コサック軍は地勢を活かした機動力で数的優位のロシア軍を翻弄しました。 この勝利によりウクライナ地域の自治権が一定程度維持され、ロシアの南下政策に歯止めがかかりました。 講和交渉ではウクライナ側の要求が部分的に認められ、緊張関係は続きつつも一時的な安定がもたらされました。 コノトプの戦いはウクライナ国家意識の萌芽と評価される重要な出来事です。
1659年 コノトプの戦い ロシア・ツァーリ国 ウクライナ・コサック
元禄2年5月13日

松尾芭蕉がおくのほそ道の旅で平泉の奥州藤原氏3代の跡を訪ねる。

俳人・松尾芭蕉が『おくのほそ道』の旅で平泉を訪れました。 栄華を偲ぶ詩情あふれる名所巡りの一幕です。
1689年6月29日(元禄2年5月13日)、松尾芭蕉は『おくのほそ道』の旅の途上で平泉に到着しました。 彼は金色堂など奥州藤原氏三代の遺構を前に「夏草や兵どもが夢の跡」の句を詠んだと伝えられます。 草深い旧跡の静寂と栄華のはかなさを詠み込んだ旅日記は後世の文学に大きな影響を与えました。 訪問記録は俳諧研究の重要資料とされ、平泉は現在でも芭蕉ゆかりの地として知られています。 当時の景観と詩情が融合した歴史的瞬間が、多くの人々を魅了し続けています。
1689年 元禄 5月13日 松尾芭蕉 おくのほそ道 平泉 奥州藤原氏
1797年

ナポレオン・ボナパルトがチザルピーナ共和国を建国。

ナポレオンがイタリア北部に傀儡国家を樹立しました。 フランス革命戦争期の新国家建設の一環です。
1797年6月29日、フランス革命戦争中の将軍ナポレオン・ボナパルトはチザルピーナ共和国の成立を宣言しました。 共和国領域はロンバルディア地方を中心とし、旧ミラノ公国を基盤として再編されました。 国家はフランスの軍事的・政治的影響下に置かれ、革命理念の拡散と支配体制構築の役割を担いました。 ナポレオンは初代統領に就任し、行政・財政改革を推進して近代的統治機構を整備しました。 この建国は後のイタリア統一運動およびナポレオン戦争の展開に深い影響を及ぼしました。
1797年 ナポレオン・ボナパルト チザルピーナ共和国
1880年

タヒチ島がフランスの領土となる。

タヒチ島が正式にフランス領ポリネシアの一部とされました。 南太平洋でのフランス植民地拡大を象徴します。
1880年6月29日、フランス政府はタヒチ島を海外領土として併合し、正式に統治権を行使しました。 フランスは19世紀を通じて南太平洋で勢力を拡大し、タヒチは戦略的・補給拠点として重要視されました。 島民の一部には抵抗運動も見られましたが、諸外国との調整を経て条約が締結されました。 併合後は宗教宣教師の活動や欧米式教育・行政制度が導入され、社会構造が大きく変化しました。 現在のタヒチは観光地として知られ、植民地時代の歴史を伝える文化遺産も多数残ります。
1880年 タヒチ島 フランス
1900年

ノーベル財団設立。

アルフレッド・ノーベルの遺言に基づき設立された財団です。 科学や文学、平和分野の賞を運営しています。
1900年6月29日、アルフレッド・ノーベルの遺言に従い、ストックホルムとオスロにノーベル財団が設立されました。 財団はノーベル遺産の管理とノーベル賞授与の運営を担い、賞金・選考委員会を設置しました。 物理学賞、化学賞、生理学・医学賞、文学賞、平和賞など、多分野の顕彰を行っています。 選考は高い透明性と公正性を維持するため定期的な審査と学識経験者による委員会で実施されます。 ノーベル財団は国際的な学術・文化交流の促進に寄与し、20世紀以降の科学技術発展に大きな影響を与え続けています。
1900年 ノーベル財団
1913年

セルビア・ギリシャなどとブルガリアの間で第二次バルカン戦争が勃発。

1913年6月29日、バルカン半島で領土紛争を巡り第二次バルカン戦争が勃発しました。
第二次バルカン戦争は第一次バルカン戦争後の領土分配を巡る対立が発端で、同年6月29日にセルビア、ギリシャ、モンテネグロがブルガリアに宣戦布告して始まりました。両者は北部や東部戦線で激しい戦闘を展開し、数週間で終結しました。ブルガリアは領土を大幅に失い、戦後処理はヨーロッパの勢力均衡に大きな影響を与えました。この地域の民族・領土問題は複雑さを増し、第一次世界大戦への遠因とも位置付けられます。
1913年 セルビア ギリシャ ブルガリア 第二次バルカン戦争
1928年

治安維持法改正。反国体の結社行為に死刑・無期刑を追加。

1928年6月29日、治安維持法が改正され、反国体運動に対してより厳しい刑罰が導入されました。
当時の日本政府は共産主義や社会主義など反国体思想を取り締まるため、治安維持法を強化し、違反行為に死刑および無期懲役を科す条項を追加しました。この改正により反政府系の政治団体や労働運動が厳しく弾圧され、検挙者数は急増しました。法的な抑圧強化は民主主義や表現の自由を著しく制限し、戦前日本の軍国主義体制を支える重要な法的根拠となりました。改正法は戦後まで残り、多くの活動家が弾圧の対象となりました。
1928年 治安維持法 国体 結社 死刑 無期刑