1098年
第一次十字軍がアンティオキア攻囲戦でモスルのケルボガを破る。
第一次十字軍がアンティオキア攻囲戦でモスル軍を撃退し、戦況を一変させました。
アンティオキア攻囲戦は1097年から1098年にかけて行われた大規模な包囲戦です。
第一次十字軍はシリア北部の要衝アンティオキアを攻略するため、多国籍のキリスト教勢力が連携しました。
1098年6月28日、モスル軍を率いるケルボガが反撃を試みましたが、効果的な防御戦術で撃退されました。
この勝利により十字軍は城壁内部への突破口を得て、最終的にアンティオキア城を占領しました。
戦果は遠征軍の士気を高め、エルサレム奪回への重要な足がかりとなりました。
1098年
第一次十字軍
アンティオキア攻囲戦
モスル
ケルボガ
建久4年5月28日
曾我兄弟の仇討ち。
建久4年5月28日、曾我兄弟が父の仇討ちを果たし、忠孝の物語を後世に残しました。
曾我兄弟の仇討ちは、父・河津祐泰を殺害された兄弟が1193年5月28日に鎌倉で復讐を遂げた事件です。
長兄の曾我頼朝と弟の曙は、仇敵である工藤祐経を討ち果たしました。
この騒動は鎌倉幕府の初期政権を揺るがし、一時は幕府内に大混乱をもたらしました。
後世には『曾我物語』として語り継がれ、忠義と復讐というテーマが多くの文芸作品に影響を与えました。
事件後、兄弟は幕府に処罰されましたが、その忠孝の精神は日本文化に深く刻まれました。
1193年
建久
5月28日
曾我兄弟の仇討ち
天文5年6月10日
栴岳承芳(後の今川義元)が義兄・玄広恵探の花倉城を攻め落とす。敗走した恵探はその後自害。(花倉の乱)
天文5年6月10日、後の今川義元が花倉城を攻め落とし、義兄の玄広恵探を自害に追い込みました。
花倉の乱は1536年、駿河国で今川氏内部の権力闘争として勃発した内乱です。
栴岳承芳(後の今川義元)は義兄である玄広恵探が独自勢力を築くことを危険視し、宣戦を布告しました。
6月10日に花倉城を包囲・攻撃し、恵探を降伏に追い込むと、自害を選ばせました。
この勝利により氏内の反乱勢力は一掃され、義元の家督が確立されました。
後の戦国大名としての基盤を築く重要な転機となった出来事です。
1536年
天文
6月10日
今川義元
玄広恵探
花倉城
花倉の乱
1778年
アメリカ独立戦争: モンマスの戦い。
アメリカ独立戦争中の1778年6月28日、ニュージャージー州でモンマスの戦いが行われました。
モンマスの戦いはアメリカ独立戦争の重要な戦闘の一つです。
1778年6月28日、イギリス軍と大陸軍がニュージャージー州モンマス郡で激突しました。
ワシントン将軍はチャールズ・リー将軍に先鋒を命じましたが、リー将軍の混乱もあって激戦に発展しました。
その後、イギリス軍を退けた大陸軍は部隊を維持し、士気を高める結果を得ました。
この戦いは戦略的勝利とは言えないものの、独立軍の結束と評判向上に寄与しました。
1778年
アメリカ独立戦争
モンマスの戦い
1914年
サラエボ事件。オーストリア皇太子フランツ・フェルディナントとその妃ゾフィーがサラエボで暗殺される。第一次世界大戦のきっかけになった。
サラエボ事件でオーストリア皇太子夫妻が暗殺され、第一次世界大戦の引き金となりました。
1914年6月28日、セルビア民族主義組織「黒手組」に属するガブリロ・プリンツィプによって、オーストリア皇太子フランツ・フェルディナントと妃ゾフィーがサラエボで暗殺されました。この事件は「サラエボ事件」と呼ばれ、ヨーロッパ列強間の緊張を一気に高めました。オーストリア=ハンガリー帝国はセルビアに最後通牒を突きつけ、紛争が拡大して第一次世界大戦が勃発しました。暗殺には複数の共犯者がおり、当日の警備体制の甘さも問題視されました。歴史的には20世紀最大の戦争への道を開いた重大事件です。
1914年
サラエボ事件
サラエボ
第一次世界大戦
1919年
ドイツが連合国と第一次世界大戦の講和条約「ヴェルサイユ条約」を締結する。
ドイツと連合国がヴェルサイユ条約を締結し、第一次世界大戦が正式に終結しました。
1919年6月28日、第一次世界大戦後の講和条約としてドイツ帝国と連合国がフランス・ヴェルサイユ宮殿で「ヴェルサイユ条約」に署名しました。ドイツは多額の賠償金支払いと領土喪失、軍備制限を課され、戦争責任条項(第231条)が論争を呼びました。条約は国際連盟の設立と安全保障体制の構築を目指しましたが、ドイツ国内では屈辱的と受け止められ、政治的不安定を助長しました。これらの条件が後のナチス台頭や第二次世界大戦の遠因となったと指摘されています。20世紀の国際秩序形成における分岐点となった条約です。
1919年
連合国
ヴェルサイユ条約
1922年
アイルランド自由国軍がダブリンのフォー・コーツを砲撃、アイルランド内戦が勃発。
アイルランド自由国軍がダブリンのフォー・コーツを砲撃し、アイルランド内戦が勃発しました。
1922年6月28日、英愛条約を巡る賛否対立が激化する中、アイルランド自由国軍(親条約派)は反条約派が拠点としたダブリン中心部のフォー・コーツを砲撃しました。これによりアイルランド内戦が正式に始まり、両派の武力衝突が全国に広がりました。戦闘は数か月続き、多くの犠牲者と国家インフラの破壊をもたらしました。最終的に親条約派が勝利し、アイルランド自由国の体制が確立されましたが、社会的分断と遺恨が長く尾を引きました。内戦の経験は後のアイルランド政治に深い影響を与えました。
1922年
アイルランド自由国
ダブリン
フォー・コーツ
アイルランド内戦
1942年
第二次世界大戦: ドイツ軍がブラウ作戦を発動する。
1942年6月28日、ドイツ軍はソビエト連邦南部への進撃を目指した夏季攻勢「ブラウ作戦」を発動しました。
ブラウ作戦(Operation Blau)は第二次世界大戦におけるドイツ軍の対ソ戦線における夏季攻勢です。
1942年6月28日、北コーカサスやヴォルガ中流域を目指し、南方軍集団が一斉に攻勢を開始しました。
攻略目標はコーカサス地方の石油資源確保やスターリングラード包囲を通じたソ連の戦力撹乱でした。
当初は機甲師団と歩兵師団が協力し、ソ連軍守備隊に対して大きな戦果を挙げました。
しかし補給線の延長や補給不足、ソ連軍の激しい抵抗により作戦は次第に停滞します。
この攻勢はスターリングラード攻防戦の前段階として、戦局を決定づける重要なターニングポイントとなりました。
1942年
第二次世界大戦
ブラウ作戦
1945年
第二次世界大戦・日本本土空襲: 佐世保大空襲。
1945年6月28日、アメリカ軍の空襲により長崎県佐世保市が大規模な爆撃を受けました。
佐世保大空襲は第二次世界大戦末期の1945年6月28日に実施されたアメリカ陸軍航空軍による空襲です。
B-29爆撃機が市街地だけでなく海軍基地や造船所を標的として大規模な焼夷弾攻撃を行いました。
爆撃により多数の民間人が被災し、市街地は壊滅的な被害を受けました。
正確な死傷者数は不明ですが、多くの市民が命を落とし、多数が家屋を失いました。
この空襲は日本本土空襲の中でも被害が甚大なものの一つとされ、戦争末期の市民生活に深刻な影響を与えました。
同年8月の終戦直前まで、アメリカ軍の空襲は続き、日本の主要都市に大きな被害をもたらしました。
1945年
日本本土空襲
佐世保大空襲
1950年
朝鮮戦争: 第一次ソウル会戦が終結。ソウルが陥落、撤退する韓国軍による漢江人道橋爆破事件。
1950年6月28日、朝鮮戦争の第一次ソウル会戦が終了し、韓国軍は撤退時に漢江の人道橋を爆破しました。
1950年6月28日、北朝鮮軍はソウル市街地に突入し、第一次ソウル会戦が終結して韓国軍が市から撤退しました。
撤退の混乱を避けるため、韓国軍は漢江に架かる人道橋を爆破し、追撃してくる北朝鮮軍を食い止めようとしました。
この爆破により多くの避難民や逃走中の兵士が渡る橋を失い、犠牲者が発生しました。
ソウルの陥落は国連軍介入前の戦局悪化を象徴し、国連決議に基づく多国籍軍の参戦を促進しました。
その後、米軍を主体とする国連軍は仁川上陸作戦を準備し、8月に反撃に転じました。
この事件は朝鮮戦争初期の混乱と悲劇を象徴する出来事として記憶されています。
1950年
朝鮮戦争
第一次ソウル会戦
ソウル
漢江人道橋爆破事件
1987年
イラン・イラク戦争を遂行中のイラク軍が化学兵器を用いてクルド人を攻撃。化学兵器で市街地の市民を狙った初のケース。
1987年6月28日、イラン・イラク戦争中のイラク軍がクルド人市民を化学兵器で攻撃しました。
市街地での市民を標的にした初めての事例とされています。
イラン・イラク戦争(1980–1988年)の激化に伴い、化学兵器の使用が拡大した時期の出来事です。
イラク軍はサダム・フセイン政権の命令で化学物質を散布、逃げ遅れたクルド人住民が被害を受けました。
国際社会から強い非難が集まり、人道攻撃として批判されました。
この事件は化学兵器禁止の国際条約強化の契機ともなりました。
被害の全容はいまだに明らかになっておらず、研究者らの調査が続いています。
1987年
イラン・イラク戦争
イラク軍
化学兵器
クルド人