1098年

第一次十字軍がアンティオキア攻囲戦でモスルのケルボガを破る。

第一次十字軍がアンティオキア攻囲戦でモスル軍を撃退し、戦況を一変させました。
アンティオキア攻囲戦は1097年から1098年にかけて行われた大規模な包囲戦です。 第一次十字軍はシリア北部の要衝アンティオキアを攻略するため、多国籍のキリスト教勢力が連携しました。 1098年6月28日、モスル軍を率いるケルボガが反撃を試みましたが、効果的な防御戦術で撃退されました。 この勝利により十字軍は城壁内部への突破口を得て、最終的にアンティオキア城を占領しました。 戦果は遠征軍の士気を高め、エルサレム奪回への重要な足がかりとなりました。
1098年 第一次十字軍 アンティオキア攻囲戦 モスル ケルボガ
安元3年6月1日

俊寛らの平家打倒の謀議(鹿ケ谷の陰謀)が密通され、一味が逮捕される。

安元3年6月1日、俊寛らが鹿ケ谷で平家打倒を企てる陰謀が発覚し、関係者が逮捕されました。
鹿ケ谷の陰謀は平清盛の独裁に反発した貴族や僧侶たちによる政権打倒計画です。 俊寛、藤原成親などが主導し、1177年6月1日に平家一門への襲撃を企てました。 しかし事前に密通者の通報で計画は発覚し、主要メンバーはすべて逮捕されました。 平清盛は反乱を未然に防いだことで政権の権威を高め、反抗勢力を厳しく取り締まりました。 この事件は平安時代末期の政局を象徴する陰謀劇として歴史に刻まれています。
1177年 安元 6月1日 俊寛 鹿ケ谷の陰謀
建久4年5月28日

曾我兄弟の仇討ち。

建久4年5月28日、曾我兄弟が父の仇討ちを果たし、忠孝の物語を後世に残しました。
曾我兄弟の仇討ちは、父・河津祐泰を殺害された兄弟が1193年5月28日に鎌倉で復讐を遂げた事件です。 長兄の曾我頼朝と弟の曙は、仇敵である工藤祐経を討ち果たしました。 この騒動は鎌倉幕府の初期政権を揺るがし、一時は幕府内に大混乱をもたらしました。 後世には『曾我物語』として語り継がれ、忠義と復讐というテーマが多くの文芸作品に影響を与えました。 事件後、兄弟は幕府に処罰されましたが、その忠孝の精神は日本文化に深く刻まれました。
1193年 建久 5月28日 曾我兄弟の仇討ち
天文5年6月10日

栴岳承芳(後の今川義元)が義兄・玄広恵探の花倉城を攻め落とす。敗走した恵探はその後自害。(花倉の乱)

天文5年6月10日、後の今川義元が花倉城を攻め落とし、義兄の玄広恵探を自害に追い込みました。
花倉の乱は1536年、駿河国で今川氏内部の権力闘争として勃発した内乱です。 栴岳承芳(後の今川義元)は義兄である玄広恵探が独自勢力を築くことを危険視し、宣戦を布告しました。 6月10日に花倉城を包囲・攻撃し、恵探を降伏に追い込むと、自害を選ばせました。 この勝利により氏内の反乱勢力は一掃され、義元の家督が確立されました。 後の戦国大名としての基盤を築く重要な転機となった出来事です。
1536年 天文 6月10日 今川義元 玄広恵探 花倉城 花倉の乱
1778年

アメリカ独立戦争: モンマスの戦い。

アメリカ独立戦争中の1778年6月28日、ニュージャージー州でモンマスの戦いが行われました。
モンマスの戦いはアメリカ独立戦争の重要な戦闘の一つです。 1778年6月28日、イギリス軍と大陸軍がニュージャージー州モンマス郡で激突しました。 ワシントン将軍はチャールズ・リー将軍に先鋒を命じましたが、リー将軍の混乱もあって激戦に発展しました。 その後、イギリス軍を退けた大陸軍は部隊を維持し、士気を高める結果を得ました。 この戦いは戦略的勝利とは言えないものの、独立軍の結束と評判向上に寄与しました。
1778年 アメリカ独立戦争 モンマスの戦い
1838年

ヴィクトリア女王の戴冠式が行われる。

1838年、ヴィクトリア女王がウェストミンスター寺院で華やかな戴冠式を挙行しました。
ヴィクトリア女王は1837年に即位し、翌1838年6月28日に戴冠式が執り行われました。 式典はウェストミンスター寺院で開催され、聖オーラバーツの王冠や王笏などの王権の象徴が用いられました。 各国の賓客を迎えた盛大な祝典は英国帝国の繁栄を象徴しました。 若き女王の即位は産業革命下の英国に新たな繁栄と改革をもたらす契機とされました。 この戴冠式を皮切りに、ヴィクトリア時代は73年にわたり英国史に輝きを刻みました。
1838年 ヴィクトリア女王
1841年

パリ・オペラ座でバレエ『ジゼル』が初演。

1841年、パリ・オペラ座でロマンティック・バレエの金字塔『ジゼル』が初演されました。
『ジゼル』はアドルフ・アダン作曲、テオフィル・ゴーティエ台本によるバレエ作品です。 1841年6月28日にパリ・オペラ座で初演され、主演のジャンヌ・リシャール=ダリュが高い評価を受けました。 物語は農婦ジゼルと貴族アリルードの悲恋を描き、幻想的なウィリのシーンが特徴です。 優雅な振り付けと劇的な演出が観客を魅了し、ロマンティック・バレエの代表作として定着しました。 以来、世界中で上演され続け、舞台芸術史に大きな影響を与えています。
1841年 オペラ座 ジゼル
安政6年5月28日

江戸幕府が、米・英・蘭・仏・露に対し、神奈川・長崎・箱館で自由貿易を許可する布告を出す。

安政6年5月28日、江戸幕府は神奈川・長崎・箱館の3港を外国船に開放し、自由貿易を許可しました。
この布告は安政の五か国条約に基づき、日米修好通商条約などの不平等条約の一環として発せられました。 横浜(旧・神奈川)、長崎、箱館(現・函館)の開港により外国商人の居留と交易が始まりました。 幕府は欧米列強の圧力に屈しつつも、近代化への道を模索する契機としました。 開港は国内の経済構造を大きく変化させ、後の明治維新へ向けた動きに影響を与えました。 一方で幕府の対応に不満を覚えた攘夷派が尊王攘夷運動を加速させました。
1859年 安政 5月28日 神奈川 長崎 箱館
1866年

ダービー伯爵エドワード・スミス=スタンリーがイギリスの首相に就任、3度目の組閣。

1866年、ダービー伯爵エドワード・スミス=スタンリーが3度目の首相に就任しました。
エドワード・スミス=スタンリー(第14代ダービー伯爵)は保守党の重鎮として3度目の組閣で首相に就任しました。 内閣は選挙法改正を巡る議会運営や自由党との協調を模索し、産業資本家の支持を背景に政策を推進しました。 しかし議会内での勢力争いと党内対立が激化し、政権運営は難航しました。 1868年に内閣は退陣し、その後のグラッドストン政権への移行を助ける形となりました。 ダービー首相の短期間政権は、19世紀英国政治の節目として語り継がれています。
1866年 ダービー伯爵 エドワード・スミス=スタンリー イギリスの首相
1875年

新聞紙条例・讒謗律を布告。

1875年、日本政府が言論統制を目的とした新聞紙条例と讒謗律を布告しました。
新聞紙条例は出版物に対する検閲と許可制を導入し、政府批判の抑制を目指した法令です。 同時に発布された讒謗律は政府や官吏への誹謗を禁止し、罰則を定めて言論の自由を制限しました。 これらの施策は明治政府初期の統一的行政権の強化を意図したものでした。 新聞経営者や知識人たちは厳しい規制に反発し、ジャーナリズムの自主性を巡る議論が起こりました。 条例はのちに廃止されるものの、近代日本の言論史における重要な転換点となりました。
1875年 新聞紙条例 讒謗律
1881年

オーストリアとセルビアが密約を結び、セルビアはオーストリアの保護国化される。

オーストリア=ハンガリー帝国とセルビアが密約を結び、セルビアがオーストリアの保護国となった事件です。バルカン半島の勢力均衡に大きな影響を与えました。
1881年のベルリン会議後、オーストリア=ハンガリー帝国はセルビアへの影響力を強めるため密約を結びました。これによりセルビアは形式上独立を保ちながらもオーストリアの保護国となり、軍事や外交で帝国に従属することになりました。中欧とバルカン半島の緊張が高まるきっかけとなり、後の歴史に大きな影響を及ぼしました。帝国の拡張政策とセルビア側の自主性確保の板挟みが地域の不安定化を招きました。この密約は後のバルカン戦争や第一次世界大戦勃発の遠因とも指摘されています。
1881年 オーストリア セルビア
1886年

カナダ太平洋鉄道の営業が開始され、初の大陸横断列車がモントリオールを出発。

カナダ太平洋鉄道が開業し、初の大陸横断列車がモントリオールを出発しました。カナダの雄大な大陸横断鉄道時代が幕を開けた瞬間です。
1871年に設立されたカナダ太平洋鉄道会社は、西部への連絡路確保を目的に建設を進めました。1886年6月28日、モントリオールを出発した最初の大陸横断列車が太平洋岸に向けて旅立ち、東西を結ぶ鉄道網が完成しました。この鉄道は移民や物資の輸送を飛躍的に向上させ、カナダの開拓と経済発展を加速させました。建設途上では過酷な山岳地帯を克服するためトンネルや橋梁が数多く建設され、技術的にも画期的なプロジェクトでした。今日のカナダ統一の象徴ともなる壮大な土木事業の歴史的瞬間です。
1886年 カナダ太平洋鉄道 モントリオール