推古天皇10年6月3日

来目皇子の病により新羅征討が中止。

推古天皇10年6月3日、来目皇子が病に倒れたため新羅遠征が急遽中止された。古代日本の外交・軍事情勢に影響を与えた重要な出来事です。
602年、推古天皇は新羅征討を計画し、皇族の来目皇子を遠征指揮官に任命した。遠征直前に来目皇子が重い病に倒れたため遠征は中止された。当時、日本は朝鮮半島諸国との関係強化を模索しており、征討中止は外交方針の転換を迫る要因となった。来目皇子は朝廷内でも有力な皇族であり、遠征中止は皇位継承や貴族間の勢力図にも影響を与えた。この出来事は国内の政治力学と国際関係の複雑さを浮き彫りにしました。
602年 推古天皇 6月3日 来目皇子 新羅
元弘3年/正慶2年5月15日

元弘の乱: 分倍河原の戦い。

1333年、元弘の乱の一戦として分倍河原で激しい戦闘が展開されました。後醍醐天皇方と鎌倉幕府軍が衝突。
元弘の乱は後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒を図った内乱である。分倍河原の戦いでは幕府軍が布陣した拠点を後醍醐天皇側の武士団が攻撃した。池田通朝ら幕府軍指揮下の兵と楠木正成率いる倒幕勢力が激突し、両軍に多くの損害が出た。この戦いは鎌倉幕府の権威に揺らぎをもたらし、後の鎌倉幕府滅亡への道を開いた。関東平野を舞台にした武士同士の戦術的駆け引きが注目される歴史的戦闘です。
1333年 元弘 正慶 5月15日 元弘の乱 分倍河原の戦い
1743年

オーストリア継承戦争: デッティンゲンの戦い。史上最後のイギリス国王が自ら戦闘に参加した戦い。

1743年、オーストリア継承戦争中にデッティンゲンの戦いが行われました。イギリス国王ジョージ2世が直接参戦した最後の戦闘です。
オーストリア継承戦争はハプスブルク家の継承問題を巡るヨーロッパ戦争である。デッティンゲンの戦いはフランス・バイエルン軍と同盟軍(イギリス、オーストリア、オランダ)が激突した。ジョージ2世はイギリス国王として初めて自ら軍旗を掲げて参戦し、連合軍を鼓舞した。戦闘の結果は戦術的勝利には至らなかったものの、戦後の講和交渉に影響を与えた。これはイギリス君主が戦場に立った最後の事例として軍事史上に名を残しています。
1743年 オーストリア継承戦争 デッティンゲンの戦い
1759年

七年戦争: ジェームズ・ウルフ率いるイギリス軍がヌーベルフランスの首府ケベックの包囲を開始。

1759年、七年戦争においてジェームズ・ウルフ率いるイギリス軍がケベック包囲を開始しました。北米戦線の転換点となった作戦です。
ジェームズ・ウルフは北米大陸のヌーベルフランス(フランス領カナダ)攻略を目指してケベック包囲戦を開始した。包囲戦はセントローレンス川沿いの険しい地形を巡る攻防となった。ウルフ将軍は巧妙な夜間上陸作戦を計画し、その後のプラトー・モンモランシ攻撃などを指揮した。この包囲戦はフレンチ・インディアン戦争の勝敗を決定づける重要な戦いとされる。最終的にウルフは戦死したが、イギリスの勝利によりカナダの支配権が決定的となった。
1759年 七年戦争 ジェームズ・ウルフ ヌーベルフランス ケベック
明治2年5月18日

戊辰戦争: 箱館戦争終結。新政府軍と旧幕府軍との戦いが終わる。

旧幕府軍の最後の拠点・箱館での戦いが終結し、戊辰戦争が事実上終わった日。
戊辰戦争は明治維新の過程で新政府軍と旧幕府軍が衝突した内戦です。 1869年5月18日(旧暦)/6月27日(新暦)、箱館戦争が終わり旧幕府勢力は降伏しました。 これにより江戸時代が完全に終焉し、明治政府による中央集権体制の確立が加速します。 箱館戦争は北方における最大の戦闘であり、旧幕府軍の榎本武揚らが最後まで抵抗しました。 新政府は函館での講和をもって、国内の反抗勢力をほぼ制圧しました。
1869年 明治 5月18日 戊辰戦争 箱館戦争
ユリウス暦6月14日

ロシアで戦艦ポチョムキンの水兵が蜂起する。

戦艦ポチョムキンの水兵が給食の質の低さに抗議し反乱を起こした。
1905年6月14日(ユリウス暦)、ロシア帝国の黒海艦隊所属戦艦ポチョムキンで水兵らが反乱を起こしました。 給食の腐敗肉問題を契機に士官の不当な扱いへの不満が爆発しました。 ポチョムキンの反乱は1905年ロシア革命の象徴的事件となり、革命勢力に勇気を与えました。 反乱後、艦はルーマニアの港に逃れ、一部水兵は国外に亡命しました。 この事件は政治的不満が軍内部に広がる危険性を示しました。
1905年 6月14日 戦艦ポチョムキン
1950年

朝鮮戦争: 保導連盟事件。国連安保理で北朝鮮弾劾決議案が可決される。

朝鮮戦争中、保導連盟事件と国連安保理による北朝鮮弾劾決議可決が行われた。
1950年6月朝鮮戦争下、北朝鮮支配地で反共勢力とされた保導連盟の構成員が大量虐殺される事件が起きました。 同年6月27日、国連安全保障理事会は北朝鮮に対する弾劾決議案を可決しました。 保導連盟事件は戦争の苛烈さを象徴し、多数の民間人犠牲を生みました。 国連決議は北朝鮮の攻撃行動を国際的に非難し、国連軍の結集を促す契機となりました。 この両者は朝鮮半島における冷戦構造を鮮明に示す出来事です。
1950年 朝鮮戦争 保導連盟事件 国連安保理 北朝鮮
1950年

朝鮮戦争: ハリー・S・トルーマン米大統領が議会の議決を経ずに北朝鮮に宣戦布告し、陸海軍に出動を命令。

トルーマン大統領が議会の承認を経ずに北朝鮮に宣戦布告し、米軍の出動を命じた出来事。朝鮮戦争の新たな展開を示した歴史的判断です。
1950年6月27日、ハリー・S・トルーマン米大統領は朝鮮戦争への米軍参戦を正式に決定し、議会の宣戦布告を待たずに陸海軍に出動命令を下しました。この措置によりアメリカは国連軍の旗の下で北朝鮮軍と戦うこととなり、戦局は大きく転換します。議会の権限を抑制する大統領権限の行使としても注目され、以後の米国の外征態勢に影響を与えました。
ハリー・S・トルーマン 宣戦布告
1976年

テルアビブ発パリ行きのエールフランス機がハイジャックされ、ウガンダのエンテベ国際空港に強制着陸。7月3日のエンテベ空港奇襲作戦により人質を救出。

テルアビブ発パリ行きのエールフランス機がウガンダのエンテベ空港でハイジャックされ、後にイスラエル軍の奇襲作戦で人質が救出された事件です。
1976年6月27日、エールフランス139便がテルアビブからパリへ向かう途中、武装グループにハイジャックされウガンダのエンテベ空港へ強制着陸。人質は空港ターミナルに拘束されました。7月3日の夜にはイスラエル特殊部隊による「エンテベ空港奇襲作戦」が実施され、多くの人質が無事救出されました。この作戦は高い成功率と迅速さが評価され、人質救出作戦の歴史的転換点とされています。
1976年 エールフランス ハイジャック ウガンダ エンテベ国際空港 7月3日 エンテベ空港奇襲作戦
1991年

ユーゴスラビア紛争: 2日前のスロベニアのユーゴスラビアからの独立宣言により、十日間戦争が勃発。

スロベニアの独立宣言を受けてユーゴスラビア人民軍との間で十日間戦争が勃発。
1991年6月27日、旧ユーゴスラビア連邦内のスロベニアが独立宣言を行った後、連邦政府が軍事行動を開始し「十日間戦争」が勃発しました。 戦闘は1991年7月7日まで続き、小規模ながらゲリラ戦や地上戦、空爆が局地的に展開されました。 死傷者は100人未満とされていますが、国際的な注目を集め、速やかに停戦交渉が行われました。 停戦協定後、スロベニアは事実上の独立を確立し、ユーゴスラビア連邦の解体プロセスが加速しました。 この紛争はバルカン地域における一連の独立紛争の先駆けとなり、その後の混乱に影響を与えました。
1991年 ユーゴスラビア紛争 スロベニア ユーゴスラビア 十日間戦争