678年
聖アガトがローマ教皇に即位。
678年、聖アガトがローマ教皇に即位しました。教会の行政と教義統一に果たした役割が評価されています。
西ローマ帝国滅亡後、ローマ教皇は西欧世界の精神的指導者となった。聖アガトはギリシャ系ローマ市民の出身とされ、教皇に選出されると教会改革に着手した。在位中、モノテリチズム(単性論)問題を解決するために公会議の開催を支持し、教義の統一を推進した。また聖務典礼を整備し、ローマカトリック教会の組織強化に努めた。彼の指導は後の教皇権確立と教会の一体化に寄与したと評価されています。
678年
聖アガト
ローマ教皇
治承元年6月3日
鹿ケ谷の陰謀で藤原成親・俊寛らが流罪になる。
1177年、鹿ケ谷の陰謀で藤原成親や俊寛らが流罪となりました。平安時代後期の権力闘争を象徴する事件です。
鹿ケ谷の陰謀は平安京内で平清盛政権に対抗する怨霊祓いや謀反計画として発覚した。主要構成員の藤原成親や大僧都俊寛らは朝廷転覆を企図したとして追及を受けた。計画が露見した後、彼らは鬼界ヶ島や隠岐島への流罪処分を受けた。この事件は平清盛による院政干渉や武家台頭の背景を示し、その後の源平交替にも影響を与えた。平安時代末期の政治状況や貴族・武士勢力の力関係を考える上で重要な一幕です。
1177年
治承
6月3日
鹿ケ谷の陰謀
藤原成親
俊寛
流罪
文久3年5月12日
伊藤博文・井上馨ら長州藩士5人が英国留学のため密出国。
1863年、伊藤博文や井上馨ら長州藩士5人が英国留学を目指して密かに出国しました。後の明治政府を支える人材育成の一歩です。
文久3年、長州藩は攘夷攘夷運動の高まりと尊王攘夷派の台頭で動乱に巻き込まれていた。伊藤博文や井上馨などの若手藩士は最新の西洋知識を求めて密出国を決意する。彼らは九州や外国商船を経由してイギリスに渡り、政治学や工学などを学んだ。この行動は後に岩倉使節団などの公式留学生派遣に先立つものである。留学経験を通じて日本の近代化と中央集権体制の構築に大きな貢献を果たした。
1863年
文久
5月12日
伊藤博文
井上馨
1894年
ジャン・カジミール=ペリエがフランス第三共和政の第5代大統領に就任。
ジャン・カジミール=ペリエがフランス大統領に就任、第三共和政下の指導者となった。
ジャン・カジミール=ペリエは政治家として労働運動への強硬姿勢で知られていました。
1894年6月27日、フランス第三共和政の第5代大統領に選出されました。
彼の就任は急進左派と社会主義勢力への抑制を目指す動きと重なりました。
在任中、ペリエは公共秩序の維持や鉄道労働者のストライキ鎮圧に介入しました。
短期間の在任ながら、労働問題と政治的安定を巡る議論に大きな影響を与えました。
1894年
ジャン・カジミール=ペリエ
フランス第三共和政
大統領
1927年
東方会議開催(7月7日まで)。政府が中国関連の外交官・軍当局者らを東京に招集し、対中国政策についての方針を決定。
日本政府が対中国政策を協議する東方会議を東京で開催した。
1927年6月27日から7月7日まで、東方会議が東京で開かれました。
政府は中国駐在の外交官や軍高官を招集し、日中関係の方針を協議しました。
会議では共産党勢力の増大や満州事変後の対応が主要議題となりました。
決定された方針は後の関東軍の行動や国策に影響を与えました。
東方会議は対中政策の転換点として歴史的意義が評価されています。
1927年
東方会議
7月7日
1950年
朝鮮戦争: 保導連盟事件。国連安保理で北朝鮮弾劾決議案が可決される。
朝鮮戦争中、保導連盟事件と国連安保理による北朝鮮弾劾決議可決が行われた。
1950年6月朝鮮戦争下、北朝鮮支配地で反共勢力とされた保導連盟の構成員が大量虐殺される事件が起きました。
同年6月27日、国連安全保障理事会は北朝鮮に対する弾劾決議案を可決しました。
保導連盟事件は戦争の苛烈さを象徴し、多数の民間人犠牲を生みました。
国連決議は北朝鮮の攻撃行動を国際的に非難し、国連軍の結集を促す契機となりました。
この両者は朝鮮半島における冷戦構造を鮮明に示す出来事です。
1950年
朝鮮戦争
保導連盟事件
国連安保理
北朝鮮
1950年
朝鮮戦争: ハリー・S・トルーマン米大統領が議会の議決を経ずに北朝鮮に宣戦布告し、陸海軍に出動を命令。
トルーマン大統領が議会の承認を経ずに北朝鮮に宣戦布告し、米軍の出動を命じた出来事。朝鮮戦争の新たな展開を示した歴史的判断です。
1950年6月27日、ハリー・S・トルーマン米大統領は朝鮮戦争への米軍参戦を正式に決定し、議会の宣戦布告を待たずに陸海軍に出動命令を下しました。この措置によりアメリカは国連軍の旗の下で北朝鮮軍と戦うこととなり、戦局は大きく転換します。議会の権限を抑制する大統領権限の行使としても注目され、以後の米国の外征態勢に影響を与えました。
ハリー・S・トルーマン
宣戦布告
1968年
チェコスロバキアで二千語宣言が公表される。
チェコスロバキアの改革派知識人が民主化と自由化を訴える「二千語宣言」を発表し、プラハの春の動きを後押ししました。
1968年6月27日、チェコスロバキアの作家ルドヴィク・ヴァツリークらが「二千語宣言」を公表しました。声明では社会主義の党指導部を批判し、市民参加による迅速な民主化を呼びかけ、プラハの春を推進する重要な役割を果たしました。しかし同年8月のソ連を中心とするワルシャワ条約機構軍の介入は、この改革運動を一旦停滞させることとなりました。
1968年
チェコスロバキア
二千語宣言
1971年
第9回参議院議員通常選挙。
1971年6月27日に第9回参議院通常選挙が行われ、与党・自由民主党が議席数を維持した国政選挙です。
1971年6月27日、第9回参議院通常選挙が実施されました。当時の与党・自由民主党は既得権維持や経済政策を掲げて戦い、議席数をほぼ維持。一方、社会党や公明党など野党勢力も一定の支持を集め、議会構成に微妙な変化をもたらしました。投票率は比較的高く、有権者の関心が国政運営に向けられた選挙となりました。
1971年
第9回参議院議員通常選挙
1974年
アメリカ大統領リチャード・ニクソンがソ連を訪問。
米大統領ニクソンが米ソ間の緊張緩和を目的に初めてソ連を公式訪問し、ブレジネフ書記長との首脳会談を行いました。
1974年6月27日、リチャード・ニクソン米大統領は公式訪問として初めてソ連を訪れ、レオニード・ブレジネフ書記長とモスクワで会談。両首脳は軍備管理や貿易、文化交流など幅広い分野で協議を行い、デタント(緊張緩和)時代を象徴する合意文書に署名しました。この訪問は冷戦下の米ソ関係における重要な転機となりました。
1974年
リチャード・ニクソン
1977年
ジブチがフランスから独立。ハッサン・グレド・アプティドンが大統領に就任。
ジブチがフランスから独立し、ハッサン・グレド・アプティドンが初代大統領に就任した国の誕生です。
1977年6月27日、アフリカ角に位置するジブチが旧フランス領ソマリランドから独立を果たしました。同時にハッサン・グレド・アプティドンが初代大統領に就任し、共和国の体制が発足。戦略的に重要な位置にあるジブチは、フランス軍の駐留を認めつつも独自の歩みを始め、地域の安定と発展に向けた第一歩を踏み出しました。
1977年
ジブチ
フランス
ハッサン・グレド・アプティドン
1990年
スパイクタイヤ粉じんの発生の防止に関する法律が公布・施行。
スパイクタイヤの粉じん発生を抑制する法律が公布・施行された日。
1990年6月27日、「スパイクタイヤ粉じんの発生の防止に関する法律」が公布・施行されました。
本法は冬季に使用されるスパイクタイヤが生み出す粉じんが道路環境や呼吸器への影響を抑制する目的で制定されました。
法律はタイヤ素材の規制や使用基準を定め、粉じん発生量の抑制を義務付けています。
地方自治体には違反車両への罰則や使用制限措置が認められ、公衆衛生の向上が期待されました。
この施行により都市部や交通量の多い道路での粉じん濃度が低下し、環境保護と市民健康への配慮が進みました。
1990年
スパイクタイヤ粉じんの発生の防止に関する法律