推古天皇10年6月3日

来目皇子の病により新羅征討が中止。

推古天皇10年6月3日、来目皇子が病に倒れたため新羅遠征が急遽中止された。古代日本の外交・軍事情勢に影響を与えた重要な出来事です。
602年、推古天皇は新羅征討を計画し、皇族の来目皇子を遠征指揮官に任命した。遠征直前に来目皇子が重い病に倒れたため遠征は中止された。当時、日本は朝鮮半島諸国との関係強化を模索しており、征討中止は外交方針の転換を迫る要因となった。来目皇子は朝廷内でも有力な皇族であり、遠征中止は皇位継承や貴族間の勢力図にも影響を与えた。この出来事は国内の政治力学と国際関係の複雑さを浮き彫りにしました。
602年 推古天皇 6月3日 来目皇子 新羅
678年

聖アガトがローマ教皇に即位。

678年、聖アガトがローマ教皇に即位しました。教会の行政と教義統一に果たした役割が評価されています。
西ローマ帝国滅亡後、ローマ教皇は西欧世界の精神的指導者となった。聖アガトはギリシャ系ローマ市民の出身とされ、教皇に選出されると教会改革に着手した。在位中、モノテリチズム(単性論)問題を解決するために公会議の開催を支持し、教義の統一を推進した。また聖務典礼を整備し、ローマカトリック教会の組織強化に努めた。彼の指導は後の教皇権確立と教会の一体化に寄与したと評価されています。
678年 聖アガト ローマ教皇
治承元年6月3日

鹿ケ谷の陰謀で藤原成親・俊寛らが流罪になる。

1177年、鹿ケ谷の陰謀で藤原成親や俊寛らが流罪となりました。平安時代後期の権力闘争を象徴する事件です。
鹿ケ谷の陰謀は平安京内で平清盛政権に対抗する怨霊祓いや謀反計画として発覚した。主要構成員の藤原成親や大僧都俊寛らは朝廷転覆を企図したとして追及を受けた。計画が露見した後、彼らは鬼界ヶ島や隠岐島への流罪処分を受けた。この事件は平清盛による院政干渉や武家台頭の背景を示し、その後の源平交替にも影響を与えた。平安時代末期の政治状況や貴族・武士勢力の力関係を考える上で重要な一幕です。
1177年 治承 6月3日 鹿ケ谷の陰謀 藤原成親 俊寛 流罪
元弘3年/正慶2年5月15日

元弘の乱: 分倍河原の戦い。

1333年、元弘の乱の一戦として分倍河原で激しい戦闘が展開されました。後醍醐天皇方と鎌倉幕府軍が衝突。
元弘の乱は後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒を図った内乱である。分倍河原の戦いでは幕府軍が布陣した拠点を後醍醐天皇側の武士団が攻撃した。池田通朝ら幕府軍指揮下の兵と楠木正成率いる倒幕勢力が激突し、両軍に多くの損害が出た。この戦いは鎌倉幕府の権威に揺らぎをもたらし、後の鎌倉幕府滅亡への道を開いた。関東平野を舞台にした武士同士の戦術的駆け引きが注目される歴史的戦闘です。
1333年 元弘 正慶 5月15日 元弘の乱 分倍河原の戦い
1743年

オーストリア継承戦争: デッティンゲンの戦い。史上最後のイギリス国王が自ら戦闘に参加した戦い。

1743年、オーストリア継承戦争中にデッティンゲンの戦いが行われました。イギリス国王ジョージ2世が直接参戦した最後の戦闘です。
オーストリア継承戦争はハプスブルク家の継承問題を巡るヨーロッパ戦争である。デッティンゲンの戦いはフランス・バイエルン軍と同盟軍(イギリス、オーストリア、オランダ)が激突した。ジョージ2世はイギリス国王として初めて自ら軍旗を掲げて参戦し、連合軍を鼓舞した。戦闘の結果は戦術的勝利には至らなかったものの、戦後の講和交渉に影響を与えた。これはイギリス君主が戦場に立った最後の事例として軍事史上に名を残しています。
1743年 オーストリア継承戦争 デッティンゲンの戦い
1759年

七年戦争: ジェームズ・ウルフ率いるイギリス軍がヌーベルフランスの首府ケベックの包囲を開始。

1759年、七年戦争においてジェームズ・ウルフ率いるイギリス軍がケベック包囲を開始しました。北米戦線の転換点となった作戦です。
ジェームズ・ウルフは北米大陸のヌーベルフランス(フランス領カナダ)攻略を目指してケベック包囲戦を開始した。包囲戦はセントローレンス川沿いの険しい地形を巡る攻防となった。ウルフ将軍は巧妙な夜間上陸作戦を計画し、その後のプラトー・モンモランシ攻撃などを指揮した。この包囲戦はフレンチ・インディアン戦争の勝敗を決定づける重要な戦いとされる。最終的にウルフは戦死したが、イギリスの勝利によりカナダの支配権が決定的となった。
1759年 七年戦争 ジェームズ・ウルフ ヌーベルフランス ケベック
天明7年5月12日

天明の大飢饉: 天明の打ちこわし。大坂の庶民が米屋を襲撃。

天明の大飢饉の影響で1787年に大坂で打ちこわしが発生し、庶民が米屋を襲撃しました。社会不安の象徴的な出来事です。
天明の大飢饉は度重なる冷害や洪水により日本各地で凶作が続いた。大坂では特に米価高騰が深刻化し、庶民の生活が圧迫された。1787年5月12日、群衆が打ちこわしを起こし、米屋や蔵が襲撃され大量の米が押収された。幕府は鎮圧に向けて臨時の警備を強化し、流通統制や価格抑制策を実施した。この一連の騒動は江戸時代後期の農村・都市の脆弱性と民衆の抗議行動を示す重要な事例です。
1787年 天明 5月12日 天明の大飢饉 打ちこわし
天保12年5月9日

幕命により江戸・徳丸原で砲術家・高島秋帆が洋式軍事演習を行う。

1841年、幕府の命で砲術家・高島秋帆が江戸徳丸原で初の洋式軍事演習を実施しました。日本の近代軍事技術導入の先駆けです。
江戸時代末期、幕府は欧米列強の脅威に備え洋式砲術の研究を進めた。高島秋帆は長崎で西洋砲術を学び、天保12年に江戸徳丸原で大砲を用いた演習を行った。演習では砲兵隊の編成や射程距離の威力を示し、見物人を驚かせたという。この取り組みは幕府の鎖国体制下における技術革新の象徴とされる。その後の幕末における軍制改革や洋式兵器の導入に大きな影響を与えた。
1841年 天保 5月9日 高島秋帆
1844年

末日聖徒イエス・キリスト教会創始者のジョセフ・スミス・ジュニアがイリノイ州カーセッジで暴徒との銃撃戦により死亡。 (en:Death of Joseph Smith, Jr.)

1844年、末日聖徒イエス・キリスト教会創始者ジョセフ・スミス・ジュニアがカーセッジで暴徒に襲われ死亡しました。初期モルモン教会に衝撃を与えた事件です。
ジョセフ・スミス・ジュニアは1830年に末日聖徒イエス・キリスト教会を創設した宗教指導者である。教会の拡大に伴い支持者と地元住民との対立が深まり、イリノイ州ナウーザでの避難後も緊張が続いた。1844年6月27日、シカゴ近郊カーセッジで法廷出頭を待つ間に暴徒が刑務所を襲撃し、銃撃戦の末にスミスは致命傷を負った。彼の死後、教会内での指導者選定を巡り分裂が生じた。この事件はアメリカ宗教史における重要な転換点とされている。
1844年 末日聖徒イエス・キリスト教会 ジョセフ・スミス・ジュニア イリノイ州 カーセッジ en:Death of Joseph Smith, Jr.
文久3年5月12日

伊藤博文・井上馨ら長州藩士5人が英国留学のため密出国。

1863年、伊藤博文や井上馨ら長州藩士5人が英国留学を目指して密かに出国しました。後の明治政府を支える人材育成の一歩です。
文久3年、長州藩は攘夷攘夷運動の高まりと尊王攘夷派の台頭で動乱に巻き込まれていた。伊藤博文や井上馨などの若手藩士は最新の西洋知識を求めて密出国を決意する。彼らは九州や外国商船を経由してイギリスに渡り、政治学や工学などを学んだ。この行動は後に岩倉使節団などの公式留学生派遣に先立つものである。留学経験を通じて日本の近代化と中央集権体制の構築に大きな貢献を果たした。
1863年 文久 5月12日 伊藤博文 井上馨
明治2年5月18日

戊辰戦争: 箱館戦争終結。新政府軍と旧幕府軍との戦いが終わる。

旧幕府軍の最後の拠点・箱館での戦いが終結し、戊辰戦争が事実上終わった日。
戊辰戦争は明治維新の過程で新政府軍と旧幕府軍が衝突した内戦です。 1869年5月18日(旧暦)/6月27日(新暦)、箱館戦争が終わり旧幕府勢力は降伏しました。 これにより江戸時代が完全に終焉し、明治政府による中央集権体制の確立が加速します。 箱館戦争は北方における最大の戦闘であり、旧幕府軍の榎本武揚らが最後まで抵抗しました。 新政府は函館での講和をもって、国内の反抗勢力をほぼ制圧しました。
1869年 明治 5月18日 戊辰戦争 箱館戦争
明治4年5月10日

新貨条例公布。貨幣の名称を「円・銭・厘」とし十進法を採用。旧1両を1円とする。

十進法に基づく「円・銭・厘」の貨幣単位を制定し、旧来の諸制度から脱却した。
新貨条例は明治政府が貨幣制度を統一するために制定した法律です。 従来の両・分・朱といった複雑な単位を廃し、1円=100銭、1銭=10厘の十進法を採用しました。 旧1両は新1円と定められ、貨幣の名称と価値が明確化されました。 この改革により国内取引が活性化し、近代的経済システムの基盤が整備されました。 以後、日本の通貨制度は今日まで続く形を取ることになります。
1871年 5月10日 新貨条例