文武天皇3年5月24日
役小角(役行者)が弟子の讒言により伊豆に流罪。
修験道の祖とされる役小角が、弟子の讒言を受けて伊豆へ流罪となった歴史的事件。
役小角(役行者)は山岳信仰を背景に修験道を興し、朝廷や庶民の信仰を集めた。弟子の讒言によって朝廷の不興を買い、文武天皇3年5月24日に伊豆国へ流罪が言い渡された。これにより中心から遠ざけられた彼は山中での修行を続けたとされる。流罪の背景には権力闘争や宗教的対立が影響していたと考えられている。役小角の流罪は後世の修験道の伝承や伝説にも大きな影響を与えている。
699年
文武天皇
5月24日
役小角
治承4年6月2日
平清盛が安徳天皇を奉じて福原京に遷都。
平清盛が安徳天皇を伴い都を福原(神戸市)に遷都した出来事。
1180年、平清盛は政治的安定と海上交易の強化を図るため、幼い安徳天皇を奉じて都を京都から福原京(現在の神戸市)に移した。治承4年6月2日の遷都は平氏政権の力を示す象徴的な行為であった。しかし短期間で再び京都への還都が決まり、福原京はわずか数か月の都としての役割にとどまった。遷都の背景には朝廷内の権力構造の変化や外圧への対応があったとされる。この事件は平家全盛期の政治動向を示す重要な転換点とされる。
1180年
治承
6月2日
平清盛
安徳天皇
福原京
1243年
モンゴルのアナトリア侵攻戦争: キョセ・ダグの戦いが勃発。ルーム・セルジューク朝・トレビゾンド帝国・ニケーア帝国連合軍がバイジュ率いるモンゴル帝国に完敗。アナトリア半島がモンゴルの支配下に置かれた。
1243年、キョセ・ダグの戦いでモンゴル帝国がアナトリア諸勢力を打ち破り領域を拡大。
モンゴル帝国は1243年、アナトリア半島への侵攻戦争を展開し、キョセ・ダグの戦いでルーム・セルジューク朝やトレビゾンド帝国、ニケーア帝国の連合軍と衝突した。連合軍はバイジュ率いるモンゴル軍に対して組織的な抵抗を試みたが、敗北を喫した。戦後、アナトリア地域は形式上モンゴルの宗主権下に置かれ、現地政権は貢納を強いられた。これによりモンゴル帝国の西方進出は頂点に達し、その影響は後の中東情勢にも及んだ。アナトリアにおけるセルジューク朝の衰退が明白となった重要な戦いである。
1243年
モンゴルのアナトリア侵攻戦争
英語版
キョセ・ダグの戦い
ルーム・セルジューク朝
トレビゾンド帝国
ニケーア帝国
バイジュ
モンゴル帝国
1284年
ドイツ・ハーメルンで130人の子供が集団失踪。(ハーメルンの笛吹き男の起源)
1284年、ドイツ・ハーメルンで130人の子供が忽然と姿を消した謎多き集団失踪事件。
中世ドイツの町ハーメルンでは1284年6月26日、多くの子供たちが一斉に姿を消す事件が起こった。笛吹き男に誘われたとも伝えられ、後世の『ハーメルンの笛吹き男』伝説の起源とされる。実際の失踪理由や行方は不明のままで、様々な民間伝承や文学作品の題材となった。宗教的・社会的背景や疫病説、移住説など多くの説が唱えられている。現代でも解決されない歴史上の大きなミステリーの一つとして語り継がれている。
1284年
ドイツ
ハーメルン
失踪
ハーメルンの笛吹き男
1483年
イングランド議会がエドワード5世の王位継承無効を宣言、リチャード3世が国王に即位。
1483年、イングランド議会がエドワード5世の王位継承を無効とし、リチャード3世が即位。
1483年6月26日、イングランド議会は王位継承に関する法令(Titulus Regius)を可決し、エドワード4世の次男エドワード5世の即位を無効と宣言した。これにより義兄のリチャード3世が正式に王位を簒奪し、国家の主導権を掌握した。エドワード5世とその弟の行方は『塔の中の二王子』事件として謎に包まれたままである。新王リチャード3世の治世は短命に終わり、後にボズワースの戦いで戦死する。王位継承の正当性を巡るこの政変は、プランタジネット家の内紛を象徴する重要な出来事である。
1483年
イングランド
エドワード5世
リチャード3世
1541年
フランシスコ・ピサロが、1538年に処刑されたディエゴ・デ・アルマグロの遺児一派によりリマで暗殺される。
1541年、ペルーを統治していたフランシスコ・ピサロがリマで暗殺される。
インカ帝国征服の立役者でありリマの建設者でもあるフランシスコ・ピサロは、異母弟ディエゴ・デ・アルマグロ派との権力闘争に巻き込まれた。1538年にアルマグロが処刑された後、その支持者は復讐を誓い、1541年6月26日にリマでピサロを暗殺した。暗殺は政争の延長線上にあり、スペイン植民地内での勢力争いが背景にあった。ピサロの死はペルー総督職の空白を生み、植民地統治の混乱を招いた。後のスペイン本国による介入へと繋がる重要な転機となった。
1541年
フランシスコ・ピサロ
ディエゴ・デ・アルマグロ
リマ
1777年
アメリカ独立戦争: ショートヒルズの戦いが行われる。
1777年、アメリカ独立戦争中のショートヒルズの戦いが行われる。
1777年6月26日、ニュージャージー州近郊で大陸軍とイギリス軍が衝突したショートヒルズの戦いが勃発した。将軍ジョン・ホールトン率いる大陸軍は巧みな撤退戦術でイギリス軍の追撃をかわし、戦略的に大きな損害を免れた。戦い自体は小規模だったが、ワシントン軍の機動力と士気の高さを示す結果となった。イギリス軍は重要拠点への強襲を断念し、こちらも大きな損害を避ける形で行動を続けた。アメリカ独立戦争における鍵となる防衛戦の一つとして評価されている。
1777年
アメリカ独立戦争
ショートヒルズの戦い
1788年
モーツァルトがウィーンで交響曲第39番を完成。
1788年、モーツァルトがウィーンで交響曲第39番を完成させる。
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは1788年、この年の夏に交響曲第39番変ホ長調 K.543を完成させた。ウィーン滞在中に作曲された三大交響曲の第一作であり、華やかな管弦楽の響きと充実した構成が特徴である。全4楽章から成り、特に第2楽章の優雅なメロディーは高い評価を受けている。作曲当時のモーツァルトは経済的に苦しい状況にあったが、作品には明るさと創造性が溢れている。交響曲第40番、41番とともに『ウィーン三大交響曲』と称され、今日でも頻繁に演奏される名作である。
1788年
モーツァルト
ウィーン
交響曲第39番
文政13年/天保元年5月10日
ナサニエル・セイヴァリーら20数名が小笠原諸島父島に入植。
1830年、日本人初の本格的な小笠原諸島入植が始まる。
1830年6月26日、アメリカ人ナサニエル・セイヴァリーら20数名が小笠原諸島父島に入植を開始した。幕府公認でないままの私的入植だったが、後に定住者として島での暮らしを営んだ。初期入植者は食料確保や住居建設に苦労しつつも、独自の共同生活や貿易を試みた。この入植は小笠原の現代社会成立に重要な契機となり、多文化的背景を育む一因となった。父島を拠点に小笠原諸島への外部接触が活発化し、その後の領有権問題にも影響を与えた。
1830年
文政
天保
5月10日
ナサニエル・セイヴァリー
小笠原諸島
父島
1843年
香港の歴史: ヘンリー・ポッティンジャーが初代香港総督に着任。
1843年、ヘンリー・ポッティンジャーが初代香港総督に就任。
1843年6月26日、イギリス東インド会社の外交官ヘンリー・ポッティンジャーが香港の初代総督に任命され、香港島の行政を開始した。翌年には香港の基本行政機構と経済政策を整備し、植民地としての基盤を築いた。彼の治世は貿易港としての香港の発展に重要な役割を果たし、清朝との外交交渉を担当した。治安維持や基礎インフラ整備にも着手し、英国植民地支配の足掛かりを作った。ポッティンジャーの政策は後の香港の繁栄への礎となり、今日でも歴史的評価が高い。
1843年
香港の歴史
香港総督
1848年
パリの六月蜂起が終結。
1848年6月、パリでの民衆蜂起「六月蜂起」が激しい戦闘の末に終息した日。共和政の混乱を象徴する出来事です。
1848年2月の二月革命を経て成立した第二共和政下、労働者や共和派が生活悪化や政治改革を求めて蜂起。
6月23日に勃発した六月蜂起はパリ市内で激しい戦闘が繰り広げられた。
政府は迅速に軍隊を動員し、数日間にわたって鎮圧作戦を実施。
最終的に6月26日に蜂起は終息し、多数の死傷者が出た。
この事件は共和政の脆弱さと社会的緊張を浮き彫りにし、その後のフランス政治に大きな影響を与えた。
1848年
六月蜂起
文久2年5月29日
第二次東禅寺事件。江戸・東禅寺のイギリス仮公使館に警備の松本藩士が侵入しイギリス人水兵2人を殺害。
江戸・東禅寺にあったイギリス仮公使館に松本藩士が侵入し、2人の水兵を殺害した事件が発生した日。攘夷運動の激化を示す象徴的な出来事です。
幕末期の1862年、攘夷思想が高まる中で発生した外交事件。
5月29日(文久2年5月29日)、江戸・東禅寺のイギリス仮公使館に警備担当の松本藩士が侵入。
侵入者は英国水兵2名を殺害し、幕府と諸外国との関係に大きな衝撃を与えた。
事件後、幕府は攘夷派の取り締まりを強化したが、国内対立は一層激化した。
この出来事は幕末の動乱を象徴する事件の一つとして記憶されている。
1862年
文久
5月29日
第二次東禅寺事件
東禅寺