841年

フォントノワの戦いが行われる。

カロリング朝の内戦において、カール2世とルートヴィヒ敬虔王の連合軍がロタール1世率いる軍とフォンテンワ=シュル=ゴエル付近で激突した一戦。
841年6月25日、現フランス北部フォンテンワ=シュル=ゴエル近郊で行われた。 カール2世(西フランク王)とルートヴィヒ敬虔王(東フランク王)が同盟を結び、ロタール1世率いる中フランク王国軍と対峙。 激戦の末、連合軍が勝利を収め、ロタールは撤退を余儀なくされた。 この勝利はカロリング朝領土分割の流れを決定づけ、843年のヴェルダン条約締結へとつながった。 ヨーロッパ中世史における重要な転換点とされる。
841年 フォントノワの戦い
1530年

アウクスブルク信仰告白が神聖ローマ皇帝カール5世に捧げられる。ルター派の信条書の範に。

ルター派の信条をまとめた『アウクスブルク信仰告白』が神聖ローマ皇帝カール5世に提出され、宗教改革の進展に大きな影響を与えた。
1530年6月25日、アウクスブルク帝国議会でフィリップ・メランヒトンらが『アウクスブルク信仰告白』をカール5世に提出。 ルター派の教義や改革要求を明文化し、カトリック教会との対話と対立の基礎となった。 諸侯や都市国家の支持を得てプロテスタント諸派の団結を促進し、宗教改革期の重要文書とされた。 1555年のアウクスブルクの和議による信教自由承認にも寄与し、ヨーロッパの宗教地図を書き換えた。 以降、プロテスタント神学の根幹を成す信条書として尊重され続けている。
1530年 アウクスブルク信仰告白 神聖ローマ皇帝 カール5世 ルター派
寛永18年5月17日

江戸幕府が平戸のオランダ人を長崎の出島に移住させる。

江戸幕府が鎖国政策の一環として平戸のオランダ商館を長崎・出島へ移転し、貿易と情報流出を統制した。
1641年6月25日、江戸幕府はオランダ商館を平戸から長崎湾内の人工島・出島へ移住させた。 鎖国令による外国貿易制限強化策の一環で、出島を孤立した貿易拠点として厳格に管理。 三方を堀で囲まれた設計で、オランダ商人は対面貿易以外の交流を禁止された。 以後、オランダ商館は約200年間にわたり日本唯一の西洋窓口となり、蘭学や西洋文化の受容を促進。 現在、出島跡は長崎の観光名所・歴史保存地区となっている。
1641年 寛永 5月17日 江戸幕府 平戸 出島
1741年

マリア・テレジアがハンガリー王として戴冠。

ハプスブルク家の女帝マリア・テレジアがブダペストでハンガリー王に正式に戴冠され、王国統治を承認された。
1741年6月25日、ハプスブルク家の女帝マリア・テレジアがブダペストでハンガリー王として戴冠。 父カール6世のプラグマティック・サンクションにより女性相続が認められ、王位継承を実現。 戴冠式ではハンガリー貴族の特権承認や課税軽減などを約束し、支持基盤の強化を図った。 この儀式は王国の自治尊重の象徴となり、マリア・テレジアの中欧統治を安定化。 後の七年戦争や内政改革を通じた近代化政策の礎を築いた。
1741年 マリア・テレジア ハンガリー
1788年

バージニアがアメリカ合衆国憲法を批准し、アメリカ合衆国10番目の州となる。

1788年6月25日、バージニア州が合衆国憲法を批准し、人口最大州として正式に連邦の10番目の州に加わった。
アメリカ独立後、1787年9月に制定された連邦憲法は各州の批准を経て発効を目指していた。 1788年6月25日、バージニア州議会は憲法批准を決議し、人口最多州として連邦制度への参加を確定。 批准に際し、ビル・オブ・ライツ(権利章典)の制定要求が強く、これが後の憲法修正第一~第十条となった。 バージニアの批准は必要条件の9州を上回り、同年6月21日に憲法は正式に発効。 これにより中央政府の権限が強化され、合衆国統一国家の礎が固められた。
1788年 バージニア アメリカ合衆国憲法 アメリカ合衆国
文久3年5月10日

下関戦争: 長州藩が下関海峡に碇泊中の米商船に砲撃。

文久3年、長州藩が攘夷派の行動として下関海峡を通行中のアメリカ商船を砲撃した事件。
1863年6月25日(文久3年5月10日)、長州藩は下関海峡を航行するアメリカ商船ヴァクシー号などを砲撃。 幕末の攘夷運動の一環で、外国船の通航を阻止しようとした軍事行動だった。 翌1864年、英仏蘭米連合艦隊による下関砲台攻撃(下関戦争)を招き、藩は大打撃を受けた。 この事態は幕府の開国政策との対立を浮き彫りにし、薩長同盟や討幕運動への転機となった。 長州藩は賠償金支払いのうえ、実務的対応へ転じ、幕末政治に変動をもたらした。
1863年 文久 5月10日 下関戦争 長州藩
慶応2年5月13日

江戸幕府が英仏米蘭と改税約書を締結。

江戸幕府が英仏米蘭4か国と通商条約の関税改定を定めた改税約書を締結し、関税自主権を一部回復した。
1866年6月25日(慶応2年5月13日)、江戸幕府はイギリス・フランス・アメリカ・オランダと改税約書を締結。 安政以来の高率関税拘束を緩和し、日本側に関税自主権の回復を図る条約改定だった。 卸売商保護や国内産業育成を目的とし、幕府財政基盤の強化にも寄与した。 尊攘運動との緊張を抱えつつ、国際的信用獲得と内政安定を狙った政策判断といえる。 後の明治政府による近代的税制整備や富国強兵策の先駆けとなった。
1866年 慶応 5月13日 改税約書
1876年

リトルビッグホーンの戦い。カスター将軍率いる騎兵隊が全滅。

モンタナ州でアメリカ陸軍第7騎兵隊がスー族・シャイアン族連合軍に壊滅させられたリトルビッグホーンの戦い。
1876年6月25日、モンタナ州リトルビッグホーン川付近で第7騎兵隊がスー族とシャイアン族の連合部族と衝突。 ジョージ・アームストロング・カスター将軍率いる約210名の部隊は先制攻撃に失敗し、全滅の憂き目に遭った。 先住民側はレッド・クラウドやクラウチング・バッファローらが指揮を取り、高度な戦術で守りを固めた。 この敗北は「カスターの最後」として大きな衝撃を与え、対インディアン政策の見直しを迫った。 アメリカ西部開拓史における象徴的事件となり、先住民の抵抗運動に新たな視点をもたらした。
1876年 リトルビッグホーンの戦い カスター将軍
1882年

日本初の馬車鉄道・東京馬車鉄道が新橋 日本橋で開業。

日本初の馬車鉄道、東京馬車鉄道が新橋~日本橋間で運行を開始した。
1882年6月25日、日本初の馬車鉄道として東京馬車鉄道が新橋駅と日本橋を結ぶ路線で開業。 狭軌(1067mm)の線路を敷設し、1両あたり約90名を輸送可能とした。 運賃は1マイルあたり4銭で、当時の市民に手軽な市内交通手段を提供。 英国や米国から技術・資本を導入し、近代的都市交通の幕開けを告げた。 その後、路面電車や鉄道網整備への先駆けとして東京の発展に寄与した。
1882年 馬車鉄道 東京馬車鉄道
1884年

上野駅で日本鉄道・上野 高崎(現在の東北本線の一部と高崎線)の開業式を挙行。

日本鉄道が上野駅から高崎駅間(現在の東北本線の一部と高崎線)で開業式を行い、営業を開始した。
1884年6月25日、日本鉄道は上野駅から高崎駅間の鉄道営業を開始し、開業式を上野駅で挙行。 この路線は現在の東北本線(上野~黒磯)および高崎線(上野~高崎)として機能。 蒸気機関車による定時運行により、旅客輸送と物資輸送の効率が飛躍的に向上。 沿線の日暮里、尾久、熊谷、深谷などの地域開発を促進し、地方都市の近代化を支えた。 鉄道網拡大の象徴として、明治期の交通インフラ整備に大きく寄与した。
1884年 上野駅 日本鉄道 東北本線 高崎線
1894年

愛知馬車鉄道(後の名古屋電気鉄道)設立。

愛知馬車鉄道は1894年、名古屋地域に馬車鉄道を敷設する目的で設立されました。
明治時代の産業発展と都市化に伴い、名古屋市内の交通手段として愛知馬車鉄道が誕生しました。 当初は馬車による鉄道を運行し、地域の人々や物資の移動を支えました。 後に電化を進め、名古屋電気鉄道へと発展し、現在の名古屋鉄道グループの基盤となりました。 会社設立は地元経済の活性化に寄与し、近代交通インフラの先駆けとして評価されています。 地域の発展とともに路線網を拡大し、名古屋市の交通史に重要な役割を果たしました。
1894年 名古屋電気鉄道
1894年

高等学校令公布。高等中学校を高等学校に改組。

明治27年に公布された高等学校令により、高等中学校が高等学校に改組されました。
1894年(明治27年)6月25日、教育制度改革の一環として高等学校令が公布されました。 これにより従来の高等中学校は高等学校へと改組され、教育内容や学則が再編されました。 新設の高等学校は大学予科的な役割を果たし、近代的な高等教育機関として位置づけられました。 全国各地に設立された高等学校は、次世代のリーダー育成に寄与すると期待されました。 高等学校令の施行は日本の教育水準向上に大きく貢献し、現代の高等教育制度の礎となりました。
高等学校令 高等中学校 高等学校